第6話 君の名前は


 それはふと予感のようなものを抱いた。するとその黒質の身体は予感なるものに突き動かされるようにゆらりゆらりと動き出した。

 運命などさほど信じない。奇跡も同様に。ただ、えにしというものだけは信じていた。

 その、何かもわからないその身、その心、その存在で縁に導かれるように彷徨さまようように。


「……」


 何がそう突き動かすのか。その縁の正体とは。衝動の原理は何か。

 一つとしてわかるものはなく、理解できるものもなく、そもそもがすべて過ちである。

 されどけものの意志が酷薄こくはくわらうのだ。


 黒い獣は動きだす。異質の獣は彷徨う。無命の獣は声にならない声を上げ、獣のままに准じる。

 その手に持つ鎌は何を斬り殺すか。

 その身の黒は何をおびやかすか。

 その緋色の心臓は何に鼓動するか。


 黒い獣は歩いた。歩いて歩いて歩いて――



 *



 民衆都市ウハイミルの南門から都市の外に出たリヴたちは既に手配していた馬車の荷台に乗りアディルが馬の手綱たづなを引く。目的地まで片道三時間の移動で少女にこの先に待ち受けるものの説明をしていた。


「今から行くのは『ラータスの鉱洞』っていう洞窟ね。【エリア】の南方にある洞窟で、鉱物を採取するのによく使ってるんだ」

「洞窟……虫がたくさんいそう」


 少女が少し嫌そうな顔をした。が、少女の考えを笑い飛ばすようにリヴは笑う。


「大丈夫大丈夫。虫はいないよ。変な特徴のあるパンテオンはいるけど、うじゃうじゃいないし安全だから」

「それって安全なの?」

「安全全然超安全。洞窟内のパンテオンは危害を加えなければ襲ってこないから。ま、例外はいるんだけどねー」

「やっぱり安全じゃないよね?」


 少女は知らないがそもそも【エリア】に安全な場所など皆無だ。もちろん、パンテオンを寄せ付けない効果を持つ花や植物も存在するが、限定されたその場所だけに留まるのは家に引きこもっているのとなんら違いはない。

 【エリア】に存在するのは未知。未知はどんなものにだって変身する。危険にも喜びにも奇跡にも絶望にも。その未知を既知に変えるために事前準備というのは欠かせない。


「ラータスの鉱洞」――これから向かう十一の穴の一つ、第八ノ穴『オクトゲート』より繋がるエリア第一層『芽吹きの大地』の南部に位置する鉱石の洞窟だ。山ではないので層はなく迷路のように広がった洞窟であり、洞窟内の鉱石などの資源が放つ光と気温、食物関係から特殊変異したパンテオンが多く潜むのだ。家から一番近く穴の特徴から警備の眼を掻い潜れる『オクトゲート』をリヴたちは多用している。

 そして今回、そんな危険な場所に記憶喪失の少女を同行させる意味とは。


「でも……なんで私も? 私、戦えないよ? できることもないと思うけど」


 記憶がないから真相は闇の中だが、実際遠方映しモニターで見た兵士のように剣を振り回すこともその細腕には無理だと思っている。リヴが説明してくれたエレメントやナギだって感じ取れない。少女は特別な力を秘めていることにさえ不審を抱いているのだ。


「それに……死ぬのは嫌だな」

「……」


 信じる信じないではない。事実など関係ない。実績も違う。

 少女が今欲しているのは明確な理由。これから死ぬかもしれない冒険に行くのに自分を納得させることのできる理由が欲しいのだ。踏み出せる嘘でもいいから勇気が欲しいのだ。止まない不安の雨を何かで防ぎたいのだ。

 死……そこに含まれた感情をリヴとアディルは推し量れない。記憶のない少女の恐怖など理解はできない。ただ、酷く考えないようにして嘘で誤魔化してみないように押し込んでいることしかい。

 口を開くのはアディルだった。


「死なせーねよ。絶対だ」


 そこに食卓での気遣いと遠慮はなく、紅一点の真実だけが燃えていた。


「軍のことは話した。別に、兵士は自分の仕事に誇りを持ってやってやがる。奴隷どれいなんざ言ったが、軍に准じていれば結婚も休暇も大抵のことは許される。加えて給料もいいし女からも男からモテる。年期になれば退職して余生をそれなりにいい家で趣味を弄りながら過ごすくらいの金も暇もありやがる。そして、そいつは世界を守った英雄だ。良いことずくめなのは否定しねー」

「……」


 軍は英雄だ。その職業は栄華を賜り真っ当すれば一族の誇りにすらなる。金もいい。女からも男からも好かれる。あまつさえ軍人という肩書だけで人生得することは多いだろう。


「けど、それは生き残った奴だ。肉壁かべとして前線に出て生き残り続けた奴のことだ。徹夜続きで兵士を支援できる奴だ。間違うことを許されない環境で物資を運べる度胸のある奴だ。常に正しい選択ができる図太い奴だ。軍人を目指した子供の三割は軍人見習いのまま雑用として人生を終える。残り五割が戦場で死に残りの二割がなんとか生き残る。運も努力も意地すらも頼りになりそうでなんねー世界だ」

「……そう、なんだ」

「ああ。俺はそう視てる」


 あくまでアディルの見方、見解だということは示す。ほとんどの軍人は愚痴れどもアディルのような否定型には考えない。

 少女は何も言えない。ただ、軍という所の怖さだけが沼地のように足元に広がった。

 けど、とアディルは言った。


「オマエには記憶がねー。この世界の価値観じゃねー。今のオマエは何者にでもなれる」

「何者にも……?」

「今のオマエで新しく生きてもいい。記憶を探しても別にいい。生き方なんざ千差万別だ」


 その考えは少女にはなかったものだ。寝耳に水。新しく生きる……そんな未来が許されるのだろうか。この何者かもわからない得体のしれない怪物を胸の内に飼いながら。

 不安そうな少女の表情は御者席のアディルには見えないがリヴはほのかに眉を下げた。

 少女の呟きが息に紛れて風に飛ばされる。


「俺とリヴは、んな軍から逃げて冒険をするつもりだ。バカげた冒険だけどな」

「ホント、バカだよね」

「ああ、バカだ。で、そんな俺らは普通の奴らとは違う意見を持ってる。それを何者にもなれるオマエに見せてやりたい」

「それが冒険……」

「そうだ。決めるのはオマエだ。強要なんかしねー。恩義なんざ捨てて自由に生きればいい。ただ、俺らの選択をオマエに知ってもらいたいだけだ。どう生きたって付き纏うもんだしな」


 少女は眼を大きく開いて、口を僅かに開き、何かを言いたそうに言葉を探すように風に鼓動を流し。それは数秒が立って、十秒に満ちて、ただただに行先へ広がる草原の果てに星の瞬きを探しながら。

 その声は震えていた。その眼は揺れていた。その手は手をぎゅっと握っていた。


「な、なんで? なんで……そこまでしてくれるの?」


 声音は幼子のようで迷子のようで。

 静寂の中に二人の吐息が風に流された。


「なりたくねーもんにはなる必要はねーよ」

「――――」

「今日だけは付き合え。生きるも死ぬもどこでも一緒だ。生きたいならその馬鹿を理由にしろ」


 少女はそっと目の前に腰を下ろすリヴに目を向けて。リヴはふふんと不敵に笑って。


「あたし、君と一緒に冒険がしたいなー」

「え?」

「ううん。したい。君と冒険がしたい。よし! 今決めた。今日は君と一緒にとことん冒険をしよー」

「え? えぇええええええ⁉」


 唐突な宣言に素っ頓狂な声を上げる少女。リヴのドヤ顔が堂々と見つめ返し。


「拒否反論異論逃亡など一切認めません。逃げようとしたら今この場で爆弾を爆発させるから」


 言うがはやし、ウエストポーチから爆弾を取り出したリヴはあわわする少女にしたり顔。


「り、リヴも巻き込まれちゃうよ!」

「ふふん。あたしをそこらの悪ガキと一緒にしてもらっては困るね。なんせあたしは天才錬金術師だから! 人が嫌がる錬金物は沢山を持ってるんだ! これね、あたしには被害のない仕様だから」

「それ誇ることじゃないと思う。あとズルい」

「思考が餓鬼と一緒だな。あと屑だな」

「うるさい。ま、というわけであたしたちの冒険に付き合ってね……そう言えば名前ないんだったね?」


 今まで気にしていなかったがいざ特定して呼ぼうとすると君やあなた、オマエじゃわからない。「私の名前……」と考えこむ少女に相応しい名前は何か。


「桃色の髪で美人。優しくて胸が大きくて黒の服がなかなかに似合ってる。一人称が私で可愛い。ここから出る答えは――」

「え、怖い。リヴ、怖いよ」


 身体を両の腕で隠す少女を穴が開くほどに見つめ、その度に少女は赤面をより赤くしていき。そしてリヴは空を眺めて「これだ」と言った。


「君にこの名前を与えよう。君の名は『ルナ』だ!」


 ジャジャジャン! かっこよく決めたリヴは満足気だが、当の本人は「る、るな?」とピンときていない様子。


「月って意味だ。おい、そいつの見た目なんざどこにありやがる」

「そいつじゃなくてルナね。なんかこーピンときたの。ルナは月のように優しく輝いて可憐で――」

「何も浮かばなかっただけだろ。今、月もでてねーけどな」


 リヴは吹けもしない口笛でしらを切った。


「適当な私の名前……」


 その事実に愕然とする少女だが、復習に何度か「ルナ」と呼んでみると馴染む感じがあり表所はさっきよりずっと晴れやかだった。


「ルナ……わかりました。私は今日からルナです」

「いいのかそれで?」

「うん。新しい私はわからないけど、ちょっとずつ自分と向き合っていきたいから今の私はルナがいいんだ」

「そうか」

「うん、ありがとうございます」


 ルナなんて安直な名前だ。世界を照らす象徴として人気の高そうな名前だ。それでも少女にとっては特別な意味があった。

 昏い表情は晴れ、揺れていた眼にはほんのり力の光が宿り、震えていた手は安らかに。

 少女――ルナは二人に頭を下げた。


「私、まだ全然わからないんです。考えないようにしてて、でもたくさんの現実に怖くなってずっと見ない振りしてて……二人の温もりが心地よかったの。ずっと浸っていたいってそう思っちゃって。でも、軍のことを聞いて現実を考えてみたらどうしたらいいのかわからなくて」


 たどたどしくその心の棘を見せていく。


「でも、今はすこしだけ前を向ける勇気がでました。アディルさんとリヴと一緒なら私、頑張れそうです」


 ただ一歩を。それでも前進する一歩を。頼りない脚で必死に強がって。


「私、冒険します。冒険してちゃんとやりたいこと、どうやって生きていくか決めたい。だから……その、不束者ですがよろしくお願いします」


 そう言ってもう一度頭を下げた。感謝と勇気を宿して意志を抱いて。

 アディルは背中越しのルナに笑った。


「好きにしろ」

「うん!」


 そのとびっきりの笑顔をアディルが見られないことは残念だろう。リヴだけの特権のような笑顔はきっとルナの原点として宿ることだろう。


「よろしくルナ」

「うん。よろしくね。リヴ」


 そう言って二人は笑い合う。この時間をきっと幸せと呼ぶのだろう。

 深淵を覗くか偽善に溺れるか。今はまだわからない未来の選択に、ただ今だけは唯一無二の初めて宿って熱にその心は思い馳せるように揺れていた。




 緩やかな旅路はようやく目的地点を視界に収めた。

 薄霧がう平原。池のようにポツリポツリとあるアプス淡水に落ちないように気を付けながら慎重に馬を進める。

 夜だからか静寂が占めていて話すことははばかられる。目を凝らし遠くを観察しながら穴へと近づく。


「『オクトゲート』は複数の小さな穴でできてるの。それにこの地帯は常に霧が張ってるから軍の警備も手薄で迷子になる人、誤って穴に落ちちゃうとかもあるんだ。ここがあたしたちがエリアに行ける唯一の道ね」


 リヴの説明にルナは理解する。薄霧とは言え視界の悪さに違いはなく危険は一層に増す。穴の位置も正確に判断できずに落ちる、パンテオンの存在に気づかずに殺される。軍でさえ警備は難しく離れた所に駐屯地を立てて全体を把握できるようにしている。

 しかし、その危険性の裏目をかいてリヴたちはエリアに侵入できるのだ。もし平地で見つかったとしても霧の中にさえ入ってしまえば軍は手を出せない。

 ただの兵士と自分の命を天秤にかけられるものか。


「準備しろ。もう着くぞ」


 リヴは錬金物の確認と腰のベルトにひっかけていた杖を手に持つ。

 リヴの装いは冒険者の恰好だ。ハイネック型のノースリーブの白のブラウスにブラウンのコルセットで身動きがとりやすいように腰は引き締められ、膝上のスカートにロングブーツ。ノースリーブのコートを羽織りその上から腰にベルトを巻きウエストポーチやナイフなどが装備されている。腕には黒のレースのアームカバーが肩下から手首まで多い肩は丸出し。

 ベージュの髪は彼岸花の髪留めでポニーテールに施されている。アディルのような胸や腕に防具はないが、服の中に鎖帷子くさりかたびらを仕込み服装すべてが特殊な加工、錬金術で防御力を高めた冒険仕様になっている。


 ルナは改めて自分の姿を見た。

 黒のノースリーブロングワンピースのような服。腰にベルトを巻き、リヴと同じように肩下から手首にかけて白い衣を施され、スカートの裏側にも同じレースがあしらわれている。膝下までのロングブーツ。服の下には鎖帷子。鎖帷子のせいで身体は重く慣れないルナには走るのも大変だ。

 夕食後、リヴが慌てて錬成してくれた冒険服だ。ベルトには護身用のナイフと煙玉、リヴと同じ杖が装備されている。正直ルナには使い勝手などわからないが、もしもの時だと手渡された。そのもしもが来ないことを祈るばかりだ。


 アディルは長袖長ズボンに最低限の胸プレートに肘と肩にアーマー。その上からフードつきのマント。腰には剣を一本履き、ナイフが二本とウエストポーチに薬と非常食や引火する鉱石などが備えられ、彼岸花のピアスを右耳にしている。


「その赤い花って彼岸花だよね? お揃いなんだ」


 ルナが尋ねるとリヴはくすぐったそうに髪留めに触れ。


「……キツにいからの贈り物」

「キツ兄?」

「俺らを育ててくれた兄貴みてーなもんなだ。キツネって呼ばれてやがったからキツ兄だ」

「そうなんだ」

「今はもうどこにいるのかわからないけどね」


 そこに悲嘆はなく事実としてリヴの口はほんのり湿りながらも乾いていた。


「着いたぞ」


 馬車が動きを止めリヴたちは馬車から降りる。馬車を小さな林の中に隠し、少し歩くとそれは口のように迎え出た。


 大穴……そう表現しても文句はない。そんな穴だ。直径十メートル以上は確かにある穴の底は見せず霧が覆い隠している。


「これが穴……」

「そう、この下が冒険の舞台! 危険と浪漫に溢れた未知のエリアが待ちかまえているのだ」

「……」


 ルナの足は一歩退いた。底なしの闇に落ちていくような感覚が支配したのだ。誰であれこの穴を最初に見た人間は強張こわばり立ちすくむ。だが、胸を焦がす冒険家にとってこの穴はわくわくへの入り口。二人の足取りに迷いはなかった。


ルナそいつは頼んだ」


 そう言い残してアディルは先に穴に飛び込んでいった。霧に包まれた彼の姿は一瞬で消え、得体のしれない感慨が胸に巣食う。

 少女が得たのは『ルナ』という新しい歩みだけ。その身はやはり只人。才能など思い出せない。決められない、逃げられない、けど逃げたい臆病にそっとリヴの手が寄り添う。


「……」

「大丈夫。あたしが絶対に守るから、ね」


 もう、信じるしかない。ルナははっきりと息を吸って吐いて。


「い、いきまーすぅ!」


 そう宣言してリヴと一緒に飛び込んだ。


「きゃぁああああああああ!」

「いっぇええええええええい!」


 少女たちの姿は直ちに消え去り、濃霧がすべてを覆い隠していった。



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