第8話 英学発心


 よれた声音で弥助を呼び止めたのは二十四、五歳ほどの男。町にあふれる人足ではない。

 背が高く、歩きやすい袴姿だったが顔つきは穏やかだ。武士というより学問でもしていそうな感じだった。


「開いた港の様子を見に来たものの……そこらの店の文字も読めん。江戸で学んだ蘭学がまったく役に立たんとは。やはり世界はイギリスやアメリカの言葉でないと駄目なのか。それともフランスか」

「えーと……すみません俺にはあれがどこの言葉だとかはわからないんですが」


 すがりつかんばかりの男にまくしたてられ、弥助は困り顔だった。その答えに男がハタとなる。


「わからん、と?」

「はあ。よく言われる挨拶とか数を覚えたぐらいで……あとは身ぶり手ぶりです」

「ぐぅ……実学に勝るものなし、か」


 がっくりと肩を落とされ、弥助は思案したようだ。なんとか力になってやりたいのだろう。


「今のはイギリス二番のロレイロさんで……蘭学ですか。俺はオランダの人とも同じに話してるんですけど」

「オランダ商人! うん、もちろんいるはずだ。彼らとなら話が通じるだろう。店は出しているかね」

「ええと……あそこ、キニッフルさんがオランダです」


 キョロキョロとした弥助の指差す先に望みを見出だしたかのように、男の表情が輝いた。


「かたじけない! 君は商家の丁稚か何かかな。いいかい、今後港で商いするなら必要なのはイギリス語、英語だぞ! 学問を大事にしたまえ!」

「はあ」


 バシバシと弥助の背を叩いて男は行ってしまった。嵐のようで、弥助は首をひねった。何だったんだ今のは。

 一部始終を見ていた弁天はたまらずに笑い出した。そのまま弥助に歩み寄る。


「久しいね、弥助」

「え、あの」


 知らぬ男を見送ったら今度は二人連れにまで話し掛けられ、弥助は慌てた。しかも名を呼ばれたのだ、誰だっけと必死で考えているのがよくわかり、弁天は頭を撫でてやりたくなった。背は伸びたがまだまだ可愛い。


「ずいぶん大きくなった。弁天さんも、きっと喜んでいるよ」

「弁天さま――あ!」


 思い出したらしく、弥助は弁天を見つめ直した。ふと恥ずかしそうにしたのは、小夜の帰宅を願ったのを知る人が現れたからか。結局あれ以来、小夜一家は根岸村から戻らなかったのだが。


「異人さんとお話できるんだ?」

「あー、いえ、難しいことは買弁ばいべん任せなので。せめて挨拶ぐらいすると感じがいいかなと」


 買弁は商取引での通訳だ。今の横濵港で活動しているのは主に清国人。

 にわかに貿易をするぞと決めたところで互いに言葉も商習慣もわからない。そこで欧米との取引に慣れていて日本人と筆談で通じる清国人が間に立っているのだった。おかげで横濵には西洋人だけでなく弁髪の東洋人も増えている。


「どんな言葉がある? さっきは何を言われたの」

「え、ええと。明日またうちに来る、みたいなことだと思います。明日ってのはなんです。幾らと尋ねるのはで」


 弁天はその不思議な響きにあははと笑ってしまった。


「おかしな言葉!」

「面白いですよね! 俺、せっかく異人に会えるんだから異国のことを知りたくて」


 はきはきと答える弥助が頼もしくて弁天は微笑みながらうなずいた。村の子がこんな風に思ってくれるなら、景色が跡形もなく変わるのも悪いことばかりではない。


「……立派になったね、弥助」

「そんなことないです。あ、あのう、父や伯父のお知り合いなんですか? 俺まったくあなたを存じ上げなくて失礼を」

「ああ」


 言われて弁天はポンと手を叩いた。これはこちらが申し訳なかった。もじもじする弥助の気持ちはよくわかる。一方的に話し掛けられていて、弁天たちが何者か知らないのだ。

 だが人ならざる者だと明かすべきではなかろう。そう考えたら横から宇賀が口を出した。


沙羅さらさま」


 弁財天はサラスヴァティ。だから宇賀は外で名が必要になると主を沙羅と呼ぶ。弁天は平然と応えた。


「ん、もう行く?」

「そうですね。弥助、沙羅さまは増徳院にお住まいです。私は宇賀。中山の方々は私たちのことはご存知ないと思いますよ」

「あ、はい」


 最低限のことだけを淡々と教え、宇賀は目を伏せ控えた。こんな供を連れているのだからどこかの名主につながる人か、武家の姫が保養に来ているかと弥助は考えた。何にせよ根掘り葉掘りは失礼だ。


「宇賀のはぶっきらぼうだけど、悪く思わないで」


 ふふふ、と小さく笑う弁天が高貴で美しく、弥助はかちんと真っ直ぐになった。


「とんでもないです。俺こそ失礼しました」

「ううん。呼び止めてすまなかったね」


 それじゃ、と踵を返した弁天は笑顔だった。後ろで弥助が去るのをうかがいながら、つぶやいてみる。


「ばーい」

「あ、またすぐ。新しい物が好きなんですから」

「ふふふーん。これは英語なのかなあ」


 弥助は別れの挨拶として口にしていたようだった。これぐらいなら弁天でもすぐ覚えられる。

 先ほど蘭学が役に立たないと嘆いていた男はこれから必死で英語を学ぶのだろうか。

 彼にしろ弥助にしろ、新しい世を生きるために新しいことを知りたがる者たちは、皆どこか楽しそうだ。今の横濵はそんな人々であふれているのだから、弁天だって英語のひとつやふたつ話してもいいと思う。


「まあ我は、言葉よりもさ」

「何です」

「イギリス? の美味しい物を食べてみたいかな」


 これからは英語だと言われるほどの国だ。きっと美食三昧があるのではないか。

 いずれ異人が食べ物屋を開いてくれることもあるだろう、と弁天は気長に待つことにした。


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