お隣さん

 北白川先生の娘さんがユリさんになるのだけど、お父さんは、


「まだ生きてやがりますよ。葬式の通知もありませんし」


 相手の白人男性は北白川先生と恋に落ちてユリさんが生まれたそうだけど、北白川先生を捨てて母国に帰ってしまったらしい。たく、男って、


「ホントにそうです。それだけじゃなく、余計な厄介事を押し付けやがって」


 ユリさんの父親はエッセンドルフって国の人だけど聞いたことが無い国だなぁ。


「人口五万人足らずの吹けば飛ぶようなヨーロッパの小国です」


 オーストリアとスイスの間ぐらいにあるらしい。ここで健一がなにかを思い出したみたい。


「ユリさんって・・・ユリア・エッセンドルフ侯爵であらせられますよね」


 こ、侯爵だって。そんなものが日本にいるって言うのかよ。


「御無沙汰しています」


 知り合いなのか。健一によるとエッセンドルフ公国の仕事を請け負ったこともあって、その時に挨拶したとかなんとか。そんな仕事も健一はやっていたのか。


「本日はユリア侯爵の特別の思し召しでここまで入れて頂き恐縮次第も御座いません」

「月夜野社長や如月副社長からもお話を伺っております。これからも遠慮なさらず遊びに来てくださいね」


 なんだって! ユリア侯爵は特命全権大使も兼ねていて、この部屋は大使館ってなんなのよ。大使館ってその国の外交を代表する機関だけど、その扱いは特別扱いなんてものじゃない。


 ごく単純には大使館の敷地内は日本じゃなくエッセンドルフ公国の領土になり、そこでは日本の法律じゃなくエッセンドルフの法律が適用されてしまう。出入りだってそうで原則で言えばパスポートが必要な外国になるんだよ。


 現実的には大使であるユリア侯爵の許可でOKになるそうだけど、逆に言えばユリア侯爵の許可がない限り警察だって入れないところになるはず。警察どころか政府の人間だって誰も足さえ踏み込めないところのはずだよな。


 ユリア侯爵だけどエッセンドルフ公国での地位も高いそうなんだ。公国だから公爵が王様になるのだけど、侯爵は王様である公爵に次ぐナンバー・ツーになるとか。それも本来のナンバー・ツーは公太子の侯爵らしいけどこれは同じ侯爵でもマーキスで、ユリア侯爵はその上のマルク・グラーフってなんだよそれ。


 とにかくハンリッヒ公爵の異母妹と言うだけでなく、エッセンドルフで起こった政変による騒動を鎮めた救国の英雄だっていうから驚くしかない。まさにエッセンドルフ公国のVIPだ。


 とは言うものの小国だからあまり有名じゃないけど、日本でもエッセンドルフ公国との友好関係を保つ重要人物として扱われ、とくに皇室とは個人的にも仲が良いって・・・とんでもない隣人がこの世にいるものだ。


 ちょっと待てよ。このタワマンを引っ越し先に選んだ時にこの部屋を紹介されたんだ。正直なところリッチすぎた気はしてた。部屋はこれでもかって広いし豪華だものね。でもさぁ、フロアにある三室のうちうち二室は空いてたんだよ。


 そりゃ、こんな高いところに住める人間は限られるとはいえ、これだけの物件がずっと空いているのは不自然な気がしたんだ。あれって、もしかして空いてたんじゃなく、空けさせていただったとか。


「どうしてもセキュリティの問題がありまして、フロアごと買い取らせて頂きました」


 ひょぇぇぇ、さすが侯爵様だ。だったらあの信じられない家賃も、


「月夜野社長と如月副社長から友人を住まわせてやって欲しいと頼まれれば嫌も応もございません。良さそうな人で安心しました」


 そういう事だったのか。新居探しの時も帯に長し襷に短しであれこれ悩んでいてコトリさんとユッキーさんに相談したことがあるのだけど、


『なるほどな。有名人扱いされるのも災難やな』

『マスコミのネタにされると厄介よね』


 こんな感じで相談に乗ってくれて、


『知り合いが適当な物件持っとるから頼んどくは』

『友だち価格で交渉しとくからね』


 その知り合いってまさかのユリア侯爵だったとは。でもちょっと待てよ。賃貸で借りてるけど名義ってユリア侯爵なの、


「いえエッセンドルフ公国になります」


 ここなんだけど、以前にちょっとしたトラブルがあったそうでセキュリティが問題になったとか。


「この部屋だけを大使館にしますと、廊下まで日本になり誰でも侵入が可能なのです。ですからセキュリティ範囲を広げた方が良いとなり、このフロア全体を大使館にさせて頂いています」


 はぁ、そうなるとアリスの部屋も、


「エッセンドルフ公国大使館の一角になります。セキュリティに御懸念されておられるとお聞きしましたが、ここならそれなりのものはあると思います」


 それって大使館同様にアリスの部屋に入るのも、


「大使の許可を受けたものに限られます。もっともそれではご不便でしょうから・・・」


 ユリア侯爵から渡されたのはなんだこれ、英語じゃないよな、こんなもの読めないよ。


「内容は大使館現地採用職員として採用辞令です。現地採用職員は大使館員ではありませんが、大使館の出入りが可能であり、このフロア及びアリスさんたちの部屋への出入りの許可を与える権限を付与しております」


 お給料も出るとか、


「大使館の仕事が一切ない代わりにお給料も発生しません」


 そこまで旨い話はさすがにないか。名目上でも部屋の管理人程度ぐらいのものみたいだ。セキュリティに関しては申し分はないかもしれないけど、変なところに引っ越した気がする。でも家賃はビックリするぐらい安いし部屋は広くて豪華なのは素直に嬉しい。


「セキュリティ、セキュリティと申しましても、大使館専属の警備のスタッフがいるわけではございません。あるのはこのマンションの保安室だけでございます。だからその気になれば押し入って来ることも可能です」


 聞けば大使館と言っても母子二人で住んでるだけだそう。


「もちろん押し入るなんてことをすれば外務省が動く国際問題になります。その点では強力なのですが・・・」


 その点で十分すぎるじゃない。以前にユリア侯爵が暴漢みたいなのに襲われて突き飛ばされて擦り傷を負ったことがあるそう。怪我はその程度だったのだけど、エッセンドルフ公国議会が非難決議はするわ、元首であるハインリッヒ公爵から公式の抗議声明が出されるわで大変だったとか。


「そういうのは事後の対応になってしまいます。ですが徳永専務がお住まいになられると、直接のセキュリティが高まります」


 あそっか。健一がいるだけで屈強のガードマン三人前ぐらいの値打ちはあるかも、


「常駐はお仕事もおありで無理でございますが、おられると言うだけで違ってきます。お給料の直接のお支払いはありませんが、現物支給で代用と思って頂ければ幸いです」


 侯爵様で家主のお隣さんは気を遣うと覚悟してたのだけど、引っ越しの挨拶の日は別物だったみたい。あれは大使として大使館現地採用職員を採用した日だったので侯爵であり、大使である顔を見せたぐらいの感じかな。普段はホントに普通の人。


「シングルマザーのエロ小説家の娘ですよ」


 大使館と言っても領事業務はスイス大使館に委託しているみたいで無いし、そもそも部屋のどこにもエッセンドルフ公国の国旗すらないんだ。時々、東京の仕事があるみたいだけど、


「ああ、面倒ったらありゃしない」


 大使でありエッセンドルフ公国ナンバー・ツーの最高位貴族だからとくにヨーロッパの王室がらみの皇室主催の晩餐会だとか、他にも春秋の園遊会みたいなものへの出席があるみたいだ。一度ぐらい出て見てみたいものだけど、


「園遊会ぐらいならいつでも出席できますよ」


 皇太子妃殿下とも個人的な親交が深いらしくて、それぐらいのコネはすぐに利くとか。でも、聞いてるだけで肩が凝りそうだからやめておこう。


「あんなものに関わらずに済む方が幸せです」

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