二世教主、鬼になる

布川海音

鬼:日常―かけがえのない日々―

 ―もし神なんてものがいたら、僕はそいつの暇つぶしで生まれたんだろうね。―

 ―ふーん、そしたらあたしもそうかもな―


 夏の日差しの中においてなおその多くを遮ってしまう深い森の中

 向かい合う僕と彼女


 ―僕と君が同じ?君はむしろじゃないのか?―

 ―こちらにいるからこそ見えることもあるってことさ―

 ―なんだか煙に巻かれたような気がするけど―


 無邪気な笑顔を浮かべる彼女から目をそらす僕。

 そんな僕に合わせて彼女も傍らの木々に目を向けた。

 人前を歩けないのは僕も彼女も同じだ。理由はちょっと違うけど。


 ―何もかも持ってるお前に言われても嫌味でしかないね―

 ―何もかもを持っている?まさか、僕がどうやっても得られなかったもの、それを君はすでに手にしているじゃないか―

 ―あんなに持っていてまだ欲しがるのか?欲深な奴だな―


 そういうわけじゃない

 思わず口に出そうになった僕をみる彼女。その口元は楽しそうにゆがんでいた。

 彼女はいつも幸せそうだった。その生き方が羨ましくてしょうがなかった。


 ―何もかを持っているってことは、何も得るものがないってことさ―

 ―得るものがなくても生きていくことはできるさ―

 ―それは生きているとは言わないよ―

 そう、だから

 ―僕はきみが×××―



 僕は祝福と呪いを同時に身に受けて生まれた。

 産まれたときに母は亡くなってしまったそうだが、父親だけでなくもみんな僕をかわいがったし、母親がいなくても気にならない量の愛情をから注がれて育った。

 そんな僕は出歩けば多くの人が目の前に集まってきた。

 でも、そんなときは決まって遠くから憎しみのこもった目線が注がれているのを感じていた。

 一つ断っておくと、僕は何か特別に優れていたところがあるわけではない。

 ただ親がという宗教の教主で僕はその息子だった、そんな理由でぼくは常に人に囲まれていた。

 ここまで聞いて、僕のことを羨ましいと思う人がいるかもしれない。

 子供の頃の僕もそうだった。なんでも思い通りになる、誰よりも偉い存在だと思っていた、そんな僕はまさにクソガキだった。

 でも、をきっかけに僕は自分の家の恐ろしさを知り、人と関わることを極力避けるようになった。

 そうしている内に月日が経ち、僕は高校生になった。


「ふぅ…」

 夕暮れの自習室の中、課題として出されていた数学の参考書から顔を上げる。

 壁にかかっている時計を見ると時刻は17時を過ぎたところであった。

 もうそろそろ部活動が始まったころだろうか。

 衝立で区切られている学習机の上に散らばっていた参考書を片付け始める。

「あ、あれが例の…」

「へぇ、わりと普通…」

 課題に集中していた時は聞こえなかったが、帰り支度を始めた僕の動きを見て周りからささやき声が聞こえる。

「おい静かにしろー」

 教卓に座っていた教師が気のない声で注意すると声は聞こえなくなったが、興味深そうな視線は継続して注がれている。

「失礼します」

 帰り支度を終え、退出するときに教師に頭を下げると気まずそうに視線をそらされた。


「「お疲れ様でした!」」

 自習室を出ると途端に大きな声が聞こえる。

 声の方に目をやると小柄な男子生徒を先頭に多数の生徒がいた。

「う、うん…」

 うれしそうな顔から一転、突然のことで上手く返事ができなかった僕を心配そうに見上げている先頭の彼に軽く手を振り、問題ないことをアピールする。

 彼の名前は香峰小次郎、一家が丸ごと僕の父が興した漸諫教の信徒らしい。

 彼のように漸諫教の信徒は僕と同じ高校に入学したことで僕に付き纏う存在となり、僕はその対応に日々手を焼いていた。

 自習室に籠ることに気づいたときは名案だと自分をほめたくなったが、結局は待ち構えられてしまい、逆に困っている。

 そんな僕の気持ちを知る由もなく、帰り道を急ぐ僕の後を追いかける小次郎君。

「若様!本日もお会いできて光栄です!」

「う、うん…ありがとう…」

 待ち伏せているんだから会えるのは当然だろ、という言葉を喉奥で飲み込む。

 若様、というのは僕のことだ。僕の名前に若なんて文字は入っていないが、父が教主なので若と呼ばれている。呼び名すら僕は自由にできないのだ。

 小次郎くん+その他の質問をのらりくらりとやり過ごしながら玄関で靴を履き替えると、校門の前の人影がこちらに向かってくる。

「遅い!」

 と口をとがらせるのはこの学校ではない制服を身にまとう女子生徒だ。肩下ほどの色素の薄い髪をなびかせ、右腕にはオシャレなのかピンクのシュシュが存在感を示している。その顔立ちは卵型で各パーツが整っているが、今はその形のいい眉を吊り上げていた。

 彼女、緋坂朋美はこの学校の生徒ではないが、度々こうして校門前で僕を待ってくれている。

「若様に失礼な…!」

「若様って誰?あたしが待ってたのは菱也よ!あんたに文句言われる筋合いはないわ!」

 どうやら小次郎くんと朋美は相性が悪いようで、顔を突き合わせるたびにこうしてガルガルやっている。

「まあまあ、待っててくれてありがとう。それじゃ小次郎君、またね」

「フン、行くわよ菱也!」

「あ、若様…」

 仲裁に入った僕の腕を引き校門を出る朋美。背後に聞こえる小次郎君の声が悲しげだ。

「「…」」

 しばらくの無言ののち

「本日はいかがでしたか?」

 先ほどまでとはと声色を変えて朋美―いや、朋美さんが言う。

 能面のようなその表情からは一切の感情が読み取れない。

「うん、いつもと同じく平和な1日だっ」

「嘘ですね」

 僕の声を途中で遮る朋美さん。

「昼休み、トイレに向かうために教室に向かう際、1学年上の男子生徒に呼び止められていましたね」

「うーん、そうだっけ」

 いつもながらその情報収集能力には驚かされる。学校も違うのにどうやって調べているのだろうか。

「いつも言っていますが、私は菱也様のボディーガードなのですから、ご自身に危機が及んだ際は報告していただかないと」

「特に大した話じゃなかったからさ。ちょっと家の話になっただけ。」

「それで殴られるのが大したことではないと」

「うーん、それくらいで君を呼んでもキリがないからさ」

 その度に彼女を呼んでいたら彼女の学校生活に支障が出てしまう。それに

「もし僕が呼んだらどうするつもりだったの?」

「まずは菱也様の顔に汚らしい手で触れたことを詫びさせ、そのあと穏便に退学していただきます」

 やるといったら必ず彼女はやる、それがわかっているので呼ぶわけにはいかないのだ。

「心配しないでも僕なら大丈夫だよ。最近は校門で彼女待たせやがって羨ましいぞ!ってむしろそっちの方が多いかな?」

 と適当にごまかすと

「…そうですか」

 とうつむく彼女。その横顔はちょうど前髪に隠れて伺うことはできなかった。

 彼女は高校に入学したときに父から

「お前もそろそろ必要だろう」と無理やりボディーガードとしてよこされた。

 はじめ彼女は僕と同じ高校に転校しようとしたが、「学校には信徒が多いので心配いらない」と強弁し、彼女は別の高校に通いながら学校以外の時間で僕を守ってくれている。

 さらに朋美さんが毎日校門で僕を待っていることで僕は他校の彼女がいることが公然の噂となり、賞賛と嫉妬の入り混じった視線を浴びながら学生生活を送っている。結果として家のことでトラブルが発生することは中学から高校で減少しているので、朋美さんのおかげといえるだろう。

「今度こそ何かあったら報告するからさ。今日も校門で待ってくれていてありがとうね」

「はい…」

 そんな話をしながら角を曲がる、すると僕の家が見えてきた。

 とある市の番地1つを丸ごと敷地とし、大きな屋敷の後ろに山を私有地として所持しているのが我が家である。

 僕の家の玄関につくと朋美さんはインターホンを鳴らし、出てきた警備員と会話する。すると地響きのような音を上げながら玄関が開き僕たちを中へ迎え入れた。

「さぁ、参りましょう」

 そういいながらこちらを振り向く朋美さん。そんな彼女を見ながら

「ただいま」と屋敷に足を踏み入れた。


 僕の家は玄関をくぐってから更に歩かなければならず、外の玄関と家の玄関の間は広い庭になっている。

 漸諫教は自然との合一を目指しており、その教主がいる我が家の敷地内もこの庭をはじめ、家の敷地内の多くは草木が生い茂っている。また、裏手の山は修行として一般信徒も立ち入るための道はあるのだが、それは道というにもはばかられる細い通路であり、それ以外はほとんど手が入っていない。

「ここは本当に心が洗われますね」

 嬉しそうに朋美さんが言う。朋美さんは漸諫教の信徒ではないが、うちの庭はお気に入りのようで、表情こそ変わらないが声色が明るくなる。

 そうこうしている内に2つ目の玄関に到着した。

「では菱也様、私はここで」

「うん、じゃあまた」

 玄関を開けると大広間にでる。ここで目の前の階段を昇る僕と階段の奥に部屋がある朋美さんは一旦別れ、それぞれ自室に戻る。

 その後はお互いに動きやすい格好に着替え、朋美さんのロードワークを一緒に行うのが最近の日課になっている。

「菱也様も最低限の体力をつけていただきたいと思います」という朋美さんの一声から最近一緒に行うようになったが、外周、サーキットトレーニング、室内に戻り筋力トレーニングと護身術の実践を行うというかなりのハードワークだ。この特訓は始めた当初の僕は途中でギブアップしてしまうことも多々あったし、今でも朋美さんの動きにはついていけず、終わるとへたり込んで動けなくなってしまうのだが、朋美さんは額に汗をにじませる程度で全く疲れた様子も見せないどころか、毎朝同じトレーニングを一人でしているのだという。

 あの細い手足にどれほどの膂力が隠されているのか、想像するだに恐ろしいが、今のところその力が僕に向くことはないのは幸運だ。

「朋美さん…護身術はもう…教えて…もらうだけで…いいよ」

「いえ、それはできません」

 息も絶え絶えな僕の提案をピシャリと遮る朋美さん

「やってみせ、言って聞かせて、させてみなければ人は覚えませんから。しっかり私と手と手を取り合い、実践していただきます」

 どこかの軍人みたいなことを言いながら僕を立ち上がらせる朋美さん。その姿はどこかウキウキしているように見えた。

「そ、そう…」

 その後僕はなすすべもなく朋美さんに連行され、護身術の練習としてしこたま組手の練習をしたり、関節を極められた。

 ロードワークが終わり、最後にクールダウンを行うとそれぞれ風呂に入り、食事の時間になる。

 朋美さんと一緒に大広間右側の部屋に入ると途端にいい香りが鼻をついた。

「菱也様、朋美ちゃん、お疲れ様。」

 それぞれ席に着いた僕らに明るく声をかけながら器を手際よく並べるこの女性は堰戸香奈さんといいうちでハウスキーパーのような仕事をしてくれている。

 家事はいずれも一級品だが、特に料理の腕はこれまで出会ったどんな料理人にも負けることなく、家族全員の経験を踏まえても最高位を常にキープしているほどである。

 年齢は大学を卒業して間もなくといったところであり、僕よりも少し小柄ながらも程よく女性らしい丸みを帯びたその外見は料理を抜きにしても引く手あまたなように見える。しかし彼女は漸諫教の信者のようでその腕を見込んだ父にスカウトされ、ここで働いている、というわけだ。

「うん。今日も疲れたよ…」

「香奈さん、お疲れ様です」

 隣り合って席に着く(朋美さんはボディーガードだなんだと理由をつけていつも僕の隣に座りたがるのだ)と朋美さんはすかさず料理を並べてくれる。

 今日は卵スープに春巻き、何かの貝と野菜の炒め物のようだ。

「菱也様、少々お待ちください。」

 おもむろに朋美さんが言うと僕のお皿の春巻きを少し細かくすると箸で持ってこちらに向かい合う。

「そんなことしなくても自分で食べれるよ」

「まぁまぁ、いいではありませんか。」

 あーん、とこちらにすり寄る朋美さんの対応に困っていると、

「ほら、朋美ちゃん、菱也様も嫌がってるからさ」

 そういいながら香奈さんが間に入ってきた。

「いえ、菱也様は恥ずかしがっているだけなのです。さぁ、さぁ、さぁ!」

「と・も・み・ちゃーん?」

 なおも言い寄る朋美さんだったが香奈さんの再度の忠告によりしぶしぶ箸を自分の方に向けると食べ始めた。

「ありがとう、香奈さん」

 そういう僕に

「いつものことですから」

 香奈さんはそういうといたずらっぽく笑い

「私にお願いしたらやってあげますよ?」と耳元でささやく。

「ちょっと距離が近くありませんか?」となりからとても冷ややかな視線とともにそんな言葉が投げかけられた。

「では私はこれで、冷蔵庫に朝の食事は用意してありますので」

 朋美さんににらまれていた香奈さんはそういうと手早く着ていたエプロンを脱ぎ、手をひらひらさせながら部屋を出て行った。

「むむ、油断できませんね…」

 隣でそんなことを言う朋美さんをよそに僕は箸を進める。

 うん、おいしい。なんというか、おいしいとしか形容できないな…

 香奈さんの料理はいつもながらの絶品だ。朋美さんもたまに教わったりしているらしいがどうやら香奈さんの味の再現は難しいようで、「どうしてできないんでしょう」と無表情ながら頬を膨らませているのを見たことがある。

 その後、機嫌を直した朋美さんと他愛ない雑談をしながら食事を終えるとそれぞれ食べた分を洗い、僕の部屋に戻る。

「さぁ、お勉強です」

 そういう朋美さんと一緒に宿題をしていると

「今日は金曜日なので明日は休みですね」

 と朋美さんが話してきた。

「そうだね」

 ……

「今日は金曜日なので明日は休みですね」

「うん、そうだね」

 ……

「菱也様、一度彼女になった女性には冷たく当たるタイプですか?」

「どうしたの急に」

 朋美さんをみると表情に変わりはないが、背後から鬼がこちらに凄んでいるのが見える。

「例えばの話ですが、ここに高校生の男女がいたとします」

「(よくわからないけど)うん…」

「そこで女子の方が勇気を出して男子を休みの日に遊びに誘いました。さて問題です。男子はどうするのが正しいと思いますか?」

「それは、誘いを受けてあげることじゃないかな…」

「そうですよね、ではもう一度」

 というと

「今日は金曜日なので明日は休みですね」

 と繰り返す朋美さん

「…良かったら明日どこか行かない?」

「あら、いいですね」

 ぱちりと手をたたく朋美さん。

 その後は明日どこに行くか話し合い、明日の朝も早いのでと朋美さんは自分の部屋に戻っていった。

 なんだか浮足立っているその後ろ姿を見送り、扉を閉める。

 そのまま勉強机の前の椅子に腰かけながら目をつむると、今日一日の出来事が頭の中をよぎる。

「はぁ…」

 僕の家は漸諫教のおかげで成り立っているが、この国では歴史の浅い宗教は白い目で見られることが多く、漸諫教もその例に漏れない。活動内容をよく知らないが、もしかしたら実際に人を食い物にしているのかもしれない。

 それゆえにひどい言葉を投げかけられることもあるが、人は生きていれば一定数の他人には嫌われるものとして割りきることがようやくできてきた。

 父は漸諫教を立ち上げた人間だ、今も修行と称して色々用事があるらしく、ほとんど家に帰ってこない。それでも早くに母を亡くしてしまった僕が寂しくないようにと朋美さんや香奈さんを家に呼んでくれているのはわかる。

 それでも

「なんだかね…なんだかなんだかだよ…」

 今の僕は父が用意した家に住み、父が用意してくれた、もしくは父が原因でこちらにすり寄ってくる友人と交流しているだけだ。きっとこのまま大人になったら父の後を継ぐのだろう。

 それが僕には我慢ならない。とはいえ結局はそのぬかるみを享受してしまっている。

「さて、寝るか」

 どうしようもない苛立ちを覚えながらあえて明るい声で電気を消し、ベッドに潜り込む。

 僕なんかに構わず、自分だけの人生を生きてほしいなぁ。

 今日最後まで一緒にいた彼女の姿を思い浮かべながら僕は眠りについた



 菱也と別れた後、緋坂朋美は自分の部屋に戻ると、「ふぃ~~」という声とともにベッドに突っ込み、足をバタつかせた。

 やった、誘えた。やった、誘えた。やった、誘えた。

 喜びの声とともに頭の中で先ほどのやり取りがリフレインする。

 最初に誘った際に菱也から全く反応がなかったときはどうにかなってしまいそうだったが、何とかデートに誘うというミッションをクリアすることができた。

 菱也の周りには香奈という強敵がいる。自分にもアドバンテージはあるが、この家にいるということは油断ならない強敵であることはわかっている。

 ひとまず明日は自分が一歩リードした。あとはこれをどう活かすかだ。

 そう決意すると部屋のクローゼットを探り、着合わせを模索し始めた。

 彼の隣に歩いている自分を思い浮かべるだけでほおが緩み、笑顔がこぼれてしまう。彼女は恋する乙女であった。

 高校に入る直前、とある理由で家族を失った彼女は路頭に迷おうとしていたところをそこに居合わせた菱也の父である漸諫教教主に拾われ、彼の息子である菱也のボディーガードとして彼の家に厄介になることになった。

 その頃の彼女は家族を失った衝撃に加え、見ず知らずの家に急にやっかいになることもあり、憔悴しきっていた。最近は少しずつ回復してきてはいるが、彼女の表情が乏しいのもこの時のショックが原因である。朋美が初めて菱也の家に来た姿を見た人は彼女の姿に今にも消えてしまいそうな儚さと危うさを感じ取ったという。

 初めて菱也と引き合わされたのはその日の午後であった。黙って頭を下げる朋美に菱也は「よろしくね」と声をかけるだけであった。

 ボディーガードと言いつつ実態は体のいい奴隷でもあることを自覚していた朋美は菱也が自分をどうしようともうどうでもいい、そんな気持ちで日々を過ごしていた。そんな彼女に菱也は特に何もすることなく、そうして時間が経つうちに彼女は身近にいる菱也のことを目で追うことが増えていった。

 そこで菱也が自身の境遇に諦観していること、私のことを菱也の家から解放されることを望んでいることに気づいたとき、この人の役に立ちたいと願うようになった。

 そこから彼女は体を鍛えだした。幸いにも菱也の父のボディーガード達が空いた時間に色々教えてくれたおかげで彼女の警護スキルはぐんぐん上達していった。

 その警護スキルとを持って彼女は菱也の警護の座を正式に一人で任されるようになり、今に至る。

 学校は菱也と同じところにしようとしたが、拒否されてしまったので菱也の学校の近くに転校した。最初は菱也と同じ学校でないことに不満だったが、今では彼の周りの信徒たちを撃退する有力なカードとして重宝している。

 朋美は漸諫教の信徒が大嫌いだった。その信徒に菱也が囲まれ、張り付いた笑みを浮かべて対応している場面、その噂を聞きつけた素行の良くないものに言いがかりをつけられている場面、実際に家族がその漸諫教を信仰している人間が菱也に暴力をふるうところ、彼女はすべてを目にしてきた。そばにいるときは彼女が身を挺して彼から危険を遠ざけたのだが、そうでない時はどうしようもなく、忸怩たる思いを抱えていた。

 菱也が何をしたのだろう。菱也のどこが悪いのだろう。菱也にどうしろというのだろう。

 湧き出る暗い気持ちを押し殺し、明日の準備を進めていく。

「明日だけでも気持ちを楽にしていただければ…」

 それが彼女の最近の行動原理であった。

 あわよくばという若干の下心もあることは否定しないが。

 身支度を整えた彼女は最後に自身の髪をまとめていたシュシュを枕元に置き、弾む心を抑えながら眠りについた。



 翌朝、目を覚ました僕は軽く身支度を整えると、1階に降り、香奈さんが昨日用意してくれていた朝食を食べることにした。

 昨日の勉強会で朋美さんは待ち合わせてからどこかに出かけたいという要望を聞いていたので、ショッピングモール近くで落ち合うことになった。

 それまでは時間があるので、一旦自室に戻ることにした。

 僕の部屋は窓を開けると山が一望できるようになっており、日差しが優しく降り注ぐ中、風にそよぐ緑色の群れを眺めていた。

 神聖な場所として人の立ち入りが禁じられているこの山は僕にとってこの家唯一の心の癒しであった。子供の頃は友達がいた僕は彼らと一緒に日が暮れるまでそこで遊んだものであった。あの日までは。

「くそっ…」

 嫌なことを思い出してしまった。かぶりを振って頭の中から追い出す。

 すると

「…?」

 山の中腹あたりで何かきらりと光った気がした。あそこは確か、僕たちがテーブル岩と呼んでいた大きくて平たい石があるところだ。

 疑問に思っていると出発の時刻に合わせていたタイマーが鳴り響く。

「行かないと…」

 慌てて薄手のシャツを羽織ると肩にバックを引っ掛け、玄関へ向かった。


 朋美さんがいないため、車を出してもらい、待ち合わせ場所に急ぐ。

 そこでは朋美さんが所在無げに俯いていたが、僕に気づくと駆け寄ってきた。

「ごめん、待たせちゃって」

「いえ、今来たところですので」

 いつものやり取りを交わす僕と朋美さん。

 今日の朋美さんは上が袖がゆったりとした薄めのトップス、下が白いパンツルックという非常に涼しげな姿であった。小さなバッグを肩にかけ、手首にはピンク色のシュシュが目にまぶしい。

「似合ってるよ」

「ありがとうございます」

 そんな言葉を交わすと朋美さんが前に立ち歩き始めた。

「今日はどこに行こうか?」

「私の服を見ていただけないでしょうか?」

「あまり詳しくないけど、荷物持ちなら力になるよ」

 二人で歩いて10分ほどの近くのショッピングモールに向かうことにした。


 それから数時間後。

「今日はありがとうございます」

 休憩として立ち寄ったカフェテリアでそういうと朋美さんは頭を下げた。

「いや、こちらこそ。楽しかったよ」

 そういうと喜びの色を浮かべる朋美さん。

 休憩を提案するまで、色々なお店を巡った。朋美さんは吝嗇家ではないようで、あれもこれも買うことはせず、何店舗も巡ったにも関わらず、荷物は僕の片手に収まる程度である。ただし、店内では度々試着するので、その度に僕は警戒と生暖かさが半々の居心地の悪い視線を浴びたものであった。

「じゃあ次のお店に行こうか」と外に出ようとすると

「おい、お前!」

 の声がした。

 その瞬間、朋美さんが僕の腕を引きその声の主と僕の間にその身を置く。

 声のした方角を見ると年が少し上の大学生くらいの見た目の男性が立っていた。

「お前、漸諫教のだろ!?」

 眼光が鋭くなる朋美さんを他所に、彼の声を受け、少しずつ周囲がざわめきだす。

「カルト宗教のボンボンが、偉そうに女連れて歩いてんじゃねぇ!てめぇは生きてるだけで迷惑なんだよ!」

「貴様…」

「気にしないで、行こう」

 捲し立てる男性に今にも飛び掛かりそうな朋美さんの肩を引き、外に出ようとすると

「おい、聞いてんのか!?」の声とともに彼が手に持っていたコップがこちらに飛んできた。

 コップは朋美さんがキャッチしたが、中の水がかかってしまう。

 目を見開く朋美さん、一方僕は

「気が済みましたか、では僕らはこれで」と言い店の外に出ようとする。

 しかし朋美さんは逆に男に詰め寄り、

「忘れ物だ」

 の声とともにコップを男性の顔に叩きつけようとしたので、すんでのところで止め、喧騒の中、何とか外へと連れ出すことに成功した。


 朋美さんは落ち着きを取り戻すと、ひどく落ち込んだ様子であった。

 特に僕に水がかかってしまったことを気にしていたようで何度も謝ってきた。

 なぜ彼女が謝るのだろう、僕と一緒にいなければ、僕と出かけなければこんなことにならなかったのに。

 誰が見ても謝るのは僕であるべきなのに。

 こちらこそと謝る僕に彼女はひどく悲しげな瞳で「申し訳ございません」と繰り返すだけだった。

 そんな様子であったため、何となくきまずくなり、帰宅後お互い部屋に戻ると、僕は何もする気がせず、ベッドの上で寝転んでいた。

「そんなのわかってるっての…」

 思わずつぶやく。

 先ほどの彼のいうことは正しい。きっと多くの人が賛同するだろうし、僕個人としても何も言い返すことはない。

 朋美さんが楽しんでいたのに邪魔してしまった。それが唯一といっていいあの男の落ち度である。

「生まれがすべての世の中です、ってね」

 そういいながら窓を開け、外を見る。

 こんなことは日常茶飯事だったので、言われること自体にはもう何も思わなくなってしまった。もっとひどい言葉を浴びせられたこともあるし、時には暴力で応じられたこともあった。僕が生きていくうえで今後も避けては通れないイベントなのだろう。

 目を凝らし、山を見る。朝とは違い月明りのもと横たわる深い緑色の姿は、風に合わせて呼吸をしているように見えた。

 思えば子供の頃から随分とご無沙汰だったなぁ。

「久しぶりに明日は山に登ってみるか」

 誰ともなしにそう呟くと、窓を閉め、ベッドの上に再度横たわる。そのまままどろんでいる内に深い眠りについた。


「「久しぶりに明日は山に登ってみるか」」

 山を見ながらそう呟く菱也の横顔は先ほどよりかはいくらかリラックスした表情であった。

 その姿を朋美は自室でほっとため息をつく。

 菱也が夕食に出てこなかったときは心配したが、どうやら深刻なダメージを受けたというわけではないようだ。

 束の間の安心ののち、すぐさま身を焦がすような怒りが込み上げてくる。

「あの男、菱也様になんということを…」

 あの後少々ところによると、どうやら直前に彼女に別れ話を持ち掛けられており、苛立ちのままあの店に入った際に、菱也の姿を見て、言いがかりをつけてきたようだ。

 というあの言い方からすると、おそらく信徒たちから菱也の特徴なり、外見なりを聞いていたのかもしれない。

 あの後すぐに漸諫教上層部に向けて彼の情報を流したので、近いうちにがその身に起こるだろう。

 本当は自分の手で鉄槌を下したかったが、菱也様の目も考え、私が直接制裁することはできないよう指示されたので、せいぜいひどい目に遭うことを祈っておく。

 そんなことよりも、

「私が菱也様を守らなくては…!!」

 感情が思わず先走って口から出てしまった。

 大事なデートを邪魔されたこと以上に菱也にあの顔をさせてしまった、そんな自分にどうしようもなく腹が立ったし、情けなくなった。

 元々菱也様を漸諫教の楔から解き放つことを目指して動いていたはずだった。

 そのはずなのに結局自分は菱也とのデートで浮かれてしまっていた。コーディネートを必死で考え,褒めてもらえたことがうれしかった。そして言い合いになったときに菱也に水がかかることを阻止することができなかった。

「まだまだ修行が足りませんね…」

 ひとり呟き、運動する格好に着替え、外へ出ようとすると、ノックの音と共に、「朋美さん、いる?」という声が聞こえた。声の主は間違えるはずもない、菱也であった。

「少々おまちを」思わず早口になりながら慌てて身支度を整え、ドアを開けると菱也が立っていた。

「ほ 」

「今日は本当にごめんね。あんなことになっちゃったけど、これだけ渡したくて」

 朋美の声を遮り、菱也が片手に収まるくらいの小さな紙袋を手渡した。

「これは…?」

「本当は最後に渡そうと思ったんだけど、なんだか渡しそびれちゃって…受け取ってくれるとうれしいな」

「あ、ありがとうございます」

「じゃあ、僕はこれで。」

 そういいながら階段を上がっていく菱也を見送り、部屋の中に戻る。

 菱也からもらった紙袋を開けると、中から小さなブレスレットがでてきた。

「これは、確か、買い物をしていた時に…」

 そのデザインには見覚えがあった。お店を冷やかしていた時にちらっと見たがどうしても手が出ず、見送ったものであった。

「菱也様、ありがとうございます…」

 ブレスレットを握りしめ、上にいる菱也に朋美は深く頭を下げた。

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