独りじゃないよ

 うつむいていた須藤さんの強く握られた拳が震えていることに、私は気付いた。こんな時司くんなら、私の膝が震えていた時のように、やはり彼女の両手を握ってあげるのだろうか。しかし私はそうしなかった。彼女は、自分の力で立ち上がる必要があった。


 固い床に落ちたいくつもの水滴が、窓越しの陽光に光った。


「……私、やっぱり八尋先輩が憎いです。うらやましいです。私には、先輩にとっての白倉会長のような、導いてくれる誰かなんていません。苦しい、苦しいんです。独りの部屋は暗くて、寒くて」


 小さな肩を震わせた須藤さんは、途方に暮れているように見えた。満たされていたと感じていた頃の彼女には、私にとってのラジオのような、孤独と向き合うための友は必要なかったのだろう。そして今、すべてを失ったように感じて迷子になっているのだとしたら、それは大きな間違いだと伝えてあげたい。救いは、常に手の届くところにある。


 私は腕組みをして彼女に背を向けると、わざと大袈裟おおげさなため息をついてみせた。


「馬鹿ねえ、あなた。私は会長のそばにいるためならなんだってするけれど、彼女を独り占めにするような度量の狭さはないわ。まあ、正妻の余裕って奴かな」


「え」


「会長は須藤さんのことをずっと気にかけていたわ。きっとそれは、あなたが学校に来なくなった時よりもずっと前、恐らくは事故にあった直後から。会長ったら恐ろしいことに、この学校の生徒のことはすべて把握はあくしているからね。須藤さんが自分は独りだって思うのは勝手だけれど、会長は決してあなたを見捨てたりはしない。だからこうして今回、司くんをあなたのところに寄越した」


 この学校の生徒は、白倉さんが生徒会長として在籍している今のこの偶然に、すべからく感謝するべきだ。むろん、私も含めて。こんな幸運、望んでもあるもんじゃない。


「私は気が短いから、あなたの人生なんてどうでもいいと思ってる。第一それは私のものじゃないしね。それでも私が言えることは、自分が信じられるものを見つけたいと思うなら、前に進まなきゃいけないってこと。あなたが私から何か学ぶものがあるとしたら、ただそれだけ」


 私は有無を言わさず、須藤さんのスカートを腰までめくった。彼女はぎくりと体を硬直させたが、私の手をさえぎることはなかった。右よりも明らかに細い、彼女の左の太ももがあらわになる。


「私は怪我をする前のあなたは知らない。けれど今の須藤さんは、とても魅力的に思える。嘆きや怒り、苦しみ。それらを隠さずに見せてくれたからね、この足みたいに」


 褐色の色素が沈着し、ところどころくぼんだ彼女のふとももに、私はそっと触れてみる。瘢痕はんこんで硬くなった皮膚の下には、生命の流れが確かにあった。須藤さんのそのままの姿、私がこの目にしっかりと焼き付けてやる。だから、あなたも目をそらすな。


「失ったものは確かにあるけれど、それはあなたをきっと強くする。あなたならそれができる。会長はあなたのことをそう見込んだからこそ、放っておかなかったに違いないんだから。どう、須藤さん。私が信じた彼女を、あなたも信じてみない?」


 須藤さんは黙って床を見つめていた。青ざめた顔の下で、様々な感情が渦を巻いているのが見て取れた。だがやがて、彼女はあきらめたように目を閉じて首を横に振った。


「……私、白倉会長とは話したこともありません。たとえ会長が私のことを心配してくれているにしても、そんな人をいきなり信じることなんかできません。当たり前じゃないですか」


 だめか。ごめんなさい、白倉さん。私はやはり、あなたの役には立てそうもありません。あなたが私にしてくれたように、私も須藤さんに精いっぱいに吠えてみました。けれど私の遠吠えなんて、結局はただの自己満足に過ぎなかったみたいです。彼女には、本当に気の毒なことをしてしまいました。


 肩を落としてうなだれている私の耳に、須藤さんのこわばった声が聞こえてきた。


「知らない人のことなんて信用できません。だから」


 ぐすり、と彼女が鼻を鳴らす音が聞こえた。


「私、八尋先輩を信じます」


 顔を上げた私と、ほおを濡らした彼女との、お互いの瞳が重なった。


「私、八尋先輩が今年一年間ですることを、しっかり見せてもらおうと思います。白倉会長の隣で、先輩がどれだけ強くなれるか。それを確かめられれば、私もきっと強くなれるような気がします。信じさせてもらっても、いいですよね?」


 驚いた。白倉さん、私、誰かに信じてもらっちゃってます。それがこんなに嬉しいことだとは思いもしませんでした。白倉さんも私に、同じように感じてくれていますか?


 私はへなへなとその場に座り込みそうになるのをぐっとこらえると、笑って答えた。


「わかってないなあ。会長と一緒にいる今の私は、すでに最強なんだよ。だから、須藤さんともこれだけ喧嘩できたしね。以前の私だったら、きっと泣いて逃げ出していたと思う」


「ご謙遜けんそんを。さっきの八尋先輩、すっごく怖かったです」


 須藤さんはすでに乾いた頬を薄く染めると、まだ彼女のスカートを持ち上げたままの私の右手を握った。そうだった、離すのすっかり忘れてた。


「ところでどうですか、私のこの下着。今日先輩に見られるってわかっていれば、もっとかわいい下着で来たんですけれど」


 私は彼女の太ももの内側をちらりと見る。ナイロンの水色か、結構大人な奴じゃん。コットンの白を愛用している私は、なんだか少し引け目を感じてしまう。いや、そういう問題じゃない。わたしは慌ててスカートを離すと、ばつの悪い思いで頭をかいた。


「ちょっと、なに考えてるのよ。私はただ、足を確認したくて。いや、怪我した足をまじまじと見るというのが、そもそも失礼な話で。その、なんというか、ごめん」


「見たかったらいつでも言ってください。私、もう隠したりしませんから」


 そう言って笑った彼女は、ありのままに輝いて美しかった。そうだとも、何も隠す必要なんてない。それにあなたは独りなんかじゃない。会長がいるし、卒業までの短い期間でよかったら、私だってそばにいるから。


「ところで、明日からはどうするの。須藤さんから言いにくいのなら、私から司くんに伝えておこうか? もう来なくていいですって」


 扉へ向かおうとした須藤さんは私を振り返ると、いたずらっぽく瞳を光らせた。


「いえ、しばらくはまた迎えに来てもらおうと思います。せっかく格好いい人が一緒に登校してくれるっていうんですから」


「まあ。ちゃっかりしてるわねえ」


 私のあきれ顔に向かって、彼女はぺろりと舌を出して笑った。




「会長。例の須藤さんの件、なぜか解決したようです」


 生徒会室では司くんが、要領を得ない表情で白倉さんに報告を行っている。


「そうみたいね。彼女、毎日登校してるんだって? どういう心境の変化かしらね」


「俺、どうやらお払い箱になったみたいで。ありがとうございました、明日からは一人で大丈夫ですから、って」


 やれやれとため息をつく司くんに、白倉さんがくすりと笑う。


「君があまりにしつこいから、彼女の方が根負けしたのかもね。お手柄だよ、金澤くん」


「よしてくださいよ、俺が本物のストーカーみたいじゃないですか」


 それは本来、私が知らないはずの一件だ。笑いをこらえるのに苦労しながら黙って書類に目を通している私の横に、司くんが立った。痛いほどの彼の視線を、横顔にびしびしと感じる。


「環季先輩。須藤さんと何かありました?」


 冷たい汗が背中に流れるのを感じながら、私は書類のページをり続ける。


「ん。誰のこと?」


「とぼけないでくださいよ。彼女、環季先輩によろしくって。今度は喧嘩、絶対勝ちますから、とか言ってましたけれど」


 げ。あの眼鏡ちゃん、司くんに余計なことを。恐る恐る白倉さんを見ると、彼女は冷ややかな目で私をじろりとにらんでいる。


「八尋さん、何やら私に隠し事があるみたいね。あなた、また喧嘩したの? 朝倉くん、金澤くん、私、それに加えて下級生の須藤さんとまで」


「い、いや。それは成り行きというか」


「私は八尋さんが学内随一の穏健おんけん派だと見込んだから、書記に勧誘したのだけれど。そのあなたがまさか、これほどの武闘派だったとはね」


 腕を組んだ司くんが、渋い顔の白倉さんに同調してうなずく。


「まさに、狂犬と言っても過言ではないですね」


「こら、司くん! 勝手な二つ名をつけるな!」


「ほらほら、またそうやって喧嘩する。まあ、その狂犬をおりの中から野に放った私にも、幾分の落ち度はあるわね」


「会長まで、そんなあ」


 白倉さんは愉快そうに笑うと、有明産焼きのりが散らしてあるポテトチップスを一枚取って、司くんを指し示した。


「でも今回、八尋さんが生徒会活動に一役買ったのは、どうやら間違いなさそうだし。ほら、金澤くんも八尋さんに何か言う事あるんじゃない?」


 司くんは小さくため息をつくと、苦笑しながら私に頭を下げた。


「環季先輩、なんだか手伝ってもらったみたいですね。ありがとうございます」


「あ、あの。これは仕事なんだから、副会長にお礼を言われるのって、なんか変。か、体かお金、あるいは食べ物で返していただけますか」


 白倉さんが呆れたように天井を見上げた。


「だから八尋さん、テンパらないでって言ってるのに」

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