第9話「夜のお話」

「お兄様! 一緒に帰りましょう!」


 そう言って、ドゥーシャは俺の手を引く。


「分かったから、そんなに強く引っ張るな」


 俺がそう言うと、ドゥーシャは少しだけ悪戯な笑みを浮かべて俺の隣に並んだ。


 ドゥーシャが武嵐家に下宿するようになって、三カ月が経過した。


 季節はもうすぐ夏だ。


「……この生活にも慣れて来たな」


 今ではすっかりドゥーシャが生活の一部として存在していた。生まれた時から彼女があの家にいるような気さえして来る。


 そして、慣れて来たと言えば____


「どうしたんですか、お兄様? ぼうっとして。お熱でもあるの?」


「ん? いや、別に」


 ”お兄様”____ドゥーシャはそう俺を呼んでくれていた。


 あの後、何と言うか……色々となあなあな感じになって、その呼び名が定着してしまったのだ。


 最初の内は、少しだけ抵抗があった。


 でも……彼女にお兄様と呼ばれると、何だか嬉しかった。温かい気持ちになれるのだ。


 ……ただ、時々ちくりとはする。


 嫌な事を思い出してしまうのだ。紗良の事が頭を過る。苦い記憶だ。


 まあでも、呼び方を訂正する気などない。


 もう俺はドゥーシャにとって”お兄様”なのだ。


「何か、本当に妹が出来たみたいだな」


 俺がふとそんな呟きを漏らすと、ドゥーシャは耳をピンと逆立てて、それから____


「……ほ、ほんとう……ですか……う、うれしい……うれしいよぉ……うぅ……!」


 泣き出すドゥーシャ。


 彼女の嬉し泣きにも大分慣れて来た。


 ちょっと人目が気になる時もあるが……ドゥーシャが幸せならOKです!


 ____さて、その日は涼しい夜だった。


 もう夏なのに肌寒いなと感じながら、布団の中で丸まっていると、唐突に扉がノックされる。


 多分、ドゥーシャだ。ノックの音で判別できる。


「入って良いぞ、ドゥーシャ」


 俺がそう言うと、扉が開き、「失礼します」と言ってドゥーシャが静かに部屋に足を踏み入れる。


「……どうしたんだ、ドゥーシャ?」


 俺は驚いてドゥーシャを見る。


 彼女は身体を小刻みに震わせ、怯えていた。


「大丈夫か、ドゥーシャ!」


 俺が慌てて駆け寄ると、ドゥーシャは俺の胸に飛び込んで来た。


 この怯え様、一体何事か?


 俺が心配そうにその身体を抱きしめると、ドゥーシャはゆっくりと口を開く。


「ご、ごめんなさい……ホラー映画を見て……それで……」


「……え?」


「こ、怖くて……一人で眠れな____痛っ! お、お兄様?」


「さすがにこれはお仕置きやろうなあ」


 俺は人騒がせなドゥーシャの頬をつねる。


 こっちは何事かと心配したんだぞ!


「い、痛いです! お兄様、許して!」


 いーや、許さねえぞ。ふざけんなよ、お前。


「紛らわしい真似やめーや! 俺は真剣に心配したんだぞ!」


「わ、私だって真剣に怖がってるんですよ! ひどいよぉ」


「俺は怒ってる。今回ばかりは泣いてもなぐさめてやら____」


「ひどいよぉ! ひどいよぉ……うわぁ……うわああん……!」


「おにーさまが悪かったから泣かないでドゥーシャちゃん!」


 結局、ドゥーシャの涙には敵わず、俺は彼女を慰める事にした。


 気持ちも収まって来た頃、ドゥーシャは申し訳なさそうに口を開く。


「ごめんなさい、お兄様」


「……良いって」


「面倒臭い妹でごめんなさい」


「さらっと妹を自称するんだな」


「ごめんなさい、迷惑ですか?」


 そう言って抱き着いて来るドゥーシャ。俺は首を横に振る。


「全然迷惑じゃないよ」


 俺がそう答えると、ドゥーシャは安心したような表情を浮かべる。


「……そっか……お兄様、時々なんですけど、”お兄様”って呼ばれるの嫌そうにしているような……そんな気がしてたから、不安だったんだ。でも、私の勘違いみたいで良かったです!」


 どうやら、ドゥーシャには色々と気付かれているようだった。顔には出さないように注意していたのだが。


「私……家族が欲しいんだと思います」


 と、唐突に語り出すドゥーシャ。


「だから、こんな兄妹ごっこみたいな事をして。馬鹿なことしてるなあって、自分でも分かってるんだけど……でも……それでも……」


 寂しそうなドゥーシャの表情。


 何だろう。胸が苦しくなってくる。


「____ドゥーシャ」


「お兄様? わわっ!」


 俺はドゥーシャを引っ張り、一緒になってベッドの上に倒れ込んだ。


「怖くて眠れないんだろ? 添い寝してやるから。ほれ、こっちおいで」


「え? 良いんですか?」


「二人で寝れるぐらいの広さはあるからな」


 俺が誘うと、ドゥーシャは顔を真っ赤にして、しばらくあわあわとしていたが、意を決したように布団の中に入って来た。


 さすがに向かい合うのは恥ずかしかったので、俺達は背中合わせになる。


「……あったか」


 と、俺は思わず声を漏らす。


 尻尾のもふもふが丁度良い温かさを俺に提供してくれる。それに、良い匂いもする。


 幸せだ。


 ……いや、つーか。


 これ、大丈夫な状況か?


 妹と添い寝をするつもりで布団の中にドゥーシャを誘った訳だが、彼女は妹ではないし、あくまで同学年の女子だ。


 年頃の男女が布団の中で二人きり。


 何か間違いが起きてしまってもおかしくはない状況だ。


 ……やべえ……緊張して来た!


「ドゥーシャって兄弟とかいたのか?」


 俺は動揺を紛らわすためにそんな質問をする。


「兄弟はいませんでしたけど、施設の子供たちがそんな感じ……でもなかったかなあ……仲良くなっても、狂獣化のせいですぐに嫌われちゃいましたし……そもそも施設も何度か移っていましたし」


 しまった。つい、彼女のデリケートな事情に触れてしまった。聞かれたくはない事だろうに。


「……」


 聞かれたくはない……でも、本当にそうだろうか?


 それは勝手に俺がそう思い込んでいるだけなのでは。


 面倒臭い他人の事情に首を突っ込みたくはないと言う、俺の臆病なだけでは。


 赤の他人の事情など無視に限る。干渉すれば互いに嫌な思いをするかも知れないから。それが俺の緩い信条だった。


 本当に赤の他人ならそれで良い。だけど、ドゥーシャはもう他人じゃないと思う。


 友達で、妹のような存在だ。


「ドゥーシャってどうしてこっちにやって来たんだ? どうして日本に?」


 だから、思い切って踏み込んだ質問をする。ドゥーシャの事をもっと知りたいし、出来るのであれば、力になって上げたいから。


 背後でもぞもぞとドゥーシャが動いたような気がした。


 そして、ゆっくりと彼女は口を開く。


「……亡命です。米澤家を頼って、ソビエトから亡命して来ました」

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