第23話

 白菊さんとの話がまとまって、その場はお開きとなった。


 屋根の上に上がるなり、孔雀院さんははしゃいだ。夜のトバリが下りているのに、弾けんばかりの笑顔は花火のように輝いて見えた。


 次の日から、孔雀院さんは朝になるたびに突撃した。ノックするように窓ガラスを小突き、寝ぼけ眼の白菊さんに元気のいいあいさつをぶつけた。

 

 余計な一言二言を付け加えるのは様式美。白菊さんがむっとすることもあったけど、孔雀院さんが少し、ほんの少し自重を身に付けたおかげでトラブルに発展することはなかった。せっかくできた友人を失うことを恐れたに違いない。


 奪うにはまず与えなければならない。グランアースで統治をしていた頃に得た真理だけど、こういう人付き合いにも応用できるようだ。


 俺が期限を持ち出してから、一週間はとうに過ぎた。

 本来なら孔雀院さんの成仏に向けて動く頃合いだけど、嬉しそうな笑顔を前にすると成仏の頃合いとは言い出せなかった。


 成仏の件はひとまず置いておくことにする。俺は俺でなすべきことをなすべく、魔法式をこねくり回す。


 ふわっと甘い香りが香った。視界の隅に金色の髪が垂れる。


「この前から何をしているんですの?」

「術式を組み上げてるんだよ」


 右手を振る。鈍く光る図形が枝分かれして伸長し、新たに形を変える。

 孔雀院さんが大きな目をしばたかせる。


「面白いですわね。ここを触ったらどうなるんですの?」


 しなやかな腕が伸びる。

 俺はパシッと叩いて軌道を逸らした。


「な、何で叩くんですの!?」

「叩かれて当たり前だ。ご飯前にお菓子をつかむ子供じゃあるまいし、少しは考えて動け」

「別にいいでしょう? 減るものじゃあるまいし」

「減るよ⁉ 大いに減るっつーの! こっちは限られた魔力をやりくりして作業してるんだ! この世界で魔力を確保するのがどれだけ大変か知らないだろお前!」


 グランアースでは最強を誇っていたのに、今となってはもう見る影もない。戻って魔力を補給しないと、かつてのような力を得ることは叶わない。


 瞑想して魔力を補給するにも時間がかかる。それだって静かな環境が必要不可欠だ。このうるさい高飛車お嬢様がいる状態では、静かな場所なんて望むべくもない。


「その、お前って言うのやめてくださらない?」

「何で?」

「何でじゃないでしょう? わたくしには孔雀院遠子という名前がありますの。ちゃんと名前で呼んでくれないかしら」

「名前ねぇ」


 気持ちは分からなくはないけど、それは意図して避けてきたことだ。


 名前で呼ぶと情が入る。道具やペットと別れる時に悲しくなるのは愛着が湧いているからだ。経験上、名前を付けると人は愛着を抱きやすくなる傾向がある。


 孔雀院さんは霊。いつかは成仏する。下手に親しくなると別れが辛くなるかもしれない。


「まあ考えとくよ」


 俺は作業に戻る。もう数本線を伸ばして、あぐらをかいて腕を組む。

 必要な術式は編み上がった。後は試行と改善の繰り返しで完成度を上げていくしかない。


 問題なのは、俺自身を実験台にすることのリスクだ。万が一何かが起こった時、魔力欠乏中の俺で対処できるかどうかは分からない。最悪副作用で存在が消える、なんてことも起こり得る。


 一度グランアースに戻るか、あるいはここで都合のいい実験体を探すか。


 安全性を考えると、やはりグランアースに戻った方がいい気もする。魔素がこの世界に流れ込んでも、万全の俺なら大体の事態に対処できる。


 問題は実験体の方。仮に意識が空中分解することになれば、俺の力をもってしてもどうにもならない。俺以外の何かで試運用する方が確実だ。


 思考がまとまらない。これはまた後で考えるか。


「俺はしばらくここを留守にする。お前はこれからどうするんだ?」


 返事がない。俺は振り向いて横目を向ける。

 聞こえなかったのか、孔雀院さんは背を向けて固まっている。


 俺は空気を吸い込む。


「しばらくここを離れるけど、白菊さんと仲良くやれそうか?」

「つーん」

 

 孔雀院さんがよく分からない言葉を発した。つーんって何だ? わさびでも食べたのか?


 屋根から下りてアパートへ向かおうとした刹那、数分前の出来事が脳裏をよぎる。


 孔雀院さんが拗ねる要因に心当たりがある。もしや、俺が名前で呼ぶまで返事をしないつもりか?


 俺は呆れ混じりに目を細める。

 孔雀院さんの我がままを聞くのはしゃくだけど、俺がいない間に白菊さんとの関係がこじれても困る。


 俺は小さく嘆息する。


「孔雀院さん」


 金色の髪が揺れる。整った顔立ちがぱぁーっと華やいだ。流れるように腕を組んで胸を張る。


「何ですの? 仕方ないから聞いて差し上げましょう」

「俺はしばらくここを離れる。妖怪に襲われるかもしれないから、適当に理由を付けて白菊さんの部屋に入れてもらえ。一応小雨にも伝えておくから、大人しく待ってるんだぞ」

「いいでしょう、それくらいの我がままなら聞いて差し上げますわ」

「はいはい」


 できることは言った。最近は態度に改善も見られるし、後は適当にやるだろう。


「ねえ」

「ん?」

「あなたはどうして、わたくしのためにそこまでしてくれますの?」

「何だ突然」

「だって、会った当初はわたくしのこと嫌いだったでしょう?」

「ああ」

「ひどいですわっ⁉」


 大きな目が見開かれる。

 どこに驚く要素があったんだろう。ひどく妥当な評価だろうに。


「自分で言っておいて過剰な反応をするなよ。要するに、心当たりがないのに優しくされたから不安になったってことだな?」

「ええ、まさにその通りです」

「そうか。分かった、以後厳しくしよう」

「やめてくれません!?」

「冗談はさておき、過去をやり直したいって気持ちに共感したからだよ。俺も色々あって、満足いく青春を送れなかったんだ」

「そう、でしたの。あなたも色々大変でしたのね」


 小さな顔からうるさい表情が鳴りを潜める。

 憐れんでいるのだろうか。あの高飛車お嬢様が他者を気に掛けるなんて、短い間にずいぶんと成長したものだ。


 神妙な表情から一転、自信に満ち溢れた笑みが浮かぶ。


「事情は把握しました。わたくしにできることがあったら何でも言いなさい。手を貸して差し上げますわ」

「いいよ別に」

「何を言いますの! 借りを作ったままでは、この孔雀院遠子の名がすたります。遠慮することはありません。さあ、何でも言ってみなさいな」

「何でもねぇ……」


 そんなこと言われても、孔雀院さんにできることなんて何も……。


「……あったな、そういえば」

「本当ですの? ならば話しなさい。この孔雀院遠子に二言はありません」


 無駄に自信満々だ。これはちょっとやそっとじゃ引き下がりそうにない。どのみち冗談みたいな境遇だ。洗いざらい吐き出しても問題はないだろう。いざとなれば、話の流れで全部冗談だったことにすればいい。


 俺は今に至るまでの経緯を簡単に語る。

 意外にも、孔雀院さんは大人しく話を聞いてくれた。


「物語みたいな話ですけれど、本当のことですの?」

「ああ、本当だよ」

「ふむ……」


 孔雀院さんがまぶたを閉じる。口が引き結ばれ、腕に乗った繊細な指に力がこもる。


 まつ毛長いなぁと思っていると、おもむろにまぶたが上がる。


「いい、ですわよ」

「いいって何が」

「だから、わたくしがその実験台になって上げてもよろしくてよ」


 思わず目を見開いた。


「正気か? 魔法が失敗したらどうなるか分からないんだぞ?」

「構いませんわ。その代わりと言っては何ですが、交換条件を呑んでくださらない?」

「交換条件?」

「ええ。仮に魔法でわたくしの存在が世界に根付いたら、わたくしが女学生として生きることを認めてほしいのです」


 俺は目をぱちくりさせる。

 そう来たかという合点と驚き。そして眼前にいる少女が、お金持ちの子女だったことを思い出す。


 正直頭の弱い子だと侮っていたけど、考えてみれば孔雀院さんはお嬢様だ。社交界での駆け引きを経験していてもおかしくない。


 だったら、態度はもうちょっとどうにかならなかったのだろうか。それとも周りが日常的にへりくだるくらい家柄が凄かったのか。家柄が豊かなのは良いことだけど、極端なのも子供に悪影響があるようだ。


「やっと白菊さんと仲良くなれたのに、全部台無しになるかもしれない。それでもいいのか?」

「構いません。どのみち、こんな体じゃできることなんて知れています。白菊さんと高校に通える可能性があるのなら、私はそれに賭けてみたいのです」


 力強い眼差しを向けられる。

 今までの子供じみた雰囲気とは比べ物にならない覇気だ。生半可な覚悟で口にしたわけじゃないことがうかがえる。


 孔雀院さんは過去の人物だ。孔雀院遠子という人物は存在しない。

 彼女のことをよく知っている人物はとっくに墓の下。受肉して外を歩いても誰にも気付かれないし、白菊さんとのやり取りで性格には改善が見られる。実験体にするにあたって、これ以上の逸材はいない。


「……分かった。魔法が成功したあかつきには、孔雀院さんが学園に通えるように取り計らおう」

 

 孔雀院さんの口角が跳ね上がる。


「ありがとうございます! この恩は受肉しても忘れませんわ!」


 俺は話をまとめて例のアパートへ向かう。グランアースへ続く扉を開け放ち、久しぶりに異空間へと踏み出した。

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