8. 神のいない世界に、溢れんばかりの祝福を






 気付けば、辺りを囲んでいたはずのケモノはかなり少なくなっていた。肩で息をするほど呼吸を荒くしたアユハは、刹那の均衡の中で息をつく。

 どれほどの時間を戦いに費やしていたのかも定かではないが、残るケモノは無視でいい。むやみやたらに戦闘を仕掛け、無駄な体力を消費する必要はない。



(襲い掛かってきたヤツにだけ対応して、あとは一気に走る……!)



 戦況からそう判断し、伝えようと振り返る瞬間。



「が、あっ……!」



 騎士の苦痛に喘ぐ悲鳴が聞こえた。――同時に、アユハの背に強い衝撃が走る。



「――!?」



 雨天の強行軍で蓄積された疲労が、ついに最悪の幻覚を見せ始めたのだと思った。視界を白く染める勢いで降りつける土砂降りの雨の中、漂う瘴気はあまりに濃い。

 遭遇した黒獣の大群を退け、アユハは背で守る主人に呼びかける――はずだった。

 体を押し出される感覚と、天地が溶け合うほどの激しい眩暈に襲われ、剣を支えに視線を落とす。おびただしい量の鮮血が、雨に混ざって飛び散った。黒獣は血を流さない。ならば、この血は誰のものなのか――など、尋ねるのは愚問だろう。

 違和感を覚えた首元を探れば、手は生温かい赤で瞬く間に染まっていく。地面を染める血の主が自分だと理解しても痛みを感じなかったのは、それを遥かに超える衝撃が目の前で起こっていたからだ。



「そ、んな、どうして……」



「嘘だ……嘘だ嘘だ!」



 怯んだ騎士たちをケモノが襲う。混乱で思考を停止させた味方は、成す術もなく“一匹のケモノ”によって蹂躙されていった。

 地面に倒れ、血を吐く騎士に、ケモノが目にも留まらぬ速さで迫る。

 標的にされた騎士は絶望し、その口がある音を紡いだ。



……」



 体が勝手に動く。騎士に振り下ろされる直前だったを斬り落とした。



「っ、は……っ」



 全身で呼吸をしながら庇った後ろを振り返る。

 誰も彼も満身創痍だった。剣を支えに何とか立つ者、指先が黒化し始めている者、著しい体温の低下でうずくまる者、地面に伏せて吐血する者。

 みんな、みんな、ここまで必死に駆けてきた。状況の理解すらままならないまま、民を――王女を生かすためにここまで走ってきた。



「アユハ様……?」



 その王女が、最後の最後で牙を剥くだなんて誰が予想しただろう。目の前に立ち塞がる一匹のケモノが、あまりにも恐ろしくて。



(――ここまで、だ)



 そう、思った。理屈ではなく、直感で。そう、分かってしまった。

 生かすための戦いはここで終わる。背負うのは、もう自分だけで良い。

 ふらつく足を無理矢理動かす。息も絶え絶えに、しかしアユハはの前に立ち続ける。その背に傷ついた騎士たちを庇い、彼はティエラから目を逸らさないまま告げた。



「……これ以上、戦わなくていい……真っすぐ、砦まで走れ。今度は――自分が生き残るため、だけに」

 


 剣を伝ってアユハの血が地面に落ちる。鮮血は雨で跡形もなく洗い流され、その上に新たな赤が滴った。

 辺りの音は雨に持ち去られたかのように静まり返り、人間たちの弱々しい呼吸だけが風の中に消えていく。冷えきった空気が、アユハの声を震わせた。



「アルヴァレスの混乱。ケモノとの戦い。……王女の、黒獣化。見てきた一部始終を、全て、詳細に伝えてください……必ず」



「それでは貴方が……!」



「自分たちだけ逃げるだなんて……っ!」



 ゆらり、体を揺らして。アユハは再びと向かい合う。ケモノは待ち侘びたかのようにアユハに襲い掛かり、彼は正面からそれを受け止めた。

 力任せにケモノが剣を押し返す。黒く濁った月色の瞳と目が合った。押し負けないようにりきむと、首の傷から血が噴き出す。



「俺は、ティエラ様の護衛官。この身は……最期のその一瞬まで、ティエラ様とともにある。……だから、ティエラ様を置いて、先に進むわけには……いかないんです」



 血を吐き、次第に乱れていく呼吸。しかし、その目はまだ黒獣を捉えたまま光る。



「殿は俺が。伝令は貴方たちが。それが、今この状況での……最善。何のためにここまで走ってきたのか、思い出してください」



 路面を流れる滝のような雨の音。騎士は目を見開いて狼狽えるが、それを宥めるような余力はもうアユハに残されていない。

 吐き出した白い息は、瞬く間に黒い瘴気に呑み込まれ、余韻もなく消え去った。

 昼下がりの王都を襲う青天の霹靂。城を捨て、倒れた仲間も見捨ててここまで来た。救えなかった民の虚ろな視線には気付かないフリをして、一心に外を目指したのは。



「生きるため、だっただろ!」



「ですが……!」



「いい、から――走れ!!」



 迷う騎士を奮い立たせる。悔しそうに歯を食いしばりながら――しかし、彼らはやがてアユハから視線を逸らした。



「――貴方とともに戦えて光栄でした」



「レフィルブランでお待ちしております。どうか、どうか……!」



 アユハの言葉に気圧され、騎士たちが外壁を目指してそれぞれに走りだす。負傷した者は動ける者が背負い、それを追おうとする黒獣をアユハが止めた。



「っ……そんなに、必死にならなくたって、俺がいる、でしょう……!?」



 彼らの雨を踏む足音が小さくなっていく。心なしかケモノの咆哮も遠い。それは、黒獣の群れが離れたのか。それとも、自分の耳が使い物にならなくなってきているのか。

 どっちだって良い。どうだって良いから、彼らだけでも無事に、外へ。



(頼む、から……)



 自分たちがここまで駆け抜けた意味を、なかったことにしたくない。せめて誰か一人くらい「救われた」と、そう言ってくれたのなら十分だから。

 だって、自分は、この人は。そのために――。



「……失敗した。も、一緒に外に連れていってもらうべきだったな……」

 


 自身の愛剣を静かに撫で、一人呟く。大きな失態であるのは間違いないが、今更どうにかなるものでもない。

 のらりくらりと敵の襲撃をかわし続けた。しかし、痺れを切らした相手は唐突に攻撃を激化させる。あまりにも荒々しい行動に思わず粗暴な苦笑いが零れてしまったのは、ここに自分たちしかいないからだ。



「そんな雑に剣を振ったら死人が出ますよ。……貴女の剣、俺が鍛えたんですから」



 振り回される剣を止める。弾き返し、足を斬る。

 白い肌はとうに失われ、損傷部位を瘴気が修復し始めた。回復を待つためか、アユハから距離を取るような素振りを見せる相手に、彼は語りかける。



「“オリストティアは黒獣病に勝ちます。あなたがその道を創りなさい”」



 あの日から何年の月日が経っただろう。二人だけで行ったの護衛官任命式。形式的だった一度目とは違い、その日、初めて心からの言葉を贈られた。

 周囲の人間ではなく、ティエラ本人に護衛役と認められたあの日から、アユハは彼女の剣になったのだ。



「この、言葉が……今日までの、俺の全てでした」



 ケホ、と小さな咳が溢れた。大量の血液が地面を汚す。



「貴女の指揮のもと、戦い続ける日々だった。それでも黒獣病は年々広がるばかり。……オリストティアから黒獣病がなくなる日まで――貴女の理想は散々言われてきたように……確かに、現実味はなかったのかもしれません」



 周囲からの心無い言葉に苦しんできた人だった。生まれも、血筋も恵まれていたのに、望まれた人ではなかった。

 ――知っていた。だから、彼女は戦う道を選んだのだと。国を守るチカラは、“血”だけではないと示したくて。



「でも、俺……それが叶わないだなんて、一度でも思ったことはないんですよ」



 最早、剣を持ち上げる気力さえもなかった。支えを失った剣先は硬い石畳の地面を削る。



「叶うと、信じてます。俺が貴女の剣である限り。貴女が……諦めない限り、必ず。それなのに……どうして、こんなことしてるんですかね、俺たち」

 


 アルヴァレスを未曽有の危機が襲ってから、いったいどれだけの時間が過ぎたのだろう。城を命からがら逃れ、ともに砦を目指した仲間たちも、もういない。

 残されたのは道中で倒れた彼らの無念と、荒れた国、そして――。



「どうして……」



 必ず果たすと、死に行く人々に誓って一心不乱に駆けてきた。何が何でも生き残ろうともがいたのは、半ばで散った無数の意思をも果たすため。彼らの生きた証を、この世界に刻むため。

 目前まで外への道は迫る。あと一息、ほんの少しで国はやり直せる。また戦える。そのはずなのに。

 どうして。どうして。――どうして。他でもない“貴女”が、最後に道を塞ぐのだろう。



「ティエラ、様」



 名を呼ぶ声が掠れていたのは、今しがた負った怪我が原因だろうか。返ってくるのは、地を這うような気味の悪い呻きばかり。

 白磁の肌が闇よりも暗く染まっていく。艶やかだった金糸の髪は抜け、ドロリと病の影が落ちた。爛々とした眼光だけが、獲物アユハを前にして不気味なほどの生気に満ちる。



「う……」



 くらりと視界が明滅した。体がふらつき、脳に直接釘を打ち付けられたような激しい頭痛に目を覆う。深い呼吸を心掛けるが、既に乱れた息は意志に反して次第に浅くなっているようだ。

 焼けるような喉の痛みに咳込めば、赤黒い塊が吐き出される。肺の痛みは波のように押しては返し、休む暇もあったものではない。

 近付いてくる緩慢な足音に重いまぶたをこじ開ければ、足元の水溜りにケモノの姿がぼんやりと浮かび上がっていた。



「……!」



 反射的に剣を持ち上げ、その窪んだ眼を見て息が止まる。金色の、見慣れた瞳。病魔と溶け合ってなお、自分を見据える月の目がまるで、まるで――本物ののようだ、なんて。



「……うそ、だと……そう、言って、ください、よ……」



 悲痛な嘆きを、彼女が聞き取ることはない。形の良かったはずの耳は瘴気に呑まれ、丸い頭部と一体になって揺れている。

 最早打つ手はない。最悪の考えが頭をよぎった。それに呼応するようにが吠える。

 じわりじわりと瘴気が侵食していく華奢な体に、人間の姿は僅かにしか残されていない。辛うじて色を残した虚ろな右目が、アユハを値踏みするかのように上から下へと舐める。



「貴女が……! 貴女がこの病に勝つと言ったんだ!」


 

 驟雨のように降りしきる攻撃を紙一重でかわしながら、アユハは叫ぶ。雨に遮られないように、埋もれた耳を貫くように。せり上がる血を吐きながら、焼けた喉を震わせる。いつだって呼べば振り向いてくれた貴女に、この声が届かないはずなどない。

 信じていた。信じたかった。信じたままでいさせてほしかった。貴女だけは、この世界を生き抜くと。この剣があれば、守り抜けるのだと。



「っぐ……ぁ」



 足がもつれる。重なる眩暈に耐えきれず片膝をついた。その衝撃で溢れ出した血液が瞬く間に広がっていく。

 視界が霞んだ。剣を持つ手の震えが止まらない。寒さに対する感覚など失われていたにも関わらず、凍えるほどの寒気が押し寄せた。

 今にも飛びそうな意識の中で、かつての貴女との日々が瞬く間に駆けていく。あの日、あの時、あの場所で、積み重ねてきた記憶の欠片。

 ――ああ、これは。自分が今から辿る結末を確信した。



(なら、最期に……夢だったと、言ってくれよ)



 お願いだから、この人だけは。

 散らかる思考の中で、唯一確かだったその祈りさえ、もう届かない。丸太のような黒腕が、頭上でゆっくりと持ち上げられた。長く、長く、獲物の命を刈り取るためだけに伸びたの鋭利な爪が、アユハの脳天に真っすぐ振り落とされていく。



「アアァ――!」



 この世界での生き方を知っている。

 物心ついた頃から叩き込んできたのは、どんな時にでも生き延びるため。終焉の時代を、貴女とともに駆けるため。

 だから、考えるよりも先に体が動いた。死の淵にいてもなお、この剣はケモノに対して正しい判断を下すらしい。



「――」



 コアを貫く感覚が、人の肉を断つソレのようで。赤と黒の体液は手を滴りながら混ざり合い、雨に滲んで広がっていく。

 瘴気の臭いが鼻孔を満たし、目の前でぐらりとの体が傾いた。抱き留めた腕の中で、静謐な瞳が血まみれの従者を映して笑っている。



「……ア、あユ、ハ…………」



「ティ、エ、ラ様……っ」



 黒獣を殺すことなど、とうの昔に慣れてしまった。死を殺すためだけに生きていた。そのはずなのに。

 黒い指が頬に伸びる。咄嗟に剣を捨ててその手を取った。微かに残った温もりが、冷えきった体に確かに伝わる。城では決して重なることのなかったその距離に、貴女は何を思って微笑んだのだろう。



「……ア、ユハ……わた、し、は……――――た、よ」



 はらりとその手が落ちる前に、貴女の体が崩れていく。氷のような風とともに霧散していく瘴気を眺め、色を失う視界の中で。

 神はいないと、確信した。











 腕の中、抱えたはずの主君の体はもうどこにもない。地に膝をつき、ただ雨に打たれるアユハの消えかけた視界の片隅で、黒い何かが蠢く。

 とうに体は限界だった。瞬きするのも面倒だ。さっさとやめてしまおうか。

 ――でも。だけど。



「…………」



 俯いたまま、投げ捨てた剣を拾い上げる。剣先を引きずりながら立ち上がり、一歩、二歩――覚束ない足取り。

 ゲホ、と控えめな咳とともに生温かい塊を吐き出す。視界は霞み、あれほど不快だったはずのケモノ臭が消えていた。全ての音は雨が吸い取り、自分が呼吸しているのかどうかでさえ、もう分からない。

 それなのに、なぜだろう。道の先で、あの人が笑っている姿だけは鮮明に見えた。手を伸ばして、追いつきたくて。けれど、そこに行くにはケモノが邪魔で。

 そういえば、どうしてここにいるのだっけ。クライドと剣の稽古をしていたはずだ。鐘が聞こえて、会議室に走って。ティエラ様はいつも通り何の起伏もなくこの名を呼んで、それで――ああ、そうだ。そうだった。まだやるべきことが、あるのだった。



「……ここは、通さない。この先には、行かせない。お前らは、俺が……連れていく」



 乱暴に口元を拭った。不快な赤が手の甲を伸びる。しかし、突き出した剣先が震えることはない。黒獣たちが作り上げる死の山の先、瘴気に包まれたあの城が遠くに見えた。

 ここは、オリストティア王国。王都アルヴァレスは、眠らない難攻不落の城塞都市。黒獣病に抗い続け、今日、その導きを失う国。

 敗北の剣士は、渦巻く瘴気の中で穏やかに笑っていた。



「我が名、アユハ・コールディル。オリストティアの明日を願う者」










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