第8話 愛する者を喪った日

「……容赦がありませんね」

「する理由も必要性も無かったからな」


 霧散した分身が落とした黒い薔薇のコサージュを拾い上げた瞬間、アンヘルの脳裏に見慣れた景色が過る。


「ねぇ、そこの幸せそうなあなた」

「……もしかして私のこと?」


 声をかけられて戸惑う女性に近づき、ベアトリシアは笑みを浮かべる。


「あなたに素敵な贈り物をしてあげる」

「え、」


 返事をする暇も無く首筋を噛まれた女性は目を見開き、そして絶句する。

──自分が吸血鬼に変じていく悍ましい現実に。


「さあ、皆にも分けてきて。独り占めなんてしちゃダメよ?」


 ベアトリシアの言葉を受けた女性はふらりと立ち上がり、来た道を引き返す。

 彼女が向かった先はついさっき発ったばかりの場所──自分の家だった。


「あれ?どうしたんだいガブリエラ、何か忘れ物でも──」


 家事をしていた青年が言い終えるよりも先にガブリエラと呼ばれた女性は青年に抱きつく。


「な、何だい急にっ、」


 首筋に鈍い痛みを感じた瞬間、青年は反射的にガブリエラを突き飛ばす。


「……酷いわハリトン、いきなり突き飛ばすなんて」

「気を確かに持つんだガブリエラ!君は吸血鬼の衝動なんかに──」


負けちゃいけない、と言いかけたところでハリトンと呼ばれた青年は強烈な衝動に駆られる。


「まずい、このままだと、僕まで……」


 朦朧とする意識の中、ハリトンはすぐ傍にあった食器棚から銀製のナイフを取り出す。


「──待って、やめてハリトン」

「ごめんよ、ガブリエラ」


 謝罪の言葉を口にしたその直後、ハリトンは自らの胸にナイフを突き立てた。


「あ、ああ……あああああ……!」


 正気を取り戻したガブリエラが目の前で愛する者を喪った悲しみに暮れる中、新たな人物が現れる。


「これは、一体……」


 その人物──アンヘルの顔を見た瞬間、ガブリエラは悲痛な叫び声を上げる。


「来ないで!」

「っ、」

「お願い、それ以上近寄らないで。でないと私、兄さんのことまで……」

「ギャビー、お前まさか、ハリーを……?」


 理解が追い付かない事態にアンヘルが混乱する中、ガブリエラはハリトンの胸に突き立てられていたナイフを引き抜く。


「──待て、早まるなギャビー」

「ごめんね兄さん。幸せになるって約束、守れなくなっちゃった」

「よせ、やめろ!」


 アンヘルの制止を振り切り、ガブリエラは自分の胸をナイフで貫いた。


「──ねぇ聞いた?あそこの夫婦、吸血鬼のせいで亡くなったんですって」

「確かあの二人ってついこの間結婚式をやったばかりよね?」

「こんな時に不謹慎だなんて思っちゃったけど、これはあんまりよ……」

「残されたお兄さんも可哀想ね。ご両親を早くに亡くして、とっても可愛がってた妹さんまでこんな形で喪うなんて」

「どうして吸血鬼はあんな幸せそうな二人に酷いことをしたのかしら」

「分かるわけがないし、分かりたくもないわ。吸血鬼の考えることなんて」


「──ル、アンヘル!」


 クリスの呼びかけで我に返ったアンヘルはきょろきょろと辺りを見回す。


「夢……?」

「青い薔薇のコサージュを手にした時も同じような状態に陥っていましたが、何があったんですか?」

「……クリス、お前は何も見てないのか?」

「あなたが夢と仮称したもののことでしたら何も見ていません」

「そうか……」


 深い溜め息を吐いた後、アンヘルは懐からペンデュラムを取り出す。


「待ってくださいアンヘル、あなたの身に何が起きたのか説明を」

「イフィーにも聞いてもらいたいからちょっとだけ待ってろ」

「……分かりました」


 クリスがすんなり引き下がってくれたことに安堵しつつアンヘルは転移の魔法を発動させた。

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