愛されることだけの日々の代償

 スカーレットと別れたメリルは父王を見舞っていた。父王の寝室に入り、見舞った者の名を記録する帳簿に署名してから、父が昏々と眠っているベッドの側に座る。


「父上、メリルがお傍に参りましたよ」


 メリルはストロベリーブロンドの短い髪を一房耳に掛けて、眠っている父の手を取り、握りしめた。大きな右手には、白い薔薇と赤い薔薇を象った宝石のついた指輪が二つ輝いている。父王は返事をしなかった。

 意識のない父の側で、メリルは握りしめた手に様々な思いをめぐらせていた。

 君主としての尊敬、象徴としての在り方。姫ゆえに殊更象徴としての姿は大切で、象徴にできる最善と果たすべき仕事とは何なのかを考えた。

 国の象徴になれなければ、姫など婚姻の道具にすぎないと思うと、自らの立場の複雑と脆さに眩暈がする。

 王女として成長するに従って父王と接することは増えたが、メリルは幼少期に父に構ってもらった記憶がなかった。メリルの母である妃はメリルを産んですぐに亡くなり、父は戦争にかまけていてメリルには親というものの感覚がよく分からない。父王が病に倒れた今、距離はとても近いのに、遠く、親しみは希薄であった。

 父は君主としては偉大であったかもしれない。だが父親としてはあまりにも不出来であった。母のいないメリルを預けきりで遊んでくれることもなく、何より父はメリルの心の拠り所を冷たく扱った……

 可憐な唇を噛みしめて、メリルは敢えて父を責めたりはしなかった。一人きりであった幼い日の自分の心を抱きしめてくれたのは父ではなかったと思うと、弱り果てている父に対して名状したくない思いが湧いてくる。

 メリルは父の手を離した。手をつないでもらったことがあったかどうかを考えた。

 それからメリルは深呼吸して、父の側を離れた。


 寝室を出ると、バフォメットが物憂げに佇んでいた。メリルはぎょっとして半歩後ずさっていた。ヒールの踵が扉にぶつかって、退路はない。垂れ目なのに優しさも温かみの欠片もない灰色の瞳が此方を見ている。待ち伏せられていたかのような、そんなざわつきが心を波打たせた。


「……名用で父の元へ?」

「何用と仰られましても、ただ陛下を見舞いに参上した次第です」


 バフォメットは心外げに片眉をぴくりとさせた。メリルは自ずと手のひらを握りこんでいた。


「帰ってください」


 バフォメットはきょとんとしている。父王の意思は娘である自分を次の君主にすることにまず間違いない。だが王位継承の際に無視できないこの魔物の意思を、メリルは努めて気にしないようにしていたが、敵意は隠せなかった。

 父王の寵臣なのに、この魔物は何を予見しているのかと思うと、分からないものは怖かった。

 帰れという先の言葉などまるで意に介さず、沈黙を挟んでからバフォメットは問うた。


「冠は事実上公国のもの、どう覆すのです?」

「方法は、いくらでもあります、必ず覆します」


 メリルは毅然として、逆にバフォメットを問いただした。


「首席執政官、どうしてわたくしを支持しないのです?」


 メリルを支持しないということは、仕える君主の意に反する行為で、帝国と公国の関係を考えると売国と言われてもおかしくはない。この魔物が王位継承順位の典範に厳密に従うとも思えず、メリルは何か重大な理由を期待して息をのんだ。

 ところがバフォメットはちょっとだけ考える様子を見せてから、ぶつぶつと一人言ちはじめる。その内容は掴みどころがなく、帝王製造機の予見がこうも軽いものかと疑うような口ぶりと言葉であった。


「気紛れでしょうか……あの美しい瞳ができない殿下への」


 ぼんやり考えていたバフォメットは、じろりとメリルを見た。凄んでいるわけでもないのに、熾(お)き火のような不気味な瞬きが鋭い睫毛から放たれる。


「一つ申し上げるならば」


 眉宇に不審の色を張ったメリルに、途方もなく虚ろなまなざしが向いた。


「臣はどうやら、殿下を嫌っているようです」


 メリルは無表情にドレスのスカートをからげた。心は恐怖に震えていた。次期君主としての気位を取りこぼすまいと努めて美貌を凍りつかせたまま、バフォメットの元から遠ざかろうと踏み出す。


「…………覆す方法は、いくらでもあります。貴方の個人的な感情がわたくしを支持しない理由なら」

「方法……是非、お聞かせ願いたいものですな」


 無言を貫くメリルの背に、バフォメットは意地悪く投げかける。


「陛下の死に際して自分が次の君主だと遺言させて王位を確約されるおつもりか?」

「ごめんあそばせ」


 病室から離れる一歩一歩が、沈むように重い。

 思えばあの魔物は、バフォメットはメリルが物心ついた頃よりずっと、メリルに関心がない素振りしか見せていなかった。メリルの容姿や才覚を褒めることさえ一度たりともなかった。

 蝶よ花よと周囲の称賛を受けてきたメリルは愛されることしか知らなかったから、此処まで直接的に嫌われた試しがなくて、その場を去るという敗北に甘んじた自分が口惜しかった。恐怖と疑問に締め付けられながら、傷ついている場合ではない、自分の支持者は多く存在すると己に言い聞かせるように、そう思えば思うほどたった一つの嫌悪は返しのついた銛(もり)のように、メリルの胸を潰したのであった。


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