第36話 赤と傷
東真の姿はない。文哉は辺りを見回して、やけに揺れる茂みを見つけた。
「司、南央ちゃんと西雅くんを頼む」
「ちょ、主任!」
文哉は茂みに向かって駆け出した。運動不足の足がもつれそうになりながらも必死の形相で前に進む。近づけば聞こえる声に文哉は歯を食い縛った。
「なんですか! 離してください!」
「お静かに! ついて来てください!」
切迫した東真の声と、もう1つの圧を感じる低い声。文哉は茂みをかき分けてその中に飛び込んだ。頬に枝が触れて肌が熱くなる。
「東真くん!」
「文哉さん!」
垂れた赤をそのままに進んだ文哉は、目の前に見えた東真の腕を掴んだ。茂みを抜けると、周囲からは見えにくい狭い空間に出る。文哉が掴んだ腕と反対の腕には見知った顔がいた。
「あなたは、島川原カンパニー営業部の」
「み、新張さん」
イベントの企画を共に担当している島川原カンパニー営業部の
「井高さん、彼の手を離してください」
「できません。社長の命令ですから」
井高は東真の腕を掴む手の力を強めた。東真が痛みに顔を歪めると、文哉は井高の腕を掴んでギリギリと力強く握った。今度は井高の顔がぐにゃりと歪んだ。
「離せ」
文哉が低く震える声で凄むと、井高の顔が青ざめて手の力が緩んだ。その隙に文哉が東真の腕を引いて井高から引き離す。そして東真を自らの胸に閉じ込めると、井高を鋭く睨みつけた。
「文哉、さん」
「大丈夫。もう大丈夫だからな」
井高を睨みつけながらも、文哉は柔らかく包み込むような声で東真に声を掛ける。東真は震える手で文哉のシャツをギュッと握り締めた。文哉はその背中をトントンと叩きながら、井高を視線で射貫く。
「そちらの社長にお伝えください。無理やり連れていくような真似は俺が許しません。お話があるようであればアポを取ってご自分でお越しくださいとお伝えください」
「いや、その……」
「よろしいですよね?」
「は、はい!」
言い淀んだ井高を文哉がギロリと睨む。井高はガタガタと震えながら何度も何度も頷いた。
「ご理解いただけだようで。では、さようなら」
「へ、あ、その」
文哉はにこやかに公園の出口を指し示す。緩やかに動いた指先に釣られるように出口に視線を向けた井高はオドオドと視線を彷徨わせる。
「さようなら?」
「はい! さようなら!」
文哉はさらに口元の笑みを深める。反対に瞳は冷たさを増す。追い打ちを掛けられた井高は、ピシッと背筋を伸ばすとくるっと踵を返して逃げ出した。
「東真くん、大丈夫?」
「ふ、文哉さん、あの、助けに来てくれて、ありがとうございました」
「遅くなってごめんな。怪我してないか?」
文哉は俯く東真の腕を取る。そして掴まれていたところが赤くなっているのを見ると、チッと鋭く舌打ちをした。東真がその音に肩を跳ねさせると、ピクリと目を見開いて苦笑いを浮かべた。
「ごめんな。ちょーっと昔の悪い癖が出てるわ」
「昔の悪い癖?」
「そ、昔の話」
はぐらかすような口ぶりに不思議そうに顔を上げた東真。文哉は曖昧に笑って見せたけれど、東真は文哉と目が合う前にピシリと固まった。
「ちょ、文哉さん! 血が出てます!」
「血? ああ、そういえば枝で切ったかも」
文哉は言われて初めて気が付いたかのように、そしてどうでも良さげに傷に触れる。雑に血を拭うと、手の甲に鮮やかな色が広がった。
「ちょ、そんな雑に! ちょっと待ってください! あ、ハンカチ……は使ったから、はい! これ! ジッとしててくださいね!」
東真はポケットから取り出したティッシュでぽんぽんと傷口を拭う。文哉はされるがままになりながら、堪えきれずに小さく笑った。
「なんだか、懐かしいかもな」
「懐かしい?」
東真が首を傾げると、文哉はへらりと笑った。その瞬間に傷口が狭まって、また血が溢れる。東真は慌てて傷を押さえた。
「わ、また血が!」
「あはは、ごめんごめん。でも大丈夫だから。怪我なんて慣れてるし」
「慣れてるって……」
東真が不安げに眉を顰める。文哉はその顔をジッと見つめてから、視線をフイッと逸らして遠くを見やった。
「俺さ、東真くんくらいの歳のころは荒れてたんだよ。制服着崩して、学校サボって。吹っ掛けられた喧嘩は全部買ってた。怪我なんて日常茶飯事だったな。まあ若気の至りってやつだ」
文哉の昔話に東真は固まった。けれどふむ、と考えると1人納得して頷いた。
「ま、それでも高校卒業するころにはちゃんと足洗ったんだ。高3のときに学級委員長やってたやつがさ、毎日弁当作って来たんだよ。ずっと一緒にいてくれて、喧嘩吹っ掛けられたら俺の手を引っ張って逃げたり、怪我したら手当てしてくれたりな。面白いやつだった」
「格好良い人ですね」
「ああ、格好良かった。意地張って突っ張ってた俺なんかよりずっと格好良かった。あいつを喧嘩に巻き込まないために俺はサボリも喧嘩も止めた」
文哉は柔らかくニヤリと笑った。そしてその動きでまた吹き出した血を東真が拭う。
「あの、喧嘩とか怖いこと、もう止めたんですよね? それなのに今日は僕のせいで、すみません」
東真が傷を押さえたまま俯くと、文哉はその頭をぽふぽふと撫でた。
「いや。俺はあいつみたいに、守るために力を使いたいって思った。だから今日は、東真を助けられて良かった」
柔らかい笑みを浮かべた文哉は、東真の手を取った。そしてそのまま手を引くと茂みをかき分けた。
「戻ろうか」
「はい」
東真がキュッと文哉の手を握り返すと、文哉は頬を緩めた。ティッシュが離れた頬からは、もう血が流れることはなかった。
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