沈黙のシスターと、その戒律

鬼居かます

第1話 丘の上の古いアパート

 今年の夏はどこか変じゃないか? 


 俺は密かにちょっとだけそんな感じがしていた。





 いちおう証拠はある。


 例えば梅雨は先月のうちに明けてしまったし、


 まだ七月に入ったばかりのくせにもうセミがそこら中でじわじわ鳴いているからだ。


 東京ではいつもならどちらもっと後になる。






 とにかく暑い暑い暑い。


 もう夕方、正確には夜が始まろうとしているのに全然気温が下がらない。


 俺は学校帰りにこの曲がりくねった急な登り坂で、今、自転車を押している。


 やっぱり実家から電動アシスト自転車電チャリを強奪してくればよかったと本心で思う。






 ……まあ、無理だろうな。






 家には電チャリは一台しかなくて、


 それでなくてもお袋と万里まり姉ねえと有紀ゆき姉ねえの女三人の誰が使うかで日に三度はケンカをしているからだ。


 俺が入る余地はたぶんない。






 やっと到着した築四十年の木造アパートに着くと部屋順に並んでいる郵便受けの扉を開けてみる。






「あ」






 またかよ……。






 二0一号室、秋月あきづき史郎しろうのポスト、つまり俺宛に入っていた一通の封筒があった。


 手を伸ばしてそれを取る。


 縦二十センチ、横九センチのどこにでも売っている茶封筒で切手の消印は区内。


 そして裏側は相変わらず差出人不明。






 こんな手紙がもう二週間以上前から不定期に送られてくるのだ。






 最初は誰かのいたずらかと思っていた。






 だからそれとなく悪友でクラスメートの川口かわぐちたちにカマをかけてみたが、


 それらしい反応は得られなかった。


 なので犯人不明なこの手紙は、以来、俺の中ではかなり気になる事件になっているのだ。






 古くて軋む階段を上りながら、


 俺はそれをうちわ代わりに扇いだが中身が薄っぺらなので大した役には立たなかった。






 自室のドアを開けた。


 和室サウナかと思った。猛烈なよどんだ熱気がたまっていたからだ。






 意を決して俺は中へと踏み込む。


 そしてベランダと台所の窓を開けると涼しい夕方の風が流れこんできた。






 それでも室温が下がるまでまだ間がありそうなので高校の夏の制服姿のままベランダに出た。


 板張りの床がギシギシいう。






 西の空は見事な夕焼けだった。


 眼下の町はすでに夜が満ち始めていて、いくつかの街灯が一瞬咳き込んだ後に灯るのが見える。






 涼しい。


 このアパートは町のいちばんの高台にあるので風には不自由しない。


 俺は封筒の口を破って三つ折りにされた便せんを広げた。






 ……まただ。いつもと同じ文面。






 俺は思わず三つ向こうの部屋に視線を送る。


 今は明かりがついていた。《沈黙ちんもくのシスター》は今日はまだ部屋にいるみたいである。






 正直に告白すると俺は《沈黙のシスター》に最初に出会った日に一目惚れしていた。


 ……いや違う。


 正確に言えば俺はそのシスターの声に一耳惚れひとみみぼれしてしまったのだ。






「史郎くん、今帰りかい?」






 ケフンと空咳がしてがらりと隣の網戸が開いた。


 俺は手紙をくしゃくしゃに丸めてポケットに押し込んだ。


 隣室の細井ほそいさんだった。


 細井さんは三十代と思える男性でさわやかな人だ。今は白い半袖ワイシャツ姿である。






「勤め帰りですか?」






「ああ、今日も暑かった」






 俺が尋ねると細井さんはネクタイをゆるめながら笑顔になる。


 細井さんの仕事は詳しくは知らないが外回りの営業で一日中歩き回っているという。






 相当の激務でいったん大変な仕事が入ればなかなか家に帰れない日も続くらしく、


 そのことで奥さんに愛想を尽かされて只今このアパートで別居中であるらしい。






 だが細井さんの人なつっこい笑顔に暗さはまったく感じられない。


 俺はそんな細井さんが好きだった。






 俺のことを詮索しない代わりに俺も細井さんのことを必要以上に尋ねない。


 互いに干渉をしない間柄なのである。






 俺は常日頃そんなくつろげる対人関係に憧れていて、


 今回巡って来たチャンスを生かしてここにひとりで住み着いたのだ。






 電話が鳴った。


 俺はポケットからあわててスマホを取り出すと、


 いっしょになって出てきたくしゃくしゃになったさっきの手紙が床に落ちた。






 すると細井さんが拾ってくれた。


 俺は無言で礼をする。


 電話は下の姉である有紀ゆき姉からだった。迷わず保留のボタンを押す。






「出なくていいのかい?」






「いいんです。下の姉貴でした。うっかり話したら三十分は解放してくれません」






 俺がそう答えるとなぜだか細井さんは苦笑した。


 もしかしたら細井さんの奥さんも有紀姉と同じタイプの女性なのかもしれない。






 俺がここに暮らし始めて一ヶ月が経過していた。


 ウチの家族は父と母、そして二人の姉と俺である。






 家族関係は激しく濃厚で今日は誰と会ってなんの話をして、


 自分はどう思ったかをいつまでもいつまでもお互いに会話し続けている家庭だった。 






 むろん俺がそれから逃げられる訳がない。


 だから俺のクラス全員の名前や交友関係はすべて家族に筒抜けである。


 ただひとりの人物を除いて……。






 ……つまりはプライベートもなにもあったもんじゃない暮らしであったのだ。


 そんな騒々しい生活から逃れたいと常々考えていたときに思いがけないチャンスがやって来た。






 事の始まりは、両親が和室が欲しいと言い始めたことだった。


 そうしたら姉たちが自分たちの個室も欲しいと口にし始めたのである


(ふたりの姉は女同士ということで同室だった)。




 そうすると車庫にも屋根が欲しいとか、


 お風呂が狭いとか物干しのテラスが雨漏りするとか……。


 そんなこんなで結局我が家は完全リフォームに入ったのである。






 と、なると必要なのが仮住まいで、


 探してまず見つかったこのアパートはとても家族5人が生活できるスペースではなかったのだが、


 これ幸いとばかりに俺はこのアパートに一人暮らしを申し出た訳である。


 そして残りの4人はその後に見つかった賃貸マンションに移り住んで現在に至っている。






 気がつくとすっかり日は落ちていた。


 町には明かりが灯り渋滞の街道にクルマのテールランプの行列ができていた。


 俺を包むひんやりとした風が心地よい。






「なんだあれ?」






 最初に気づいたのは細井さんだった。


 俺は細井さんが指さす先に目をこらす。






 すると駅方向の公園の手前に夜空よりも黒い入道雲みたいな煙が、


 だんだん大きくなっていくのが見える。






「火事……ですかね?」






 まさかと思いながら俺はつぶやいた。






「ああ、火事だな。間違いない」






 俺の横で細井さんが大きく頷いていた。






 ……本当に火事だった。






 やがて建物の一角から赤黒い炎が吹き出すのが見えた。


 その火に照らされて隣家の輪郭がぼんやりとわかる。






「おっと、こうしちゃいられない」






 細井さんが駆け足で自分の部屋に飛び込んだ。






「どうしたんですか?」






「見物だよ。見物」






 どかどかとあわただしい足音を残して細井さんは去って行った。


 火事見物か。……火事と喧嘩は江戸の華とは言うけれど……。


 俺は細井さんの意外な一面を見た気がした。






 ふと思い出した俺は三つ向こうの部屋を見た。するといつのまにか明かりが消えていた。


 俺はポケットの手紙を取り出してくしゃくしゃの皺を伸ばす。






 ――尼子あまこ冴絵さえから目を離すな――






 いつもと同じ文面でフォントサイズを大きくしただけのプリンタで印刷された明朝体。


 その手紙が目を離すなと警告する尼子冴絵とは、


 《沈黙のシスター》とあだ名されている俺と同じクラスの女子生徒のことである。






 そしてその尼子冴絵が一人暮らしをする部屋は、ここから三つ向こうの部屋だった。


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