第10話 賢者の誘惑

 数日後、宮殿を出てテレーズは散歩していた。レオンの所へは行かない。ヴィニュロー公爵邸には赴かない。


 お忍びでエリザベートを連れて、派手好きな父親が作った大きな運河を見に行った。水面は鉄紺てつこんの色をして揺蕩たゆたう。まるで砂金を隠しているかのように、あちこちで、きらり、きらり、と小さな波が光る。


「おさかないっぱい」

「お魚もいるのね。お父さまったら本気で河を作るおつもりだったの?」


 姉妹でお揃いの大きな日除けの帽子をかぶり、手をつないで運河の水面を指さしている様子は、通行人たちを笑ませた。姉妹の正体に気づかぬものは蔑まれたが、姉妹の正体をあえて口にしようとするものは、さらに蔑まれた。


 お忍びの姉妹の目の前に、鮮やかな花緑青はなろくしょう色の乗馬用ドレスを着た金髪の女が、まるで紳士のように大げさに優雅に跪いた。王妃だった。王妃の横には、スリゼー公爵がいた。


「二人とも、特にお姉さんのほうにお話があるのですが」


 王妃はそういうと、乗ってきた馬車のなかに、テレーズとエリザベートを入れた。

 馬車の中で、王妃が深刻な表情をした。


「テレーズ、あのね。シャルロットを説得してほしいの」

「どういうことですか?」

「シャルロットをカトライアに嫁がせようと思うの。でも、あの子、嫌がっちゃって」


 カトライアとの難しい情勢はテレーズも聞き及んでいた。その情勢の中では王女の誰かがカトライア王に嫁ぐしかないということも。すぐ下の妹は性格上、難しい責務を嫌がるだろうということも想像がついた。


「……そうですか」


 どうやって説得すればいいだろう。思いを巡らしているとき、スリゼー公爵が、端正な顔に少しだけ諧謔かいぎゃくを浮かべて言った。


「別に、テレーズ殿下がカトライアに嫁いで頂いてもよろしいのですよ」

「ちょっと、オーギュスト!」


 王妃がスリゼー公爵を睨んだ。だが、怜悧な公爵は、小さなエリザベートにお菓子を差し出しながら言った。


「だって、カトライア王はきっと第二王女より第一王女を差し出されたほうが、我が国からより尊重されていると感じると思いますよ。それに、――テレーズ殿下、本当はヴィニュロー公爵家に嫁ぐのがおいやでしょう。逃げません?」


 当代の「王の賢者スリゼー公爵」はすべてを看破していた。


「……待って。テレーズとヴィニュロー公子は仲睦まじいわ。二人を引き裂くというの?」


 王妃の言葉に、スリゼー公爵は微笑みを返す。


「昨年のマルグリット夫人の事件がございます。ご自身も、大切な妹ぎみも被害にあったのです。これで未来の義母としてのマルグリット夫人に不信を抱かぬ婚前の娘はおりますまい。それに、ヴィニュロー公爵家のレオン殿。彼は――」


 信じられないことを、その賢者の口からきいた。


「女性を惑わす美貌をお持ちの方。ヴィニュロー公爵家に仕える侍女はもちろん、宮廷の貴婦人が幾人もあの方の美貌に狂わされております。優雅にして華麗、文武両道の次期国王候補、まさに社交界の華。直近で有名なのが、リュファン伯爵令嬢という女性がおりまして。結婚を数か月後に控えた女性でありながらレオン殿と破滅的な関係を結ばれた。けれどもレオン殿は数日前に突然大喧嘩して、飽きてしまわれたようです」


 スリゼー公爵は意味ありげな視線をテレーズに向けた。


「おそらく結婚より独身の貴公子のままのほうが、お幸せでしょうね。彼は」

「知ってるわ。もう何も言わないで」

「テレーズ」


 善良な王妃は息を引いた。そして、抱きしめてくる。


 抱きしめられるべきことだったのだ、とテレーズは心が荒涼とした。スリゼー公爵はその荒地に誘惑の雨を降らせた。


「君臣皆が望んでおります。テレーズ殿下。国王陛下は、シャルロット殿下の嘆きように、テレーズのほうが良いかもしれないとぼやいておいででした。臣下一同、テレーズ殿下のご聡明さが、両国の関係の安定に生かされることを願っております」

「じゃあ、わたしがカトライアに行けば、皆納得するわね。レオンもわたしを厄介払いできるわ」


 気づけば、テレーズはそう言って肩を竦めていた。王妃が、ヴィニュロー公爵邸の方角へ向かって睨んでいた。

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