第17話 特別な名前。


 ……俺の家に泊まる?


 その突然の提案に俺の脳は軽くフリーズする。

 

 てっきり、夕食を作ってくれるだけかと思っていたのに。


 ……思い返してみれば、今日はいつもと違うカバンだったな。あの中にはお泊まりセットが入っていたってことか。


「お邪魔しまーす」


 呆然と立ち尽くす俺を無視し、いつものようにサラッと玄関を開ける鳴海さん。なんでそんなに平然としているんですかね……?


「いらっしゃい〜。早かったわね真凛ちゃん」


 奥からパタパタと足音を立てながら母さんがやってきて、鳴海さんを出迎える。まるで今日鳴海さんがやってくることを知っていたかのよう。


「うん。相良くんが買い物を手伝ってくれたから」


 すっかり仲良くなった二人は、こうやって気兼ねなく話すようになった。確か初めて家に来た次の日にはこんな感じだったっけ。よほど相性が良かったらしい。


「あら、そうなの。……それで、律はどこにいるのかしら」


「あそこで固まってます」


 振り返り俺を指差す鳴海さん。


 ……あの感じだと、母さんもこのことを知っていたに違いない。計画的犯行というわけか。というか、もしかしたら母さんから提案したと言う可能性もありそうだけど。


「律、なにボーッとしてるの。早く真凛ちゃんを案内しないと」


「あ、ああ、うん」


 こうなってしまったら俺にはもうどうすることもできない。


 ……いや、別に鳴海さんが泊まることがイヤなわけじゃないんだけど、あまりに急すぎたというか。


 それに、鳴海さんと母さんは仲がいいし、積もる話もあるだろう。


 いやでも、父さんはしばらく出張でいないから、今日は男は俺だけだった。……大丈夫かな。


「……ただいま、母さん」


 ……いまさら考えても仕方ない。なるようになれ、だ。


「はい、おかえり。真凛ちゃんも」


「ただいまです」


 そんなやりとりをして家に入る。すっかり鳴海さんもこの家に馴染んだなぁ、なんて考えながら。


 ◇◇◇


「それじゃ、今からご飯作るから。相良はリビングで待っておいてね」


 母さんのお下がりのエプロンを着た鳴海さんが、長い黒髪をポニーテールにまとめながら言う。


 いつもと違う雰囲気の鳴海さん。なんていうか、家庭的で柔らかい雰囲気だ。


 俺は言われた通りに、リビングのソファで料理が出来上がるのを大人しく待つことにする。やることもないのでスマホで花梨ちゃんの配信でも見ようと思ったけど、なんとなく鳴海さんに悪い気がしてやめた。


 しばらくすると、焼き魚の焼けるいい匂いが漂ってくる。


 キッチンに目をやると、鳴海さんと母さんが楽しく談笑しながら料理をしていた。会話の内容は、今流行りのファッションやコスメの話。聞き慣れない単語が飛び交っている。


 ――まるで本当の親子みたいだな。


 俺はどちらかというと父親に似ているからな……。性格やらなにやらも。


「律〜、ちょっときて〜」


 そんなことを考えながら二人を眺めていると、母さんが俺を呼ぶ。


「ちょっと味見してみて。相良の好みの味付けにしてみたつもりなんだけど」


 お玉を片手にした鳴海さんが、肉じゃがをお皿に取って俺に差し出す。それを受け取り、一口。


「……うまっ! めちゃくちゃ美味しいよ、鳴海さん!」


 甘めに味付けされたホクホクのジャガイモとひき肉が、口の中で一つになる。どこか懐かしい、そんな味だ。


「よかった。相良は甘めの味付けが好きなんだね」


 ふふ、と嬉しそうに微笑む鳴海さんと、そんな俺たちを優しく見つめている母さん。……少し気恥ずかしい。


「ね、真凛ちゃん。私も相良なんだけど、ややこしいと思わない?」


 すると母さんが突然そんなことを言い出す。あの顔はなにか企んでいる顔だ。


「たしかに。澪さんも相良だもんね」


「……だからさ、名前で呼んでみたらどう? 律、って」


 母さんがウィンクをしながら軽い調子で言う。それを聞いた鳴海さんは「た、たしかに……」と頷く。


 ……言われてみればたしかにそうかも。俺の家族は全員相良だし。


 そして、こちらを振り向く鳴海さん。その表情はいつものクールな表情ではなく、すごく不安そうだった。


「……り、り……」


 俯きながら、消え入りそうな声で呟かれかれた声。


 今まで見たことのないそんな鳴海さんを見て、俺の気持ちが強く動かされる。


 ――こんな時くらい動かないでどうする……!


「ま、真凛……」


 ……い、言えた。


「えっ……?」


 めちゃくちゃ小さい声だったからか、鳴海さんが聞き返す。


「……真凛。いつもありがとう。こんな俺と仲良くしてくれて。真凛のおかげで、毎日楽しいよ」


 ……今度ははっきりと、鳴海さんを見つめながら言う。紛れもない俺の本心。


 すると、みるみるうちにその顔が赤く染まっていく。その感情は恥ずかしさか驚きか、それとも……。


「り、律……?」


 なぜか疑問系で俺の名前を呼ぶ鳴海さん。


 いつも母さんから呼ばれるその名前が、すごく特別なものに感じられる。名前を呼ばれただけでこんな暖かい気持ちになるのは鳴海さん……いや、真凛だからなんだろう。


「ふふふ。たまには律もやるじゃない」


 そんな俺たちの初々しいやりとりを黙って見ていた母さんが、優しく微笑みながら言う。たまには、か……。


 でも、そのが真凛に伝えられたことが何より嬉しい。


「りつ……律……」


 確かめるように、何度も繰り返し俺の名前を呼ぶ真凛。


 そして顔を上げ、俺の顔をしっかりと見つめて……。


「……律のくせに生意気」


 いつもと同じ、揶揄ったような口調。


 ――何度も繰り返された、でもいつもとは違うその言葉に、俺の心はドキリと強く跳ねるのだった。

 

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