第28話

 俺は猫田餅成を卒業した。


 白菊さんの猫としても卒業した。

 高校生になればやるべきことが増える。猫として体を伸ばす時間は取れない。白菊さんの心中が心配だけど、これまで強く生きてきた子だ。彼女なりに気持ちの整理を付けて日常を歩むだろう。


 晴れて俺と孔雀院さんは受験生になった。白菊さんの住居とは別のアパートに部屋を取り、同じテーブルを挟んで受験勉強に励んだ。


 勉強面は不安だらけだったけど、意外と内容を覚えていた。


 正確には、グランアースで学んだことを応用できるのが大きかった。土の成分は違うし、あっちには魔素がある。使われる文字や数字も別だ。


 それでも扱うのは人間。学問には一定の規則性がある。数字にはプラスマイナス虚数があるし、人が考えることは似通っている。積み上げてきたものが似通っていれば、その結果生まれるものもまた類似する。


 時間遡行の魔法を修得する一環で、グランアースで本格的な勉強をしたのが効いている。学生の頃はどうしてこんなものに苦戦していたのか、今となっては分からない。


 反面孔雀院さんは苦戦した。長い間悪霊をしていた影響か、自称元首席の学力が霞んでいる。教科書の内容自体、時代の移り変わりに寄って変わる。数十年前を生きた孔雀院さんが苦戦するのは当たり前だ。 


 整った顔立ちが眉根を寄せる正面で、俺はスラスラ問題集を消化した。

 それが面白くなかったのだろう。時折小さな顔が風船のごとく膨らんだ。

 

 からかったら怒られた。シャーペンを取り上げられて、子供の喧嘩じみたやり取りもした。


 どうも精神年齢が落ちている気がする。この感覚は猫に化けていた時も覚えたが、もしや精神が体に引っ張られているのだろうか。グランアースでは特に意識したことはなかったのに不思議だ。両世界の違いはいくつもあるけど、魔素の濃度が術の精度に影響をもたらしているのだろうか。

 

 気にはなったけど、今はそんなことに時間を費やしている場合じゃない。狙うのは首席入学だ。学者的思考はひとまず置いておいて、やるべきことに集中した。


 満を持して高校受験に臨んだ。

 本命は峯咲学園の高等部だ。


 前に第一志望として掲げた学校とは違う。以前志望した学校は中学生の俺も受験する。同じ容姿をした人間は数人いると聞くが、さすがに同じ学校にいるのはまずい。格好付けて別れを告げた手前、顔を合わせるのはためらわれる。


 何より俺はあの頃とは違う。知識や技術、多くを得てここにいる。本来高校に通う必要すらない。海外にでも飛んで、飛び級で大学に入れば事足りる。


 それでも俺が高校への入学を望むのは、高校での生活模様を知らないからだ。異世界の王として国を運営した経験があっても、少年少女に囲まれて体育祭や文化祭に臨んだ思い出はない。


 俺はそれが欲しい。衣食住を提供してくれた白菊さんに借りを返す意図もある。そのために筆記用具を用いて、ペーパーテストにペン先を走らせた。


 俺は受験に合格した。

 孔雀院さんも受かった。外では涙をこらえていたけど、アパートに戻るなり涙で頬を濡らして泣いた。受かって当然なんて態度だったけど、心の底では不安で仕方なかったに違いない。


 合格を祝って、次の日からは荷造りに臨んだ。勉強漬けの日々を送ったおかげか、日用品を段ボールに詰める作業すら楽しく感じる。思考は入学後のビジョンで満たされている。くちびるの内容物がヘリウムガスと化したように口角が上がる。


 インターホンが鳴った。作業の手を止めて腰を上げ、スリッパで廊下を踏み鳴らす。

 外に続くドアの覗き穴に目を当てる。

 孔雀院さんが前髪をいじっていた。玄関のドアを開けて外の空気を招き入れる。


「どうしたんだ? 孔雀院さん」

「その、お手伝いの手はいらないかと思いまして」

「いらないよ。俺一人でできるからな」

「じゃあわたくしの方を手伝ってくれません?」

「やだ」


 ドアを閉じる。


「門前払いですの!?」


 ドアの向こう側でくぐもった声が上がった。


 意図せず口角が上がる。用がないと互いに訪問しないせいか、この騒がしさが妙に懐かしい。猫として過ごしていた頃は近くに白菊さんがいた。独りなのも影響しているに違いない。


 俺でさえ寂寥感に駆られる。白菊さんが味わっている寂しさはこの比じゃないだろう。小雨がいるから多少孤独は紛れるだろうけど、あれだって人間じゃない。寂しさはどうしたって消せない。


 白菊さんには恩がある。彼女は道具を用意してまで俺を迎えてくれた。入学式を機に再度接触を図るつもりだけど、それまで白菊さんは独りきりだ。そうさせているこの状況が少し心苦しい。

 

 感傷にドアを開ける。ぷんぷんする端正な顔と目が合った。

 ふざけたことを詫びて言葉を重ねる。

 

 孔雀院さんは日用品を詰め込む作業に手間取っているようだ。生前の些事は侍従の女性が行っていたらしく、自分で片付けをしたことがないのだとか。

 

 こんなことに手間取る奴がいるとは思わなかった。流入した記憶からお金持ちの子女なのは分かっていたけど、まさかここまで箱入りだったとは。


 何か予定があるわけじゃない。俺はひんやりとした外気に身を晒して孔雀院さんの後に続く。


 いざ玄関へと思った時、何故か外で待たされた。先にドアの向こう側に消えて数秒後、内側からドアが開けられる。


 出されたスリッパに足を通して華奢な背中の後に続く。

 想像通りと言うべきか、室内は結構な散らかりようだった。

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