第2話 初夜・2


 やっと、湯に入ることになった。

 随分と待たされたはしたが、わざわざ新しい湯に変えてくれたのだ。


 マツを怖れていた受付嬢やメイド達も、顔こそ真剣そのものだったが、楽しそうにしていた。これを機会に、皆とマツの距離が縮まってくれれば、と思う。


 湯殿には柚子の香りが立ち込めている。

 わざわざ、新しい湯にしてくれて、柚子湯にしてくれたのだ。


「ふう・・・」


 湯船に浸かると、一気に疲れが押し寄せてきた。

 今日も一日、本当に忙しかった。


 マツとの稽古で身体中が疲れ、皆のマツへの挨拶で気も疲れ、泣き腫らすマツを抱え・・・


 ここ数日、ゆっくりした日はなかった。

 これほどの事はそうそうないだろうが、この先、旅の最中、気を抜いて休めることはないだろう。剣を交えることはなくても、気疲れには気を付けなければ・・・


 と、考えていると、がらり、と戸が開く音。


(む)


 貸し切りにしてくれたはず。

 メイドなら声を掛けてくる。

 武器は外。


 マサヒデは足元に気を付けて、すっと音もなく湯から上がり、桶を手に取って、手拭いを湯につける。濡れた手拭いは武器になる。


「トミヤス様。オオタです」


(オオタ様?)


「薬酒をお持ちしました。こちらへ置いておきますので、一口だけ、湯船でおあがり下さい」


「酒ですか?」


「はい。薬酒です。湯船の中でどうぞ。一気に身体に回り、疲れが癒えます」


「これは・・・ありがとうございます」


「湯の中では酔いが回りやすい。必ず一口だけでお済ませ下さい」


「分かりました。お気遣い、感謝します」


「それでは」


 がらりと音がして、オオタは出て行った。

 浴室の戸を開けると、盆の上に、透明なガラス瓶に入った濃い茶色の酒と、お猪口がある。

 マサヒデの、ここ数日の忙しさを気遣ってくれたのだろう。

 オオタ本人も、相当な忙しさであろうに・・・

 オオタには、初めて会った時から、本当に良くしてもらっている。


(ありがとうございます)


 心の中でオオタに頭を下げ、お猪口に酒をついだ。

 言われた通り、湯船に戻り、ぐい・・・と飲み干そうとしたが・・・


「げふっ!」


 べちゃっ! と、吐き出された酒が湯の上で跳ねた。

 すごい味と匂いだ。これは毒だと言われても分かるまい。

 むせてしまい、ほとんど口から出てしまった。

 酒ではなく、恐ろしく濃い漢方薬を液体にして、口の中に入れたような感じだ。

 喉から鼻まで、すごい匂いが通って、鼻の奥がつんと痛む。


(これは、気合を入れて飲まねば・・・)


 戸に戻り、お猪口にもう一度つぐ。

 湯船に浸かり、鼻をつまんで流し込む。


「ごほっ! ごほっ!」


 飲み込めはしたが、やはりむせてしまった。

 これはすごい味だ。


 が、しばらくして落ち着くと、胃の方から身体全体に向けて、はっきりと温まってきたのを感じる。


(おお、すごい)


 湯で温まるだけではなく、じわじわと身体の中からも温まってくる。

 これは疲れも癒えそうだ。


(オオタ様、ありがとうございます)


 マサヒデはちょこんと湯船の端にお猪口を置いて、肩を沈めた。


----------


 湯殿から出ると、ちょうどマツも上がった所だったのだろう、廊下の少し前でこちらを振り向いた。

 少し甘い匂いがする。きっと、メイド達と話していた香りだろう。


「あ、マサヒデ様!?」


「マツさん。ちょうど良かった」


「あ、あの・・・あら、それは?」


 盆に載せた、薬酒だ。


「ああ、これ、薬酒だそうで。オオタ様が持ってきてくれたんです。疲れが取れるんですって」


「薬酒、ですか・・・」


 まじまじと、マツが瓶を見つめている。


「せっかくですから、マツさんも頂いてみますか? すごい味でしたよ」


「頂いてみます」


「一口だけ、とオオタ様から厳しく言われました。きっと、酒というより、強い薬に近いものなんでしょうね」


「分かりました。では、一口だけ」


 マツはお猪口に少しだけ薬酒をついで、くんくんと匂いをかぎ「ん?」という顔をして首をかしげ、ぺろっと舌を出して少し舐め、目を見開いた。


「あ・・・こ、これ・・・これ! もしかして!?」


 何だか分からないが、ものすごく驚いている。

 もしかして、すごい薬酒なのだろうか?


「あの、これって、高いものなんですか?」


「ええ、おそらく・・・よく手に入りましたね・・・」


 マツは眉を寄せ、顎に手を当てて、しかめっ面をしている。


「そんなに珍しい物なんですか?」


「ええ・・・マサヒデ様、これ、もうお飲みになったんですよね?」


「はい」


「急に、疲れが取れた感じがしませんでした?」


「ええ、その通りです」


「・・・」


 マツはじっと酒を見て、真剣な顔をしている。


「あの、どうされました?」


「これ、金を積めば買える、というものではありません。恐ろしく貴重な薬が使われていますね・・・私も、本で見たことがあるだけで・・・おそらく、父もほとんど飲んだことはないのでは・・・」


「え!?」


 驚いて、盆を落としそうになった。

 魔王様ほど長命な方でも、ほとんど飲んだことがない酒。

 それを、味に驚いて最初の一杯を吐いてしまった・・・


「ど、どうしましょう!? 私、味に驚いて、最初の一杯、むせて、吐き出してしまって!」


「え!? なんてことを!」


「マ、マツさん、どうしましょう!? オオタ様に何とお詫びしたら!」


 騒ぎに気付いて、メイドが駆けつけて来た。


「どうなさいました?」


 マサヒデは蒼白な顔で、


「あの、これ、オオタ様から頂いたんですけど、何かすごく珍しい物らしくて、むせてしまって! それで、私! ど、ど、どうしましょう!?」


「オオタ様が?」


「はい、はい! オオタ様から!」


「少々お待ち下さい」


 しばらくして、オオタが歩いてきた。


「トミヤス様、どうなさいました」


「オ、オオタ様。すみません! この酒、すごく珍しい物とは知らず、私、味に驚いてしまって、むせてしまって!」


「ははは! 味に驚いて、吐き出してしまいましたか!」


「は、はい・・・申し訳ありません・・・」


「はーっはっは! 構いませんとも。それはもうトミヤス様の物。お気になさらず」


「・・・」


「それは私からの、ご結婚祝いの品ということで。お二方、好きに飲んで下さい」


 マツも驚いた顔で、お猪口を手にしたままオオタを見ている。

 その手は細かく震えている・・・

 やはり、恐ろしく珍しい物らしい。


「こ、こ、こんな珍しいものを・・・」


 そのマツの顔を見て、オオタは吹き出した。


「ぷー! くくく、あーっはっは! こんなに驚いたマツ様を見るのは初めてですな! こんなマツ様が見られただけで、お贈りした甲斐があったというもの。さ、マツ様。ぐいっと」


 マツはごくり、と喉を鳴らし、手を震わせながら、お猪口を口に運び、意を決したように、ぐっ! と飲み込んだ。


「ん! んー! ・・・ぐっ、けほっ! けほっ」


 吐き出しはしなかったが、やはりむせてしまい、前のめりになって、目に涙を浮かべている。


「いかがでしたかな? このオオタ秘蔵の酒は」


 マツは涙目でオオタを見上げ、


「その、さすがというか、強烈なお味で・・・」


 と言って、口を押さえている。

 オオタはそんなマツとマサヒデを順に見た後、急に真面目な顔で言った。


「私は『良い酒ほど飲まれる相手を選ぶ』と思っています。この酒、しまったままでずっと忘れていましたが、つい先程、急に思い出したのです。この酒はきっと、お二方に飲んでもらう為、今までずっと待っていたのでしょう」


「酒が、飲まれる相手を選ぶ?」


「その通り。トミヤス様もマツ様も、もう少し色々と飲めば、すぐに分かるようになります。その酒、大事に飲んでやって下さい」


 オオタはいつもの笑顔に戻った。


「分かりました。まだ酒の味も分からない若輩者ですが、オオタ様の好意、ありがたく、頂戴致します!」


「ありがとうございます。さて、湯冷めしてはいけませんからな。お早めに」


 オオタはマツの方を向いて、笑顔で、こくり、と頷いた。

 マツは、ぼん! と頭から湯気が吹き出しそうな勢いで、真っ赤な顔になった。

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