キスの後のカデンツァ2
純に呼び出されて待ち合わせの『桜花殿』に着くと、純はピアノの前にいた。
以前のような人集りはなく、純はピアノの蓋を開けて年上の髭面の男性と楽しそうに話をしていた。
(誰だろ?)
邪魔になりそうなので後にしようと思ったが、入り口近くの席に座る前に純に気づかれた。仕方なくピアノのところまで歩いていく。
「ゆい、もうお昼食べた?」
笑っている純を見て胸がチクリと痛んだ。
「うん……いまさっき、瀬川と」
急に純の前で普段自分がどんなふうに声を出していたか思い出せなくなる。
今は、どこまで近くにいてもいい? 仲のいい幼馴染が許される距離が分からない。
知らない純を見て、また動揺していた。
いつまでも子供のままが良かった。そうすれば、今だって無邪気に走って行って背に抱きつくことが出来た。
こんな感情は、おもちゃを取られた子供と変わらない。全部自分のものだと言いたくなる。そんな醜い自分を遠くから俯瞰して見ていた。
「そっか残念。バイト終わったら一緒に食べようと思ったんだけどな」
「バイトって? お前バイトしてたの」
また知らない純を知った。
「うん。ピアノの調律の手伝い、今日は確認と微調整が残ってて」
結斗は、このときまで純がバイトをしているのを知らなかった。
「ちょう、りつ、純が? 出来るの?」
「うん、まだ勉強中だけど。高校の時に、三森さんに弟子入りしたんだ」
――そんなの、聞いてない。
純に紹介された三十後半くらいに見える年上の男性。三森は結斗に向けて人当たりの良さそうな柔和な笑顔で「こんにちは」と挨拶する。それにぺこりと会釈を返した。
「俺さ、やっと一人でも調律の仕事できるようになったんだよ」
「へー、お前、すごいじゃん」
純の笑顔が、まぶしくて苦しくなる。
ピアノが弾けて、調律も出来る。
――俺、お前がすごいなんて、ずっと昔から知ってるよ。
純は、いつだって、綺麗で、かっこいい。なんだってできる。
庶民で平凡な自分とは違う。すごい才能のある人間。純のことなんて全部知ってると思っていた。ただの思い上がりだったけど。
知らない純を知るたびに、苦しくて、寂しくなる。
(だから、そんな純は嫌い)
嫌いって思った瞬間に自己嫌悪している。
純は少しも悪くない。悪いのは、普通じゃないのは、ずっと自分だけだ。
「私から見れば、篠山くんは、まだまだだけどね。ま、友達の前だからアゲとこうか?」
三森はニヤリと口角を上げて笑った。
「俺の幼馴染なんです。桃谷結斗」
「へぇ、この子が。噂はかねがね篠山くんから聞いてるよ」
「純、俺のことなんて言ったんだよ」
いま普通に笑えている? 笑顔引きつってないだろうか。ただの幼馴染に見えてるか不安だった。
「うーん。いつも一緒にいるよって」
「なんだよそれ」
「だって、事実だしね。いつも一緒なのは」
三森は「結斗の前にいる純」を見て声を上げて笑った。
「君ら、ホント仲良いんだねぇ」
「はい、とても」
純は迷うことなく仲がいいことを肯定した。そんな自分にとってあたり前の純を見て結斗は、訳もなく衝動的に詰め寄りたくなった。
(全然一緒にいないじゃん! バカ。嘘つき!)
小さな子供の自分が泣いて叫んでいた。
動画配信して有名人になっているなんて知らなかった。
調律のバイトしているのも知らなかった。
――これは、醜い嫉妬だ。
自分の方が純のこと、もっといっぱい知ってるって、全世界に訴えたくなる。
大声で叫びたくなる。
そんな権利なんてないのに。
「篠山くんは、私の弟子の中で一番覚えが早いよ」
「へぇ、すごいな、純」
「うん。ほんとすごい。最初の三年で逃げるかと思ったら、まだ続いているし、そういうひたむきに努力ができるって意味なら才能もある」
「さい、のう……」
自分には、あるんだろうか。純みたいな才能が。
「なにより篠山くんはピアノが大好きだしね。一番大事なことだ」
三森に褒められて純の目がキラキラと輝いて見えた。好きなことに夢中になっている姿。誇らしげで、頼り甲斐のある男。
結斗は三森から見た純の話を聞きながら、心ここにあらずになっていた。
また頭の中で嫌な音が鳴り出す。分析できない自分の中に流れる音楽。「嬉しい」と「寂しい」の音が半分ずつ鳴っている。幼馴染が誇らしいのに憎らしい。
結斗はバイトどころか、いつ純がピアノの調律を勉強しだしたのかも知らなかった。高校の三年間、同じ学校じゃなかった。その間に、純は結斗の知らない外の世界に目を向けたのだろう。よくよく考えてみれば、ここ一年、純の家のピアノの音色がよく変わると思っていた。
純はあの地下にあるピアノで勉強していたのかもしれない。
――なぁ、いつから? どうして?
結局、どんなに近くにいても、どんなに長い間一緒に過ごしても、結斗は、純のことを何も知らない。
子供みたいな独占欲に囚われる自分をこれ以上みたくなかった。惨めだった。
さっきまでは、結斗も自立するつもりでいた。純から少し遅れてしまったけれど、純と同じように、自分だけの世界を見つけようと思っていた。
純と二人だけの幸せで、温かな、あの地下室から抜け出して、外の世界へ目を向ける。
純に優しく支えて貰わなくても、一人でも立っていられるようになる。これ以上、純の音楽を独り占めにしないし、大切な純の未来を奪ったりもしない。
――だから、そばにいて。
面と向かっていうのは、恥ずかしいセリフでも、はっきりと言うつもりだった。
これからも親友として一緒にいるためのけじめ。
この先も、純がそばにいない未来が想像できない。
これが、結斗が純に言えるせいいっぱいの気持ちだった。
やっと決心したのに、三森と話す純を見て暗い気持ちが結斗の言葉を阻んだ。
また子供みたいな自分に逆戻りしている。
「純ごめん。俺、講義あるから、もう行くよ」
――赤ちゃんかよ。
純のいう通りだと思った。
伝えたいことも、伝えなければいけないことも上手く言えない。自分の気持ちを表す言葉が見つからない。
「そう? じゃあ今日帰りにウチ寄ってよ。昨日二人とも酔ってて話できなかったし、クリスマスのこと」
「……うん、わかった行く。バイトあるから終わってからな」
「了解」
結斗は、そのまま二人から逃げるように、足早に建物から出ていく。夜、純に会う時までに、早く、いつもの自分に戻らなければいけない。
(ねぇ、いつものってどんなだっけ?)
――歌いたいと思った。
この感情を全て歌にぶつけて。醜い心を全て消してしまいたかった。
自信が欲しかった。自分は、ひとりでも大丈夫だという自信。
結斗は三限が終わった時間を見計らって、やりたい曲があると、峰にメッセージを送っていた。
――ひとりで自分がどこまで出来るのか知りたかった。
+ + + +
夕方のバイトの時間までという約束で峰と軽音部の部室へ行った。そこには瀬川が言っていた通り機材が揃っていた。
「今までだーれも歌わないからさ、インストばっかりだったし。嬉しくって峰から連絡もらって速攻きちゃったよ」
部室で峰と待っていると峰のバンドメンバーたちが集まってきた。
最初にバイトまでの時間だと約束していたので、メンバーたちは話しながら、それぞれ効率よく準備に取り掛かっていた。
「つか先輩たち、授業サボって卒業は大丈夫なんですか?」
「そう思うんだったら、こんな楽しいお誘いやめてよね」
「君が、ももくん?」
落ち着いた声。背の高いベースの人に後ろから声をかけられた。
「あ、はい。でも、ホント、俺、ただのカラオケしにきたみたいな? そんなのでいいんですか?」
「いーんだって、俺らも別にプロ目指してるわけじゃないんだし、趣味バンドだよ? 一緒に遊んでくれたら嬉しいな」
峰のバンドのメンバーは結斗が注文した通りに演奏してくれた。
こんな感じが良いと結斗が歌う。峰たちが、その通りに弾いて確認していく。狭い軽音部の部室は、結斗にとっていつも行っているカラオケルームと同じだった。
けれど、バンドの生音は心地よく身体中に響いた。
いつもなら、コントローラーを使って、結斗が好きにいじっている音も人が演奏すると自由に細かい調整がきく。
ここは、スピードを上げたい。ここはゆっくり。
そういって、自分の思い通りに響く音は気持ちよかった。
――まるで、純のピアノ。
純の場合は、結斗が何も言わなくても全部感覚で伝わってしまう。魔法のように。
結斗は、歌いながら頭を振った。
どんなに楽しくて、気持ちよく歌えても渇きは治らない。
どうしても、純が頭の中から消えなかった。
(そんなのは、いやだ。俺はもう一人でも大丈夫だから)
鬱屈した気持ちを晴らすためのカラオケだったのに、ちっとも晴れやしない。
再び声が歪んだ。歌詞に勝手に自分の感情が乗る。
気分爽快になる曲のはずなのに、隠そうと必死になっていた寂しさが溢れていた。
純のピアノの伴奏以外で歌えば、胸がすっとするはずだった。
ひとりでも大丈夫だって自信が持てるはずだった。
お前が、そうやって、誰かと楽しくやってるあいだに、俺だって楽しくやっているよ。 大丈夫だよ。
――ざまぁみろ。
けれど、そんなふうに少しも思えなかった。
結斗の心の中にあった真実は、歌詞と相反する感情だった。
ひとりにしないで。ずっと一緒にいて。
前を向いて歌っていたから、バンドメンバーたちから、結斗の顔は見えていなかった。
歌い終わって、頬に伝っていた涙を慌てて袖で拭う。
純と結斗が過ごした日々は、全てが完璧だった。
悲しいときも嬉しいときも、純がいたから幸せだった。
だからこそ、こんな腹立たしい関係があってたまるかと思った。
そばにいればいるほど、寂しくなる。
純のことが大切だからこそ、もう離れなければいけない。
周りと同じように純の前で楽しく笑えるように。
けれど、時間が、距離が、甘えたな自分の心が、それを許せない。
あんなにも、優しくされて、温かくされて、自分からひとりになるなんて、できるはずがなかった。
「いやぁ、カラオケなんて、とんでもない。マジでびっくりした。ももくんスゲェ」
昼にサイトで見た動画のコメント欄と同じだった。
バンドメンバーたちは、結斗の感情をおいてけぼりにして盛り上がっている。
――絶対、これいけると思う。なんか、世界が変わったっていうか。
――なぁ、これも投稿していいか? 瀬川に渡そうと思うんだけど。
峰たちに言われて、結斗は笑顔でオッケーを出していた。
少しも楽しい気分にならない、こんな歌なんて誰も聴きたがらないだろうと思った。
結斗が歌った、このひどい歌で世界か変わるなら、いっそのこと全部変えて欲しかった。
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