第18話「兄妹の舌戦」

「ドゥーシャを放せよ、サラ」


「……あら、まるで、私が悪者みたいですわね」


 お兄様と紗良様は睨み合っていた。


「彼女が暴力を振るって来たので、私は誰の怪我も無いように彼女を押さえているだけですわ」


「そっか。……なあ、ドゥーシャ」


 お兄様は私に話し掛ける。


「もう暴れないって約束出来るか?」


「……あ、はい! 出来ます!」


「だとよ。もう拘束は不要だぜ。放してくれないか」


 お兄様がそう言っても、紗良様は一向に私を解放しない。


 すると____


「いいから放せよ」


 今度はドスの利いた声でお兄様は言い、紗良様に掴みかかった。


「良い加減しないと、タダじゃおかねえぞ!」


「タダじゃおかない、ですか?」


 紗良様は自身の肩を掴むお兄様の手を見つめて鼻を鳴らす。


「手、震えていますわよ」


「それがどうした?」


「私がその気になれば、一瞬でこの腕をへし折る事が出来ましてよ」


「……それがどうした?」


 紗良様の言うように、お兄様の手は震えていた。それも、手だけじゃない。足も小刻みに震えているようだ。


 お兄様は紗良様が怖いのだ。


 紗良様がその気になれば、お兄様の腕どころか、その命すら一瞬で奪う事が出来るから。


 実際にそんな事はしないだろうと分かっていても、その可能性だけで、大きな恐怖を抱くのだ。


「哀れですわね。格好を付けているようですけど、それじゃカッコ悪過ぎて、幻滅されてしまいますわよ」


「それがどうした? カッコ悪くても妹を助けるのが兄ってもんだ」


「……貴方!」


 紗良様は私を解放して、お兄様に掴みかかる。


 私は身体を解放された事に安堵したが、一触即発のお兄様と紗良様の様子に慌てて立ち上がって両者の間に入る。


「だ、駄目です! 喧嘩しな____」


「貴方は黙っていなさい!」


 紗良様は私を片手で押し退け、もう片方の手でお兄様の胸倉を掴む。


「お兄様、頭がどうかされましたか!? 妹でもない女の子の事を……まるで……妹の様に……!」


 と、紗良様は私に嫌悪の目を向ける。


「まさか、彼女を私の代わりにしているおつもりで? 彼女を妹の代わりにしているおつもりで?」


「勘違いすんなよ」


 お兄様は紗良様をきつく睨む。


「ドゥーシャの事は妹のように扱っているが、お前の代わりにしているつもりはない。つーか、お前の代わりだと? 笑わせるな! 自惚れるんじゃねえぞ、ボケ! ドゥーシャはお前と違って替えのきく存在じゃねえんだよ!」


「……! お、お兄様……! い、いま……何て! 私のことを……何て……お兄様ッ!」


 紗良様は顔を真っ赤にして、涙目になりながら、お兄様に殴り掛かる____かと思いきや、その場に座り込んでしまった。


「……さ、紗良様?」


 膝を抱えて、腕の間に顔を隠してしまう紗良様。しばらくその状態のままだったので、私は心配になって声を掛けた。


 私は紗良様に手を伸ばし____


「触らないで下さいまし!」


「いたっ」


 私の手が肩に触れた途端、紗良様はそれを素早く弾いた。


 そして、まるで親の仇の様に私の事を見つめる。


「だいたい、貴方は一体なんなんですの! お兄様のお誘いで当家に下宿なされているようですが、ふしだらではありませんこと?」


「……ふ、ふしだらって」


「貴方達は年頃の男女でしょう。同じ屋根の下で寝るなど、不潔ですわ! しかも、聞くところによると、貴方、入学して早々のお誘いを受けられたそうですわね? つまり、出会って間もない男の言葉に乗せられて、ほいほいとそのお家に上がり込んだ事になりますわ。破廉恥ですわよ!」


「出会って間もない____た、確かにそうですけど……お兄様が信頼出来る人だと思ったから……私は……!」


「たった数回顔を合わせた程度の男を信頼なさるのですか、貴方は?」


「た、たった数回で十分です! それだけで、お兄様の事は全て分かったんです!」


「嘘吐き。お父様とお母様の話では、貴方達、この数か月で何度か衝突しているらしいですわね。それってつまり、貴方達がお互いの事を何も理解していないからそんな風になっているのではございませんこと? どの口が”お兄様の事は全て分かったんです”などと仰るのですか?」


「……う」


 言い返せない。確かに私は、お兄様の事を何も知らずに傷付けてしまった事があった。


 私は私が思っている程お兄様の事を理解出来ていないのかも知れない。


「おい! その辺にしとけよ、サラ!」


 私を庇うようにお兄様が紗良様の前に立つ。


「それ以上の悪口は許さねえぞ! ただでさえドゥーシャは辛い境遇にいたってのに、お前って奴はどうしてそんなにドゥーシャを追い詰めるような真似をするんだ! ドゥーシャはなあ、粛清で血の繋がった家族を失って、本人も命からがらソビエトから亡命してきて、それでも辛い顔を見せずに頑張ってる優しい子なんだぞ! 温室育ちで挫折を経験した事もないようなお嬢様にあーだこーだ言われる筋合いなんざねえんだよ!」


 思いのたけをぶつけるように言葉をまくし立てるお兄様。


 そんなお兄様に紗良様は目をぱちくりとさせた後、私とお兄様を交互に見遣って、確認するように尋ねる。


「今、ソビエトから亡命して来たと仰いましたか?」


「ああ、そうだよ!」


「米澤さんは……ロシア帝国ではなくて、ソビエト連邦共和国の出身ですの?」


「そうだよ! 粛清に遭ったり、人身売買に遭ったりで大変だったらしいぞ」


「……」


 紗良様は一瞬黙り込み、今度はお兄様の方に厳しい目を向ける。


「お兄様、貴方もしかして、彼女がソビエトの出身だと分かっていながら当家への下宿を勧められたのですか?」


「……あ? そうだけど、それがどうした?」


「正気ですか、お兄様?」


 目の色が変わった。紗良様はまた異なった非難の色を瞳に宿しているようだった。


「……何だよ、お前、もしかしてドゥーシャの出身にケチを付けんのか?」


「ええ、付けますわよ。お兄様、余りにも配慮が欠けていましてよ」


 紗良様は立ち上がり、お兄様に詰め寄る。


「ご存知ないのですか? 当家の使用人の内、何名かは元対馬島民でしてよ。故郷を奪ったソビエトの者のために仕えねばならないと言う人の心境を察せられないのですか。そして、万一その不満が最悪の形で爆発したらどうなさるおつもりで? 米澤さんの身に危険が及ぶとは考えられないのですか?」


「は? ふざけんな! 言っておくが、ドゥーシャは皆に愛されてるぞ! 使用人達の誰もドゥーシャをそんな目で見ていない! この数か月何も起きていないだろうが!」


「それは結果論ですわ! お兄様、自覚が足りていませんことよ! 米澤さんの身に何か起きていたらどうなさるおつもりでしたか? お兄様は米澤さんを危険にさらしたのですわ! 妹を助けるのが兄などと抜かしておきながら、とんだ体たらくでしてよ!」


「何か起きそうなら、俺が命張ってでも飛んで助けにいったさ!」


「何を馬鹿な! そんな特撮ヒーローでもあるまいし! 都合よく米澤さんのピンチに駆け付けられるとでもお思いで!?」


 額と額を突き合わせての舌戦。お兄様も紗良様もかなり頭に血が上っているようだった。


 その後、言い合いは続き、やがて両者示し合わせたかのように踵を返した。


「いくぞ、ドゥーシャ。あんな奴、相手にしても無駄だ」


「……あ、お、お兄様」


 お兄様に手を引かれる私。


 ふと、後ろを振り返ってみると、寂しそうに離れていく紗良様の後ろ姿が見えた。

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