キスの後のカデンツァ4



 そして、翌朝、目が覚めたら結斗の望み通り世界が変わっていた。


 昨晩のうちに、瀬川が投稿したMOMOの動画が、サイトのカテゴリーランキングで、再びランキング一位になった。チャンネル登録者数も二倍になっていた。

 結斗は、その結果を見て、過去の自分のことを思い出していた。

 クリスマスのこと。

 調子が悪い中で歌った不完全燃焼の歌。後悔しか残っていない。

 もっと自分はいい歌が歌えるのに、最低な歌を純や由美子さんに聴かせた。本当に聴かせたい、大好きな歌が純に届かなかった。

 下手くそで、最低な歌。

 周りの評価に対して自分の声を歌を好きになれなかったのは、これが二度目だった。


 スマホに届いた瀬川からのメッセージには「お前、この先どうしたい? プロになるの?」と、また書いていた。

 結斗自身、結果を見て嬉しいよりも戸惑っていた。純へのあてつけで歌った曲。

 それが想像していた以上に周りから評価された。


 ――ただ、それだけのことだろ。


 結斗は勢いをつけベッドから上半身を起こし、枕元にスマホを放り投げる。

 土曜日は母の仕事が休み。まだ寝ているだろうと思ったが、リビングへ行くと休みの日にしては珍しく化粧も身支度も終えた母は、ちょうど出かけるところだった。


「起きたの? 私もう出るけど」


 仕事に行くにしては手に持っている荷物がいつもより多かった。


「……土曜なのに仕事?」

「あれ、言ってなかった? 今日から父さんのところ泊まってくる」


 聞いてねぇよと思ったが、いつものことなので聞き流す。母親がいなければ生活できない小さな子供でもない。


「いつ帰るんだよ?」

「月曜日の夜」

「あっそ、行ってらっしゃい。父さんによろしく」


 洗面所で顔を洗っていると、顔を上げた時に母と鏡越しに目があった。


「あんた、もう元気になったの?」

「何が?」


「母親がめずらしく作ったご飯も食べずに、爆睡してたから」

「いつも作れよ」


「えーなになに、ママのご飯がそんなに好きだったの? 言ってよ、作らないけど」

「自分で作ったご飯の方が好き」

「まぁ、君のご飯美味しいからねぇ」


 濡れた顔をタオルで拭いていると寝癖だらけの髪をさらにぐしゃぐしゃにされた。


「そうだ今日、純くんの家行くなら、机の上に置いてるお菓子持って行ってね」

「なんで」


「どうせ行くんでしょう?」

「……多分」


「東京出張のお土産だから」

「なんで、息子の俺にじゃなくて純に土産なんだよ」


「あんたは純くん家で一緒に食べたらいいでしょう。じゃあ、行ってきまーす。戸締りはちゃんとしてね。ガスの元栓もしめて」

「はいはい!」


 昨日行けなかったし、今日こそ純の家に行こうと思った。母親を適当に送り出し、キッチンで昨晩作ったという母親作のオムライスをレンジで温めた。


「――また、オムライス」


 そう、ひとりごちる。


 昨日は、昼に大学でオムライスを食べた。

 冷蔵庫にある残り物の食材で作るのは良いにしても、計画を立てるとか調整をするということをしない。母親のこういう部分を見るたび彼女に何十人も部下がいるなんて嘘だと思う。チキンライスのなかに入っている刻んだ玉ねぎも人参も絶妙に炒め足りないから苦い。味付けも薄い。文句を言えば「じゃあ、ご自分でどうぞ?」と返されるだろう。その結果が今の自分の料理の腕だ。


 最後まで食べた感想は変わらず「自分で作った方が美味い」だった。

 それでも、母親の料理だなと思うだけで改善して欲しいとは思わない。

 わかりにくい母親の愛情みたいなものを感じるのは、いつだって、このくそまずい料理を食べた時だ。


 食器を片付けたあとは、休日らしく音楽を聴きながらベッドの上でごろごろとしていた。そのうち何かしら答えが出るだろうと思ったが、どんなに考えても「自分の歌」をどうしたいかなんてなかった。

 バンドの生音で歌うのは楽しかった。

 出来るなら、もう一回、今度は楽しい歌が歌いたいと思った。

 けれどそれは今日明日どうしたいの話で、瀬川が訊いてることの答えじゃない気がした。

 上手く歌えたら嬉しい。もっと上手になったらもっと嬉しい。誰かに喜んで貰えたら嬉しい。子供の時から変わらず、それだけだった。目標なんてない。

 結局、瀬川には「来週会ったとき」と返事をして結論を先延ばしにした。



 *


 昼になって、母親のお土産を口実にして純の家に行くと純の機嫌が悪かった。

 機嫌が悪いといっても出会い頭に怒鳴られた訳でも、無視をされた訳でもない。

 音と空気で純の気持ちを感じ取っていた。

 地下の部屋に行くと純のピアノの演奏が荒れていた。


 ――リストの鬼火? だよな……?


 昔、純が弾いた時と雰囲気が違った。


 『鬼火』という曲名は重々しいが、音の粒が転がるようなどこか楽しい曲。

 それが、なぜか今にも人を殺しそうな曲になっている。

 ナイフを後ろで突きつけられているような音。

 意図的に遊んでいるようには見えず、結斗はそんな純を見るのが初めてで戸惑っていた。


(俺、こういう時、いつもどうされてたっけ?)


 結斗の機嫌が悪いのは、よくあることだった。親と喧嘩したとか、学校の先生がむかついたとか。バイト先の客が嫌な人だったとか。

 純はそんな結斗を見るといつも「どうしたの?」と笑いながら訊いてくる。そうやって純に構われて、関係あることないことも話しているうちに、最後にはどうでも良くなる。

 自分のチョロさを改めて自覚して恥ずかしくなる。

 とにかく、純に何があったのか聞いてみようと思った。これから先も許される限り、純と対等な関係でいたいと願うのなら、自分ばかりではなく、純の悩みも同じように解決したいと思った。

 純は、結斗が部屋に入ってきて隣に立っていることに気づいても、演奏を途中でやめずに最後まで弾いた。結斗は曲が終わったタイミングで恐る恐る声をかけた。


「純、どうしたの?」

「ん、なにが?」


 笑っているのに、目が笑っていなかった。


「え、なにって……なんか、嫌なことでもあったのかなって思って。考えてみたら、俺、いつも純に聞いてもらってばっかりだし、俺も……」


 自分も純の話を聞きたいと思った。


「ふぅん、結斗がね……聞いてくれるの?」

「なんだよ、俺だって」


 俺だって、といいながら「純に依存してばっかりのお前に何が出来るんだよ」ともう一人の自分が指差して笑っている。

 昨日歌ったときと同じ「俺だって出来る」と思った。


 ――で、なにが?


 歌える、それがなんだと思った。

 ただの趣味だ。


「俺、結斗の方が、俺に話あると思ってたんだけどな、昨日のこと」


 純は結斗に向き直り、ピアノの椅子に座ったまま結斗の手をそっと握った。その手の冷たい温度に心臓が深く波打った。


「は、話って、純が機嫌悪いのってそれ? 昨日は来れなくて悪かったけど、クリスマスなら、今年も純と一緒に」


 一緒にいたいと思っている。ずっと、この先も一緒にいてほしい。そう思っているのに。罪悪感がずっと心の中にある。


「違うよ」


 多分、逃げられないように手を握られていた。都合が悪くなると結斗は逃げるから。問題と向き合わないから。

 純は最初から知っていた。

 ずっと結斗が逃げていること。答えを出せないこと。


「あの動画のMOMOって、結斗でしょ」

「え、何で、知って」


「ランキング上がってたし、お前の声なんて聴けばわかるよ」

「う、うん」


「それでさ、俺も、結斗と同じこと訊いてもいい?」

「同じ、こと……」


 純に唐突に手を引かれ向かい合わせで膝の上に座らされた。小さな子供みたいに近い距離でそばにいるのに純の視線は、もう小さな子供の目をしていなかった。

 子供じゃない。大人の純。


(知ってる。ちゃんと、全部見てた)


 幸せな今のままがいいからと、ずっと目をそらせて向き合わなかった。

 自分が一瞬だけみた純の姿で何度も妄想した。

 高校生のときピアノの前に座ってシていた純の唇の動き。自分にとって都合のいい妄想だ。


 ――ゆ、い。


 呼んでくれたらいいのにって思った。

 自分の気持ちは普通じゃないからと、気づかないふりした。そうすれば……。ずっと。

 一緒にいられるから。


「ゆい、プロになるの?」

「……プロって」

「歌手になるのかと思って」


 ぷつん、と頭の中で何かが切れた。


 もし純が怒っているんだとして、それ以上に自分も怒っていた。


「歌手なんて……なれるわけ、ないだろ」

「ほら、やっぱり俺と同じこと言うし、お前分かってくれないから、もう一回言うけど、俺だってピアニストになるつもりはないよ」


「――じゃあ、お前、何になるんだよ」

「ピアノの調律師になりたい」


 そっか……お前、ピアノ好きだもんな。うん、知ってるよ。


 ――いつ決めたんだよ。


 言うべき言葉が口から出てこなかった。昨日は約束破ってごめんって言って、いつも通り笑えれば、このまま幼馴染として、親友の顔をしていられた。

 もう、無理だった。

 はっきりと、自分の夢を言葉にする純を見て悔しかった。何もない自分が悔しかった。


 ――なぁ、その夢決めたとき、少しは悩んだ? 俺の顔は浮かんだ?


 知っていた。


 純が自分に相談なんかするわけがない。

 頼るばかりで何も返せていない。

 純の夢の邪魔しかしてこなかった。

 自分がピアノをやめて欲しいって言わなければ、純は演奏家になれた。

 ずっと怖くて聞けなかったことの回答を訊く前に突きつけられた。


「……同じじゃない、よ」


 純に握られていない右手が、衝動的に純の服の胸元を掴んでいた。


「どうして? 同じだよ、これからだって」

「なぁ俺、お前のなんなの……幼馴染で、親友じゃないのか、お前だって、動画のこと教えてくれなかったじゃんか……バイトのことだって」


 言葉が止まらない。


「訊かれれば言ったよ」

「嘘つき」


 言うつもりのなかった言葉が代わりに口から溢れた。

 寂しいだけなのに。寂しいと言えない。ムカつきすぎて頭がくらくらする。

 もっと話をしたかった。けれど思い通りに口が動かない。

 親友でも言いたくないことだってある。

 自分だって、純へのあてつけのように歌った動画のことなんて知られたくなかった。

 恥ずかしかったから。話せば分かること。それだけの話だ。けれど言う必要のない言葉ばかり言っていた。


「……嘘つきって、あのさ、俺も怒ってるんだけど」

「なんでだよ」


「なんで、昨日、俺じゃなくて瀬川くんのところに行ったの?」

「え……」


「前、喋ったとき瀬川くんが自分のチャンネル教えてくれたから。分かった」

「……そう」


「あの動画撮ったの昨日だよね? 俺、先に約束したのに」

「それは……お前が」


「俺って、お前の都合のいい時だけの親友? 結斗こそ、俺のなに?」

「なに……って」


「抱き枕? 安定剤? まぁ、それでもいいよ、結斗はずっとこのままが良いらしいしね」


 ムカムカする。そうやって人をバカにして全部分かったような顔をする。

 実際、純は結斗のことを全部分かっている。

 今日まで、分かっていないふりをしてくれただけだ

 結斗がそう願ったから。


「ッ、人のせいにするなよ、純、お前は、どうなんだよ」

「いつも思うけどさ、ほんと、王様かよ。訊きたいなら自分から言いなよね」


 次の瞬間、頭の後ろを押さえられて強引に唇を重ねられた。中学のときに純が頬にした温かいキスは確かに親友のキスだった。安心した。ふわふわと心地よかった。

 酔ってしたキス。


 親友じゃなくなった。不安でいっぱいになった。苦しかった。

 三度目の優しさの欠片もないキス。気持ち良くてたまらない。こんなに、腹がたつのに、怖いのに、悲しいのに、大好きで嫌になる。


「俺、好きだよ。結斗のこと」


 花も実もある。そんな完璧な純が嫌いだ。


 これ以上優しくしないで欲しかった。もっと優しくされて甘やかされて、抱きしめて欲しくなるから。

 もっとキスがしたかった。こんなにしたくないのに。

 ずっと、純の気持ちを聞きたくなかった。怖かった。これ以上、純の未来をめちゃくちゃにする自分が許せなくなる。


「こんなの、嫌だ……」


 嫌なところがないところが嫌だった。


「もう、いい加減諦めろよ。結斗のこと大好きだけど、そうやって、すぐ逃げるところは大嫌いだ」

「ッ……」


 悔しい。ムカつく。


「ねぇ親友とキスしたら、お前は勃つの?」

「ッ、分かってるよ! 俺が、変なことくらい! 俺の変にこれ以上、純を付き合わせたくねーんだよ!」


「誰も変とか言ってないだろ、この分からず屋!」

「っ、ぅ……」


 純の大きな声を初めてきいた。

 純の言葉に一瞬で、涙腺が決壊していた。

 純の膝の上でぼたぼた涙をこぼしている。

 人ってこんなに涙が出るんだって初めて知った。純の家の帰りみち自転車でこけて骨が折れた時だってこんなに泣かなかった。

 初めて、大嫌いって言われた。初めて怒られた。初めて喧嘩した。

 純と同じくらいにすごい才能があれば、音楽をすれば、同じように動画を上げれば、何か変わるかもしれない。自分の純への歪んだ気持ちも何か変わるかもしれない。昔に戻れるかもしれない。同じに、幸せだった純の半分に戻れるかもしれない。

 無理だった。もう戻れない。


「俺だって、お前が、好きなんだよ、分かれよ! バカ!」


 こんなの駄目に決まってるだろ!


 持ってきた土産の袋を投げつけて純の家から逃げてきた。

 何を投げても、いつも当たらないのに、この日は見事に純の肩に当たった。


 自分でも捨て台詞は、どうかと思った。


 その日、ごめんなさいって、メッセージを送ったけど純から返事は返ってこなかった。当たり前だ、何に対してごめんなさいか書いていないから。

 純の既読スルーも初めてで、その夜は一睡も出来なかった。



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