21. 願い、つないで、夢の先 (1)






 黒獣病とともに生きるこの時代の人間は、わずか数時間前に生死を賭けた闘いに臨んでいようと、それを過ぎればすぐに元の生活に戻っていく。それはこのアルストロメアも例外ではなく、ケモノを退けた町は普段通りの平穏を早くも取り戻しつつあった。

 騎士団による黒獣の討伐。自警団による防壁の守護。アルストロメアの持てる戦力が投下された戦いは、最善の結果を残して幕を閉じることになるだろう。

 事後処理のために駆け回ってしばらくが経過したが、それもそろそろ落ち着きそうだ。一息つきながら町中をぼんやり眺めていると、道端のベンチで休息している見知った人物を発見した。もたれていた壁から身をはがし、クライドはリシアに歩み寄る。



「お疲れ様です。お怪我はありませんでしたか」



「クライドさん……おかげさまで掠り傷一つありません」



「アユハからあなたの活躍を聞きましたよ。リシアさんが大型種を相手してくれたおかげで被害も小さく済みましたし……騎士団を代表して感謝を」



「そんな。私はアユハについていくのに必死だっただけです」



 彼らの真横を子どもたちが通り過ぎる。どうやら野外医術院からの帰りらしい。包帯を腕に巻いた親らしき人物が、慌てた様子で追いかけていく。



「しかし……あなたのその術、実際に見たかったものです。同じ戦場にいなかったのが惜しい」



「……別に大したものじゃないですよ。……そんなことよりアユハの剣! アレ“巫覡ふげきつるぎ”ですよね?」



 生き生きと目を輝かせ、リシアは勢いよくクライドに迫った。子供のように無邪気なその様子は、抑えきれない好奇心が溢れたものである。他人との間に壁を作って過ごすような普段の彼女の面影は、今は微塵たりとも感じられない。

 困惑するクライドをよそに、リシアの思考は“アユハの剣”に支配されていた。

 戦場でこそ尋ねはしなかったが、聖剣の存在を確信するまでは早かった。刀身が露わになった瞬間、戦場を一変させた凍てつく空気。周囲の瘴気を取り込み、黒獣の再生を止める剣。そんなチカラを持つ武器など、この世に複数も存在しない。



「リシアさんの仰る通りです。とにかく何というか……異様だったでしょう? それでも言い当てる人は滅多にいないのですが……よくご存知でしたね。伝説が伝説なので噂は知っていても、あの剣の存在を確信している人は少ない」



「その辺りの話はそこそこ詳しいんです。でも、私も信じていたかと言うとちょっと微妙で……実物を見てホントにあるんだって思ったのも事実でした」



「噂より随分禍々しかったでしょう、アレ」



「……はい。いろんな意味で驚いたかな」



 精巧な銀細工の施された柄と鞘。そこからすらりと伸びる月色の刀身。纏うように瘴気を吸い込みながら冷たい戦場に降り立つ姿は、魔剣の如き不穏さを漂わせながら、しかし描く銀の軌跡はどこまでも清廉だった。

 あれは紛れもなく聖剣だ。他とは異なる“何か”を、言葉にはできずとも感じ取っている。



「巫覡の六剣が一振り、月の女神イリューナを冠するあの剣の名は――冥姫めいひめ。極東の刀鍛冶が生み出したとされる至高の一作。あれはオリストティアの国宝です」



「冥姫……あれが……」



 昔、手に取った本の中で目にしたことがある。

 月の女神をその身に宿す古き伝説の剣――冥姫。戦場を凍てつかせる冷たい覇気、それは剣が発する高濃度の魔力がもたらすものなのだとか。あまりに清いチカラは黒獣の垂れ流す瘴気を呑み込み、自身のチカラに塗り替える“浄化”を引き起こす。それは、病獣溢れるこの時代において紛れもない希望の具現だった。

 


「イリューナ、冥姫――月の剣と極寒の戦場……ああ、あの話はつまり……」



「どうかされました?」



「……この国に来てから、噂を聞いたことがあったんです。オリストティアの戦場に“氷の月”が出た日には、王国の勝利が約束されている。瘴気が創る夜、そこに浮かんだ月の剣と、凍てつく戦場。そして……そこに立つのは一人の剣士。“冬の騎士”は、彼を指す言葉だったんですね」



 クライドの足元に広がる水たまりには雨上がりの空が映っている。燃えるような赤と淡い橙の溶け合う水面が、街路樹から落ちてきた雫で波紋を描いた。濡れた地面特有の香りがリシアの鼻孔を掠めて過ぎていく。



「今日のアルストロメアはまさしく氷の戦場だった。アレを作り出していたのはアユハです。普段とはまるで別人の彼が……少しだけ怖かった」



「……」



(でも、だからこそ……)



 二人の間に訪れた沈黙を町の喧騒が満たす。宵のアルストロメアを包む空気は涼やかで、澄んだ空に点々と星明りが浮かんでいた。久しぶりに見た晴れやかな空は、明日の好天をも予感させる。



「クライドさん」



「はい」



 彼女は遠く天を見上げた。返事をするクライドもリシアの方へ顔は向けず、声だけで反応する。



「アユハとゆっくり話してみます。クライドさんの言う通り、私たちはきっと……世界の見方が違ってる。私は、彼の見ている世界を知りたい」



「それは……アイツが冬の騎士だから?」



「いいえ。静かな顔も、あの涙も――冬の騎士も。全部、アユハだから」



 向けられた目はどことなく哀愁を帯びていた。騎士を見据える夜空の瞳は、普段の快活さを隠す代わりに揺るがない意志を語る。彼女もまた、自分たちとは異なる方法でこの世界で生きていく覚悟を決めた一人であるのだと唐突に思い知らされた。

 だから、これ以上彼女の真意を追求することはない。クライドはただ敬意をもって彼女に託すだけだ。



「……今夜なら、医術院の屋上にいれば会えると思いますよ」



「屋上?」



「雨上がりの夜空って綺麗でしょう?」



「綺麗ですけど……」



「アイツ、こんな日は決まって星を見てるんです。そういうところは変わらないから」











 どれだけ世が移ろっても変わらないものを見ると安心する。それを空に見出したのは、一体いつの頃だったろう。騎士になってから目まぐるしく変化する日々の中で、気付けば天をぼんやりと眺める時間が生まれていた。

 この名が騎士団の中で広まるようになると、好奇の目に晒される場面が多くなった。訓練中はもちろん、廊下を歩いていても、食事をしていても、どこで何をしていても知らない視線が追いかけてくる。自分の噂をする声に興味などなかったが、監視されているような不躾な視線に、あまり良い気がしていなかったことも事実だった。



(星……久しぶりに見たな。すっかり季節も変わってる)



 いつしかこの肩書が国中に知られるようになると、空を見上げる頻度が増した。それは、この剣に乗る重みが増えた何よりの証であった。

 ふと思い立ち、天を見上げる。そこには太陽と月が、夜空を照らす星が、毎日毎日飽きもせずに存在していた。それはたとえ、同じ雑用をこなした同期が、この名に敬称を付けて呼んだ日でも。ただの庶民のくせにと罵ってきた相手が、恭しく頭を垂れた日でも。ただ一人を守りたいがために手にした剣に、いつの間にか幾万人もの命が乗った日が来ようとも。

 幼い頃からあるこの大空だけは、この先も変わらないのだと知っていた。世界が終わる、その時まで。

 だから、遠い遠いあの空は、この祈りを知っている。何度も何度も誓い直す姿を見てきたはずだ。

 ただあの方の剣で在りたい。この手があれば、叶うと信じていた。



「……」

 

 

 雨上がりの塵一つない澄んだ空。輝く星を見た記憶は、アルヴァレスで過ごした最後の夜で途絶えている。しかし、あの日以来続いてた気の滅入るような曇天が、今夜は見る影もなくなっていた。普段であれば冷ややかに感じるはずの外気も、戦闘後の独特な高揚感を前にして心地の良いものに変わっている。



(……ここは空が遠い)



 静寂に包まれた星空に手を翳す。指の隙間から白銀の輝きが溢れた。黒獣対策のために極限まで街灯を落としたアルストロメアの夜は長い。

 この町の送る日々は、何もかもが王都とまるで違っていた。高い防壁と屈強な兵たちが守るアルヴァレスは眠らない。煌々と輝く街明かりは、王城のアユハの居室からもよく見えたものだった。

 執務を終えた夜更け、城から見上げた天を思い出す。ここよりも近く、手が届きそうなほどに広がる夜空は、それでもやはり届くはずがなくて。それはまるで、まるで――。



「……ふ」



 溜息のような自嘲が漏れる。アユハは窓から見える星空を眺めながら、屋上へと続く階段を上っていた。

 明かりの少ないアルストロメアの空は無数の輝きで溢れている。開けた夜空は、遥か彼方へと続いて果てなく広大だ。満天の星は無意識のうちにアユハを誘い、その手はやがて屋上への出入口を開く。

 ――見覚えのある金の髪が風に揺れていた。彼女は一人、自分の瞳と同じ色をした夜を見上げている。



「オリストティアっていい国だね。私を見ても騒ぎにならない」



 独り言のように零されたその言葉の真意が、彼に正しく伝わることはない。――だから、心地が良かった。

 近付く穏やかな足音に、リシアはようやく振り返る。



「ああ……そっか。オリストティアは魔術師の守る国だった」



 静かな夜に、彼女が微笑む。そばに立てかけられた杖の装飾が、涼やかな音を立ててアユハを迎えた。



「よく俺が来たと分かったね」



「分かるよ。君、まだ私の魔力の香りがしてるから」



「え、ホント?」



 さり気なく横に移動し、彼のための空間を作り出す。アユハは隣に並び、リシアに倣って空を見上げた。

 ほら、やっぱり。オリストティアの民は、神秘の使い手を特別視などしないのだ。










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