輪廻転生のバランス(考)

森本 晃次

第1話 いくつある?

この物語はフィクションであり、登場する人物、団体、場面、設定等はすべて作者の創作であります。似たような事件や事例もあるかも知れませんが、あくまでフィクションであります。それに対して書かれた意見は作者の個人的な意見であり、一般的な意見と一致しないかも知れないことを記します。今回もかなり湾曲した発想があるかも知れませんので、よろしくです。また専門知識等はネットにて情報を検索いたしております。呼称等は、敢えて昔の呼び方にしているので、それもご了承ください。(看護婦、婦警等)当時の世相や作者の憤りをあからさまに書いていますが、共感してもらえることだと思い、敢えて書きました。ちなみに世界情勢は、令和5年1月時点のものです。いつものことですが、似たような事件があっても、それはあくまでも、フィクションでしかありません、ただ、フィクションに対しての意見は、国民の総意に近いと思っています。


 今に限らず昔からあるものに

「ネット通販なるもの」

 であったり、テレビなどであるものとして、

「いろいろな鑑定をしてくれる」

 という番組があったりする。

 正直、そのどちらも、

「何が楽しいというのだ?」

 と感じていることも多い。

 特に言えば、ネット通販などでいえば、

「確かに便利でいい」

 というのもあるが、昔のネットがなかった時代から、テレビで宣伝して、

「お電話お待ちしています」

 などというのを音楽につけて流して、印象付けている番組もあった。

 今では、いろいろなところのネット通販が増えてきて、テレビだけではなく、配信動画でもやっていることが多いだろう。

 少し前であれば、まぁ、今もそうなのだが、

「名物社長」

 のような人が出てきて、自分から商品を売るということを、率先してやっている。その社長が物まねされたり、人気番組で取り上げられたりすると、結構、それに反応する客も多いだろう。

 一時期、

「依存症」

 というものが大きな問題になった時期があったりしたが、それも、

「ギャンブル」

 にしても、

「アルコール」

 にしてもそうだが、この、

「買い物依存症」

 というのは、他二つと、

「似て非なるもの」

 とでもいうべきで、ある意味、

「決して、一緒くたに考えてはいけないものではないか?」

 と考えるようになった。

 確かに、アルコールなどというのは、それだけには、効果は発揮しないが、自分の中にある何かを引き出すという意味で、

「アルコールの力を借りる」

 という意味で、起爆剤のようなものではないだろうか?

「ギャンブル」

「買い物」

 というのは、さらに能動的で自分の中にある、

「楽しさ」

 という概念を引き出すことを、ギャンブルにしても、買い物にしても与えてくれる。

 だから、アルコールは、

「自分の中に潜在しているものを、直接刺激する」

 ということであり、買い物や、ギャンブルは、

「楽しさ」

 という概念を引き出すために、能動的な刺激をまわりから、埋めようとでもいうような感覚なのではないだろうか。

 ただ、どの依存症も、

「帯に短し、たすきに長し」

 ということであり、

「細かいところはカバーしているのだが、全体を把握しているわけではないので、他に全体を把握するための、依存症があるのではないか?」

 と思うのだ。

 普通、依存症というと、あまりいいイメージには取られない。

「自分が何かから逃げるために、依存する」

 という意識があり、行動がすべて、自分の意識よるものではないということで、決してよくは言われるものではなかった。

 そんな依存症において、

「依存しなければいけないというほど、何かから逃げているのではないか?」

 と考えられる。

「では、何から逃げているのか?」

 ということを考えると、逆に、

「逃げているというよりも、自分が何かを追いかけたいという意識があるのに、何について追いかけようとしているのか、それが分からない」

 ということである。

 だが、今の世間で言われている、

「依存症悪者説は、本当にその通りなのだろうか?」

 ということである。

 それを考える時、

「依存症というのは、必要悪だ」

 と言われていたような話を思い出していた。

「ストレスというのは、定期的に解消しないと、ため込んでしまえば、病気になってしまう」

 と言われている。

 だから、ストレスを溜めないようにするには、

「好きなことをする」

 あるいは、

「気分を発散させる」

 さらには、

「自分と同じ苦しみをまわりの人に味合わせる」

 などという、聞こえは悪いが、あくまでも、

「自分の中のストレスをなくす」

 という意味では、方法はいくつもある。

 だが、これらの方法は、ある意味、

「すべて同じことのようにも思える」

 というのは、

「ストレスの解消にしても、何にしても、結局できること、人間の考えること、それらには限界があり、あくまでも、何をしようとも、最後には、一つにまとまってしまう」

 ということであろう。

 そもそも、時間、次元というものは、

「次の瞬間には、無限の可能性が広がっている」

 と言われている。

 実際に、それは考えてみれば、理解できるところではある。

 ただ、人間の場合は、その、

「無限の可能性」

 というものを理解し、関係のないものは、考えないということができる能力を持っている。

 それが、他の動物にも存在していて、ただ、他の動物は、

「本能」

 というものが発達していて、考えることができないかわりに、本能で危険などを感じ取り、うまく切り抜けているのだ。

 考えてみれば、動物は、今まで見たこともない動物。例えば、自分の天敵となるべく動物を、誰にも教えてもらってもいないのに、感じ取り、

「襲われる方は、必死で逃げ、襲う方は、必死に捕まえようとする」

 ということである。

 これが、いわゆる、

「自然界の摂理」

 というもので、

「弱肉強食」

 という、

「食べる方、食べられる方」

 ということで、その生態系がハッキリしているから、ここまで世界が成り立ってきたのだ。

 もし、食べられる方が、強くなり、天敵から食べられなくなったらどうなるだろう?

 確かに食べられる方は、食べられなくなったことで、たくさん増える。しかし、逆に食料としている方は、食べるものがなくなるので、餓死して死んでしまい、どんどん数が減ってきて、断絶してしまうだろう。

 では、食べられる方が食べられなくなったからといって、

「よかった」

 と手放しに喜べるだろうか?

「彼らの食物になるものだって、限りがあるから、今度は食糧不足で、彼らもどんどん減ってくる」

 ということになる。

「では、食べる方を、食料にしていた方は?」

 ということになると、今度は、食べる相手が減ってしまうのだから、また食料がなくなる。

 ということで、一つの生態系が崩れてしまうと、すべてのバランスが崩れ、どんどん、絶滅種が増えてくるということになる。

 そういう意味で、

「バランスというものは、難しいものなのだ」

 ということになるのだ。

 そんな時、近くの子供が、おもちゃを壊しているのを見た。それを見ても、親は黙っている。

「ああ、俺たちの子供の頃は、よく怒られたものなんだがな。時代が変わったのだろうか?」

 と感じるのだった。

 ただ、最近のおもちゃというのは、わざと壊れるようになっているのもあるようだ。もちろん、

「ものによって」

 ということなのだろうが、

「壊しておいて、後から再度組み立てられることで、何度も楽しめる」

 ということなのかも知れない。

「そういえば、プラモデルというのも、そういうものではなかったのだろうか?」

 と考える。

 ここに日下部恭三という男がいるが、彼は、齢40歳、

「いよいよ大台に乗った」

 と思っているが、そんな彼の子供の頃も、プラモデルが流行っていた。

 玩具に限らず、

「ブームというものは、周期的にやってくるものだ」

 というものであり、

「数年流行れば、そこから、また10年ほどの黎明期があり、またそこから流行り出すものではないか?」

 と言われている。

 だから、そのブームに、

「年齢向け」

 であったり、

「その年齢に一定の幅」

 というものがあったりすれば、

「ブームというものはあくまでも自分の時代だけで、ブームが繰り返されるという意識はないのかも知れない」

 と思うかも知れない。

 だから、気が付けばブームになっていたとすれば、それは、

「巡ってきた周期の中の、一介」

 ということになるのを、自覚していない証拠だという。

 そういう意味では、プラモデルというのも、何度かの周期を持った玩具だといえるのでではないだろうか?

 最初のブームというと、たぶんであるが、ミリタリー関係のプラモだったのかも知れない。

 戦車であったり、戦艦群、戦闘機など、それも、第二次大戦中の兵器である。第一次大戦中というと、ちょうどその頃に開発されたものが多かっただけに、本当の書記の兵器というかんじが否めない。特に戦闘機などは、その傾向が強い。それでも、当時の兵器というと、今だったら、

「クラシカルなレトロ感があって、リアルさを感じさせる」

 というものであろう。

 その次のブームというと、

「特撮ヒーローもの」

 いわゆる、

「怪獣ブーム」

 と呼ばれた、時期だった。

 時代としては、怪獣ブームは、

「空前の大ヒット」

 という雰囲気があったが、実際には予算ギリギリだったようで、怪獣の着ぐるみなど、「以前使った怪獣のぬいぐるみを改造して、作り替えている」

 などという話をよく聞いたものだ。

 だから、

「あの怪獣に、牙と羽根をつければ、あの怪獣になる」

 などと、子供たちが勝手なことを言っているようだったが、実は、実際に的を得ていたというわけである。

 しかも、予算が本当に足らなくなると、今度は、

「テーマに逆らう」

 というような形でいくしかないようだった。

 というのも、元来が、

「特撮ヒーローもの」

 ということは、テーマとしては、

「ヒーローである宇宙人が、地球を壊そうとする怪獣や、侵略するためにやってきた宇宙人をやっつける」

 というものなのに、予算の関係で、

「怪獣が出現しない回が、数回続く」

 などということになる。

 子供たちは、

「怪獣が出てきて、それを最後にヒーローが必殺技を使うことでやっつける」

 というシーンを見ることで、胸をスカッとさせるということを楽しみに番組を見ているのに、それがないというのは、まるで、

「水戸黄門を見ていて、印籠を出すシーンがなく、ただ、助さん格さんが、悪を懲らしめるための殺陣シーンを繰り広げるだけ」

 ということになる。

 実際にそんなものを見て楽しいだろうか?

 確かに、殺陣シーンだけでも、時代劇を見ているという意味では、楽しいのだ。しかし、視聴者は、

「水戸黄門」

 という番組を見ているので、クライマックスで、印籠を出して、それを見て、悪代官や悪商人が、その印籠にひれ伏すというところを見ずして、

「何が水戸黄門だ」

 というのだということである。

 特撮ヒーローものにおいても、同じことであり、

「確かに怪獣が出てこないとはいえ、ストーリー的にはそれだけ厳選されたものなのだろうが、それは、大人が見て感動するストーリーであり、あくまでも、怪獣出現から、ヒーローが必殺技で最後やっつけるというシーンがなければ、すでにその番組は、子供向けではない」

 ということになってしまうだろう。

 子供たちにとって、

「怪獣が出てこない特撮ヒーローもの」

 というのは、

「印籠を出さない水戸黄門」

 と同じようなものなのだ。

「では、水戸黄門では、絶対にそんなことはしないのに、特撮ヒーローものでは、いくら苦肉の策とはいえ、できるのか?」

 ということであるが、もちろん、本当の予算の問題もあるのだろうが、

「子供だから騙せる」

 という思いがあるのか、

「それだけ、ストーリーの面白さに自信がある」

 ということなのか?

 ということであろう。

 確かに、脚本家も、自画自賛したくなるようなストーリー展開なのかも知れないが、やはり子供に受け入れられなければしょうがない。

 ただ、そもそも、

「特撮ヒーローもの」

 というのは、若干強引なストーリー展開の時もあった。

 内容として、

「ある時、宇宙から飛来するものがあり、地球に降り立った。それが宇宙人であり、話を聴くと、自分たちの星がなくなったので、帰るところがなくなり、宇宙船が故障したので

数理に立ち寄った」

 というところから始まる。

 地球人は彼らを侵略者として見るか、漂流とみるかで意見が分かれたが、とりあえず話し合いをすることになった。

 話し合いは、決裂し、地球側が核ミサイルを宇宙人に撃ち込むが、相手は死なない。そこで、

「我々は地球を頂く」

 ということで、地球の破壊を始めたが、そこでヒーローに変身した宇宙人が、その侵略(?)宇宙人を必殺技でやっつける。

 というストーリーだった。

 しかも、その時のタイトルに、

「侵略者」

 という文字が書かれている。

 正直、子供の頃に再放送で、この話を何度も見たが、何か納得のいかないところがあった。

 それはおちろん、

「彼らが本当に、侵略者なのか?」

 ということであった。

 ストーリー展開からいけば、彼らは、最初何も悪いことをしていない。むしろ、

「帰る母星がなくなった」

 という、いわゆる、

「難民」

 ではないか。

 確かに、日本という国は、

「難民を受け入れない」

 という伝統のようなものがあり、ずっとそうしてきた。

 だが、子供のドラマにおいて、

「帰る星もなく、宇宙船が故障したので、地球にある鉱物か何かが修理に必要なものなので、一時的に地球に滞在し、それらを採取させてもらい、宇宙船の修理が完了すれば、さっさと地球から退去するつもりではなかったか?」

 ということである。

 それがたまたま地球人に見つかってしまったことで、侵略者呼ばわりされて、攻撃されたのでは溜まったものではない。

 もし、海岸に難破船から、救命ボートで命からがら逃げてきた外人を、

「侵略者」

 として、処刑などするだろうか?

 普通なら、国際問題になり、戦争になっても、仕方のない自体になるのではないだろうか?

 しかも、宇宙というものをまったく知らない地球人なので、ひょっとすると、

「宇宙連邦法」

 というような、地球における、

「国際法」

 のようなものが存在し、

「漂流民の殺害は、宣戦布告とみなす」

 ということであれば、母星から攻撃を受けても、文句がいえないということであれば、どうだろう?

 確かに相手の母星は、すでにないのだから、戦争になることはないかも知れない、

 しかし、連邦が存在すれば、この地球の行為は、

「犯罪者として罰せられるに値する」

 ということで、他の星から攻撃を受けることになるかも知れない。

 ただ、それは、

「宇宙の法律を知らなかった」

 ということで片付けられる問題であろうか?

 地球においても、そうではないか。

 もし、国家間でこんなことがおこれば、まず間違いなく、国家間が緊張し、まずは外交で何とかことを収めようとするが、できなければ、戦闘状態になるというのは、当然のごとくということになるであろう。

 そんなことは分かっているはずなのに、その場合、地球はどうするだろうか?

 宇宙連邦に従うか、あくまでも、敵対して、戦闘をするか。

 少し事情は違うが、

「世界情勢から孤立し、自給自足を選択し、独立国家として生きていく」

 という考えになるとすれば、それは、かつて、

「大東亜戦争に入り込んでいった、大日本帝国のようだ」

 と言えるのではないだろうか?

 たぶん、日本国民は、宇宙連邦から地球が裁かれる状態になれば、

「独立を勝ち取るために、闘う」

 ということを選ぶのではないだろうか?

 そうなると、あの

「大東亜戦争を引き起こした大日本帝国」

 というものが間違っていなかった。

 つまりは、あの時代の反省などしなくてもいいということになるだろう。

 ただ、そうなると、今まで教わってきたことが、すべてウソのようになってしまう。

 そういう意味では、こういう、

「他愛もない子供番組ひとつ」

 が、国家の体制や、これから国家を担う子供たちに与える影響がどうなるかということを考えているのだろうか?

 そんなことを考えていると、

「子供番組一つをとっても、バカにできない」

 と言えるのではないだろうか?

 話は逸れたが、

「怪獣が出てこない特撮番組は、結構ストーリー的には考えられていた」

 と言ってもいいだろう。

 たとえば、宇宙のどこかに、

「ロボットに支配される星」

 というものがあったり、

「乱れ切った地球を侵略するのではなく、この宇宙から葬り去るために、大陸間弾道弾を打ち込んでくる星がある」

 というような、理不尽な理由で、地球を壊そうとする宇宙人がいるのだが、そもそも、それだけ地球の風紀が乱れているということを言いたいのではないだろうか?

 ということであった。

 そんなSFであるが、ブームという意味でも、以前から研究されているものに、

「マルチバース理論」

 であったり、

「パラレルワールド」

 と言われるものが考えられているという。

 どちらも、今まで常識とされてきた。

「宇宙は一つであり、その中で展開されているものは、一つでしかない」

 という考え方がある。

 それを、根底から覆すと言われるのが、この、

「マルチバース理論」

 であり、

「パラレルワールド」

 であった。

 ちなみに、

「パラレルワールド」

 という発想は、

「タイムパラドックス」

 というものへの、理由付けとしても考えられている。

 そのそも、タイムパラドックスという発想は、

「タイムマシンの開発において、一番ネックになっているもの」

 ということであり、

「タイムパラドックスを理論的に解決できなければ、タイムマシンの開発は永遠に及ばない」

 というものであった。

 つまり、たとえば、

「自分が、タイムマシンを開発し、過去に行ったとしよう。すると、そこにはまだ生まれていない自分の親がいたとして、自分が過去に行ってしまったことで、歴史に歪が発生してしまい、過去が変わることで、両親が結婚しないという歴史に塗り替えられるとどうなるだろうか?」

 ということである。

「生まれてこないのだから、自分がタイムマシンを作ることもないし、過去に行くこともない。そうなると、歴史は元に戻り、自分が生まれてくる。生まれてくると、タイムマシンを作り、過去に来て、過去の歴史を変えてしまう」

 ということを考えていると、

「どっちの世界が正しいのか?」

 ということになり、

「過去に戻って歴史を変えると、元の時間に戻っても、そこは、変わってしまった歴史が織りなす世界になっていて、世界がどうなっているか分からなくなる」

 ともいえる。

 だから、昔のSF作家だったり、研究者の中には、

「過去に行って、過去の歴史を変えてしまうと、その瞬間に、ビッグバンが起こり、宇宙全体が消滅してしまう」

 という、とんでもない発想をする人まで出てくる始末であった。

 そんな時に考えられたのが、このパラレルワールドという発想だった。

「パラレルワールド」

 という発想は、実は、この

「タイムパラドックスへの証明」

 ということのためにだけ考えられたものではないかも知れないが、これらの発想というのは、他の証明にも使えるかも知れないというものだった。

 この発想は、

「同じ次元で、まったく同じ世界が、宇宙のどこかに存在しているというもので、そこには、こちらの世界とまったく同じ情景の、同じ人間が存在している」

 というものであった。

 立場の違いや何かは、研究者によって違っているものなのかも知れないが、

「同じ世界が、別の宇宙にある」

 という発想は、パラレルワールドのように、

「過去を変えてしまうと、未来が変わってしまう」

 という理屈を違う形で証明するものだったのだ。

 というのも、

「この考え方が、揺るぎのないもので、鉄板だからこそ、この世に存在しているものを信じることができる。そのことで、全体の意思の疎通が図れているといっても、過言ではないのではないだろうか?」

 という考えが生まれてくるのだった。

 ということであるが、この

「パラレルワールド」

 という発想によって、

「もし、過去が変わってしまったとすれば、その過去は、パラレルワールドの過去であって、本来の未来が変わるということはありえない」

 という、ある意味、

「かなり強引な発想」

 といってもいいのではないだろうか?

 つまり、

「パラレルワールドの発想は、最初からあったわけではなく、タイムパラドックスを証明するためだけに考えられたことだ」

 ともいえるかも知れない。

 しかし、それでも、パラレルワールドという発想には、

「かなりの柔軟性があり、何もタイムパラドックスという発想からだけしか、考えられないものではない」

 ともいえるのではないか。

 だから、今回は、

「タイムパラドックスの発想から生まれただけであり、これがなかったとしても、どこかから湧いてくる発想だった」

 と言えるのではないだろうか?

 それを考えると、

「パラレルワールドの発想こそ、まさにパラレルワールドを証明しているのかも知れない」

 という、まるで禅問答のようなことになる。

 まるで、

「ヘビが自分の身体を、尻尾から飲み込んでいき、最後にどうなるか?」

 という発想であったり、

「合わせ鏡」、

 あるいは、

「マトリョシカ人形」

 などという発想にも結び付いてくるのではないだろうか?

 そんなことを考えていると、特撮であれ、

「宇宙や時間軸などを、単一のものと考えるのは危険なのかも知れない」

 というところまで、発想がいっているのではないだろうか?

 それが、

「パラレルワールド」

 という発想である。

 また、SFの世界には、

「マルチバース理論」

 というものがあるという。

 これは、パラレルワールドが、個々の世界単位であるのに対して、今度は、

「宇宙単位」

 に存在しているという。

「パラレルワールド」

 というものが、

「並行宇宙」

「並行世界」

 と言われるものであるのに対して、

「マルチバース理論」

 というものは、

「多元宇宙論」

 というものだというのだ。

 パラレルワールドが、

「一つのある世界からの分岐して、それと並行して走る世界だ」

 ということなので、基本的に、こちらにいる人間や環境とは同じもので、ただ、別の可能性が存在する、お互いに知らなければ、まったく別の世界といってもいいだろう。

 しかし、マルチバース理論というのは、そうではない。

 我々が一つだと思っている宇宙のようなものが、さらに我々のしっている宇宙の外に存在しているという考えだ。

 つまり、何を示しているのかというと、

「宇宙は無限ではない」

 ということである。

 元々、中世くらいまでは、

「天動説」

 というものが主流で、

「地球の外で、宇宙が回っている」

 と信じられていた。

 それをガリレオが

「地球は回っている」

 と言い出したことで、大きな問題になった。

 それはそうだろう。あの時代にまったく、普通では考えられないようなことをいうと、たぶん、

「世間を惑わす、異教徒のような考えだ」

 ということになり、特に、支配階級の人間にとっては、

「反乱分子「

 にしか見えず、その考えを徹底的に否定することになるのではないだろうか。

 特に、戦国時代に入ってきてからの、

「キリスト教」

 というものに対しての考え方が変わっていったのも、当然といえば当然であった。

 そもそも、当時の時代というと、ちょうど、

「大航海時代」

 と言われる時代だった。

 スペイン、ポルトガルという国を中心に、世界に航海で出てくるというもので、

「アメリカ大陸の発見」

「喜望峰の発見」

「東洋文化に触れる」

 ということで、世界というものが、どんどん見せてきたのだ。

 そんなヨーロッパの国が、アジアや日本に渡来してくる。

 日本でも、鉄砲というものが伝来し、さらに、キリスト教が入ってくる。時代はちょうど、日本では戦国時代。

「鉄砲というものが、戦国の武器の転換を余儀なくさせる」

 ということで、薩摩藩や、いろいろな藩が鉄砲を新兵器として、重宝するようになると、戦争の在り方も、城も変わってくる。

 それは、近代戦層にも言えることで、

「新兵器の出現が、戦争を変えていく」

 というのは、近代兵器によって、大量殺戮が行われた現代に言えることである。

「時代は繰り返す」

 というが、まさにそのことなのだろう。

 戦国時代に初めて伝わった、

「キリスト教」

 というのは、最初、織田信長によって、奨励された。

 もちろん、

「政治には、口を出すな」

 というのが、条件であり、信長の目的は、

「外国と商売をすることによって、利益を得る」

 というものである。

 当然、キリスト教を奨励すると、南蛮文化のいいものが手に入り、儲けることができるのだ。

 それにより、信長の本当の目的は、

「儲かった金で、鉄砲を買う」

 ということであった。

 彼のスローガンである、

「天下布武」

 というのが、

「武力を持って天下を掌握する」

 ということなので、それに合うというわけである。

 もっといえば、

「あれだけ群雄が割拠し、時代が荒れてくると、武力がなければ、天下を掌握することはできない」

 ということである。

 いくら天下を取ったとしても、絶対的な力、つまりは軍事力を持っていなければ、いつ、とってかわられるか分からないということになるのだ。

 それが戦国時代というものであり、そんな人間でなければ、本当の戦国を辞めさせることはできないということだ。

 だから、

「天下布武」

 というものの、最終的な目的は、

「戦国の世を終わらせて、恒久平和というものをもたらす」

 ということであったのだろう。

 そのために、信長は、

「楽市楽座」

 に見られるような商売を奨励した。

 そのため、キリスト教の布教も許すことになるのだ。

 しかし、実際に許してしまうと、キリスト教はどんどん入ってくる。

 信長が、

「南蛮人の本当の目的」

 というものをまだ知らなかったのではないだろうか?

 東南アジアなどの国では、キリスト教が入ってきて、国内で、布教活動が起こる。

 そして、それに同調して、国内が混乱する。

 それによって、混乱した国内に、それを口実に軍を進めて、その国を征服し、植民地化しようということであった。

 それを、果たして信長が知っていたのかどうかであるが、知らなかったのかも知れない。

 なぜなら、信長は、宣教師たちの中でも、一人の男を重用し、自分のブレーン、あるいは、相談役としていたのである。

 それが、ルイスフロイスであった。

 ただ、これは皆がやっていることかも知れない。

 家康だって、ウイリアムアダムスを自分の相談役として、重用していたではないか。

 家康は、必死になって、幕府の財政の基礎を作ろうとしていたのだろう。それが、彼の目的だったのだ。

 そんなキリシタンを送り出した。スペインやポルトガルであったが、なぜか日本を植民地にしようというところまではいかなかった。

 これは想像であるが、

「彼らの軍隊では、日本の群雄割拠に立ち向かうことはできなかったのではないだろうか?」

 ということである。

 つまり、日本の戦国時代は、それだけ、本当に、

「群雄が割拠している」

 ということであり、

「分裂していて、これだけ均衡が取れているのだから、団結してくると、とてもではないが、太刀打ちできない」

 と思うのも当たり前で、それだったら、あとは、何とか、貿易で、少しでも、儲ける方を考えた方がいいと思うのも無理もない。

 少なくとも、

「他国の介入をさせたくない」

 というのが、本音だろう。

 それが、江戸時代の、

「オランダ」

 という国の考え方であり、オランダは、

「スペインやポルトガルなどの、野蛮な国では、オランダはないのだ」

 ということを訴えていて、

「オランダ以外の国と貿易をすると、キリシタンが増える」

 ということを将軍に吹き込んでいた。

 将軍として、怖いのは、

「デウスの神が、将軍よりも、さらには、天皇よりも偉い」

 という考えのキリスト教というものの存在が許せないのだろう。

 それはあたり前のことであり、確実に、江戸幕府の政策に真っ向挑戦するようなものだからである。

 当時の幕府は、

「基礎固めに必死で、士農工商の身分制度、改易、武家諸法度などによって、大名を徹底的に従わせる方法」

 さらには、

「参勤交代を義務」

 とすることで、

「大名の財政を、謀反が起こせないほどに抑える」

 という目的があったのだ。

 鎌倉幕府といい、基礎を作り上げるには、それくらいのことをしなければ、いけないということなるのだ。

 それを考えると、

「江戸幕府の基礎固め」

 の時代に、

「キリスト教」

 などというのは、あってはならない考えであったのだ。

 それだけの大事な時、オランダ人の口車で、最初は、

「ポルトガルを出島に締めだす」

 ということに成功したが、誤算は、

「島原の乱」

 だったであろう。

 それまで、

「踏み絵」

 などという政策を使って、キリシタンを根絶やしにしていたが、

「島原の乱」

 において、幕府は、キリシタンの恐ろしさを知ることになる。

「あれだけ抑えてもだめなのか」

 ということで、

「もう、入ってこれなくするしかない」

 ということで、

「貿易はオランダと、出島でのみ行える」

 ということにし、

「日本人の渡航を禁止し、さらには、今海外に出ているものも、帰ってくると死罪になる」

 ということだったのだ。

 だが、これはある意味当たり前のことである。

「キリシタンを伝染病」

 と考えるなら、それくらいの措置は当たり前のことである。

 何をいまさらビックリすることもあるものかということである。

 要するに、

「少しでも異物が侵入すれば、国家の存在が危うくなる」

 ということで、地動説も、その理論から弾き出される形になって、敬遠され、処刑されるようなことも、頻繁に起こったに違いない。

 それを思うと、そんな国が、どのようになるかということを、いかに考えればいいかということである。

 ただ、独自の考え方をすると、ほとんどの人が、

「キリスト教の迫害は、いけない」

 と思っているのかも知れないが、

「今の世の中のように、伝染病が流行ってくるとすれば、それは、ある意味、迫害もしょうがないことだ」

 といっても無理もないことだろう。

 しかも、今の海外から来ている連中を思えば、

「世界的なパンデミック」

 がなくても、一歩間違えれば、

「亡国の一途をたどっていた」

 といっても無理もないことだったように思う。

 というのも、日本に来て、

「爆買い」

 をしていったり、夜中歩きまわっていたり、日本人よりも、過激な連中が多かったりする。

 政府が、経済政策のために、

「外人どもを受け入れる」

「インバウンドだ」

 などということを言い出したから、こんなになったのではないか。

 街中のファーストフード、ファミレス、コンビニなど、ほとんどが、外人どもがいて、何とか言葉は通じるが、

「説明が通じない」

 などということは、結構あったりする。

 もちろん、ちゃんと勉強して、日本の風俗に馴染む、馴染もうとする人も多いのだが、それ以上に、

「日本を舐めている」

 という外人が多いのだ。

 それこそ、

「キリスト教を広めて、混乱に乗じて、日本に攻め込む」

 という戦国時代の、ヨーロッパの国に近いものがあるのではないだろうか?

 特に、今の日本は、

「海外から狙われている」

 ともいわれている。

「尖閣、竹島を中心に、日本を狙っている国が多い」

 という。

 今のソーリが、

「防衛費拡大」

 などと言っているが、それよりも、

「外人退去令」

 でも出す方が最初ではないだろうか?

 伝染病が流行した時だってそうではないか。

「水際対策が大切」

 と言われるように、危険分子を受け入れるなどという政策をしているから、こんなことになってきているのだ。

 特に、

「日本の国土は、そんな連中に買われている」

 と言われている。

 安い値段で国土の重要な部分を、タダ同然に、海外が買っているのだ。

 それこそ、かつての中華民国が、満州事変が起こる前に、

「日本人に土地を売っても、貸してもいけない」

 という法律を作り、それを破れば、

「売国奴」

 ということで、死罪になったりした時代があったではないか?

 それを思うと、それが、どんな時代なのかということである。

 本当は日本は、

「防衛費の拡大」

 などというものをする暇があれば、

「外国に土地を売ると、せめて、国外追放」

 というくらいにしなければいけない。

 もっといえば、水際対策で、日本に外人が入ってこないように、鎖国的な政策を取る時期が来たのではないだろうか?

 少し大げさになってしまったが、その答えは、

「歴史が出してくれることになるだろう」

 ということである。

 もっとも、その時には、

「国が滅びていて、すべてが、後の祭り」

 ということになっていることであろう。

 さて、科学の発達によって、

「宇宙がマルチにある」

 という発想を、咎める人は誰もいないだろう。

 反対意見は当然のごとくあるのだが、今の段階では、

「どちらが正しい」

 ということが言いきれるわけでもない。

 それだけ、これからの研究材料ということになるわけで、

 その発想が、宇宙というものをどのように見るかということで決まってくる。

 だが、

「マルチバース理論」

 が証明されたことで、

「自分たちの生活がいかに変わってくるのか?」

 ということは正直分からない。

「別に、宇宙が一つであっても、たくさんあっても、別に俺たちの生活には関係ないではないか?」

 と言われるのが、おちだといってもいい。

 しかし、これはあくまでも考え方であり、

「いろいろな理論。その理論に行き着くまでに考えられるいろいろなことを、突き詰めていくと、そこは、人間の生活に直結するものが見えてくるのではないか?」

 ということである。

 つまり、今はたくさんの、啓発などや、

「ハウツー本」

 などと言われるものが出てきているが、

 それが、どんどん発展することで、却って生活に近づいてくることで、逆に、

「人生も幅が広がる」

 と言えないだろうか。

 つまり、

「周りが広がれば、それだけ考える範囲も広がるということで、柔軟な発想が生き方を充実させてくれる」

 というものだ。

 ハウツー本などのように、

「たくさんは出ているが、それらのほとんどが、同じようなことしか書いていない」

 ということである。

 その理論として、

「正悪というものは、完全に別れていて、何が正で、何が悪なのかということは、言葉にすれば、そんなにたくさん種類があるわけではない」

 ということになるのだ。

 それを考えると、その元々の基盤が増えてくれば、それだけ発想も増えてくるというもので、その発想から、広がってくるものもあるというのではないだろうか?

 その考えが、

「マルチバース」

 のような。

「多元宇宙」

 というものになるのだろう。

 こちらは、

「パラレルワールド」

 のように、

「同じ人間が存在している」

 というわけではなく、別の人間が存在しているという意味で、さらに、

「未知の広がった世界だ」

 ということになり、証明も難しくはないのかも知れない。

 そんな、

「マルチバース理論」

 であったり、

「パラレルワールド」

 というものを考えていると、

「一つ以外のものは、2つであっても、無限であっても、ある意味同じ、一つ以外とは大きな差がある」

 ということに気づいた気がしたのだった。

 そういう意味で、

「唯物」

 というものを、改めて感じさせられる気がしてきたのだ。

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