第16話 苦悩と復讐

 テレーズが何も感じないように心を消していると、足音が止まった。衣擦れの音がした。だが、しばらくしても何も近づいてこない。

 小さな淡い嗚咽が聞こえる。


「……誰?」


 自分の声がかすれて空気と同化していた。だから相手には聞こえなかっただろう。嗚咽はずっと続いていた。だが、少しだけ鼻をすする音がした後、懐かしい声が聞こえた。


「よくぞ、お戻りで、テレーズ殿下」


 夢だ、とテレーズは胸が張り裂けそうになった。レオンの声が聞こえるなどあり得ない。自分はいい加減、目覚めたら心を痛めつけるだけの夢を見るのをやめたらどうなのだ。


 動かしづらい首を巡らして声の方を見ると、寝台に垂れる薄絹のカーテン越しに、レオンが礼装をして跪いて礼をしていた。殊勝しゅしょうをしている。


 指を伸ばして、薄絹のカーテンを開いた。彼は翡翠色の瞳を哀しみに染めて、テレーズに駆け寄ってきた。カーテンごとテレーズの傷だらけの手を握りしめ、涙で濡れそぼった彼の頬に当ててきた。


「……テレーズ様」


 テレーズは、彼の心が張り裂けていると自分にはわかってしまう、その悲痛な小さな声を聞きながら、まぶたを閉じた。

 

 カトライアから奪還されたテレーズは一ヶ月ほど眠り続けた。

 医者が集められ、治療に当たったおかげで瀕死の状態からは脱することができたが、密かにグレイユルから首都に近い保養地、キャメリアへ移された。レオンはずっとそれに付き従った。


 ***


 テレーズが危機的状態を脱したので、久しぶりにレオンは一時的に実家に帰ってきた。王宮、ヴィニュロー公爵邸に戻り、必要なものを旅行鞄に詰める。こういうのは、侍女にやらせると肌着を盗まれることがあるから、執事や男の使用人に行わせている。


 ——テレーズ様のところに住めればいいんだが。


 母にテレーズが殺されるかもしれない、と本気で震えていると、母の静かな、だがしかし、しっかりとした声が聞こえてきた。

 客なんか来ていたんだ、と客間を覗けば、意外な人物がいることに息を呑んだ。

 スリゼー公爵だった。端整な面持ちは、もうこんなところに来たくない、という表情で染まっている。だが、筆頭王女マダム・ロワイヤルたる母の厳命があれば、顔を見せにこざるを得ない。

 母は激昂していた。


「我が国の第一王女、テレーズ殿下をあんな北の野蛮なものどもに手渡したのはそなたでしょう?」


 スリゼー公爵は静かに黙っている。


「そのさざなみ一つ心には立たぬといった風情の顔が小憎らしい! ああ。そうでしたね」


 盗み聞きしているだけのはずなのに、母の鋭い追及にレオンは顔を背けた。


「王妃殿下がご懐妊の兆しあるとか。おかしい話ですねえ。国王陛下は最近病に倒れられ、王妃の相手などできないでしょうに。よもや、そなた、……そなたは王妃に近侍していましたね。王妃殿下がどなたと通じてお子をおつくりになったか、ご存知でしょう?」

「それは当然、国王陛下でしょう?」


 そのスリゼー公爵の声に何も不審なところはないし、王妃が妊娠していたなど、レオンは初めて聞いた。であればテレーズを迎えに遠出などさせないはずだろう。王妃が行きたがっても誰かが止めるはず。


 畢竟ひっきょう、王妃は妊娠などしていない。これから、病がちの国王に急いて妊娠させるのだ。病弱な王を案ずるゆえに、妊娠させるなら王妃に男でもけしかけろ、と言った父の意図には反するだろう。だが、母は倫理的にそれは許せないらしい。意味不明だ。


 父はまだしも母を理解することを、レオンはやめてしまっている。


 母はすでに、スリゼー公爵と王妃がただならぬ関係にあるという噂を、社交界中に撒いている。そして生まれた子は不義の子。玉座を継ぐ資格など得られるはずもない。スリゼー公爵は不忠の奸臣。国王の目を盗んで王妃と通じ、自分のいいように国政を牛耳っている、と。


 それが母と父の筋書き。スリゼー公爵と王妃によって息子が婚約破棄されてしまったことの薄暗い復讐。そして息子が玉座に座る為の念押しだ。


 予断は許さない状態のテレーズに何も危害が加わらないようにしなければ、とレオンはそっと実家を離れた。自分がいると気づいたら、そばにいて欲しいと涙ながらに訴える、母に捕まらないように。

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