神の杖

広瀬 広美

第1話 五三〇〇年〇八月二十七日 ①

 宇宙の広さに圧倒されたのは、いったい何十億年ぶりのことだろう。


 クルルは倫理という幻想の殻を破って言葉を放つと、「私たちは、ようやく対等な相手に出会える。探し求めた彼らに出会えたら、まず何を?」

 ガラップはそれに答えて、「もしも彼らに言葉が通じるのなら、やはり最初に言うべきは『初めまして』だろう。次に自己紹介、名前と出身、趣味と好物」

 クルルは笑った。「好物が用意できるものならいいけど。私たちの初めての客人だ、もてなしてあげよう」

「もてなす? こちらから出向くのに? 僕たちは外交官じゃない。互いにとって客人でもない。今はまだ他人で、これから友人になりに行くんだ」


 花を愛でるような慈しみはいらない。必要なのは敬意と、畏れない態度。


 クルルはガラップの言葉に頷くと、「さて、そろそろ行こうか」


 クルルに促されて歩き始めながら、ガラップは深呼吸した。淡い光に呑み込まれながら、どうして彼らに会いたいのかを自問自答する。

 

 答えはシンプルに、探究心。あるいは、淋しさを埋めるための。


 ×


 ガラップが旧アリゾナ州グランドキャニオン上空の宙域からダイブした方法は、奇しくも数ミレニアム前に眼下の一帯を支配していたアメリカという古い国が、核兵器以上の切り札として製造していたと噂され、ついぞ使われることのなかった兵器と同じだった。


 切り札の名は、『神の杖』。軍事衛星から落とされる金属棒による、運動エネルギー爆撃である。


 果たして、この兵器が実用に足るものではなかったから使われなかったのか、それとも強力であったが故に平和な時代には無用の長物であったのかは評価のしようがない。なにせ降臨後のこのそらに、神を名乗る兵器があった記録などあれば、教会の浄化機関によって跡形もなく消し去られるはずだからだ。


 神は戦争を由とせず、兵器を由とせず、権力を由とせず、堕落を由としなかった。

 神は平和を愛し、知識を愛し、理解を愛し、努力を愛した。


 時速二百キロを越えて加速する最中、神の真意をいま一度心のうちに浮かべたガラップは、それを最後に意識を失った。

 ガラップは地球の全環境に対応すべく、アイデンティティに数十の変更を加えている。そのうちの一つである、教会の持つワープ機構の使用許諾を得るのに必要だった『信仰心』が、宙を翔ける為のジェットと競合を起こし、急激に意識レベルを低下させたのだ。


 宙は神のものであり、兵器の浮かぶべき場所ではない。たとえたった人間一人分であろうとも、ジェットを使用しているのであれば、それは運動エネルギー爆撃と変わりはない。という、自己矛盾。


 最初から教会との契約は、惑星への落下のみに絞られていた。それは「他人によくする」という教会の理念から発せられたガラップへの配慮であり、それを反故にした彼の辿る末路が地上の塵であることは、教会になんの落ち度もない。責任があるとすればガラップ本人であるが、それを悔いるために必要な意識は、すでに思考可能レベルからかけ離れて彼方にある。


「おーい! ガラップ、生きてるかぁー?」


 クルルの冗談混じりの声がガラップの内側で響いた。彼女はガラップからの返事を十数秒間待ち、それが来ないと理解すると面倒くさそうに笑って、「おいおいまじか、必要ありそうならこっちでバックアップ励起するけどー?」


 やはり返事はない。

 ガラップはアイデンティティに加えた変更を、探索後に元の状態に戻すための指標として、変更前の精神図面を作っていた。その精神図面を別の肉体にコピーしたものをバックアップと呼び、探索の度にいくつかを基底状態で待機させてある。同精神の励起状態の肉体が活動不可能レベルで損傷すると、自動でバックアップが励起状態に移行する。しかし、これはあくまで保険だ。できることならば、損傷による情報取得が不可能になる前にバックアップを励起し、本人にしか知り得ないパスを伝って損傷直前の情報を得た方がよい。探索失敗の事後に、より現実的な評価を下すには、最新の情報が不可欠である。加えて、闇雲にトライアンドエラーを繰り返すには、バックアップ一体にかかるコストが釣り合わない。今回の地球探索のために用意したバックアップは四体であり、それ以上は想定されるリターンがコストを下回る。


 クルルは雇われの身であるが、その精神は極めて勤勉であり、勤務中は雇用主であるガラップの利益を優先していた。今回の場合、意識低下の理由がはっきりとしていないため、損傷後にバックアップを励起状態に移行したところで、もう一度同じ穴に落ちる可能性がある。その為、先んじて移行しておけば、コストカットできるだろう、と考えた。また、アイデンティティの変更はバックアップそれぞれで行う必要があり、その度にコストがかかるが、変更済みの精神とパスを繋ぐことができればそのコストも節約することができる。

 精神モニターに映されている数値は明らかに異常な形で推移している──ある数値で、一定で横ばい。しかし、その原因を特定できるほどの客観的情報はない。リアルタイムでより綿密な精神モニターをするために必要な機器一揃いを、ガラップは用意できなかった。そもそも、そうした上位の機器を用意できるのは上級市民に限られ、上級市民は探索などというリスクとリターンの釣り合わない仕事などしない。探索はガラップのような、ある程度のリスクを取らなくては人生に逆転の目すらない、下級市民の仕事だった。


 そして下級市民だからこそ、事前のバックアップの励起には問題が起きやすい。


 同じ図面から作られた二隻の船が、『同じ船』ではないように、同じ精神図面から作られた個人は、『同じ人』ではない。けれど二人はパスによって繋げられ、国家内でのあらゆる権利が等分される。最初は働き手が増えたことに感謝するかもしれない。しかし、ほんの数日の間に──たとえ唯我論者でなくとも──本能がその状況を拒絶し出す。アイデンティティは難解な迷路のように複雑になり、外部からの変更を受け付けなくなる。その行き着く先はパラノイアだ。不変のアイデンティティは仕事の幅を狭めるばかりか、その先数十から数百ミレニアムに渡る人生を棒に振るうことになる。これは自由度が少ないからこそ、より多くの手段を求める下級市民が陥りやすいトラップだ。


 クルルは励起の準備を進めつつ、精神モニターを睨め付けると、「あと十以内に返事がないなら励起するから!」


 返事はない。残り五九九秒。


 とはいえ、バックアップが目覚めるには少なくとも二十分はかかる。十分後に励起状態への移行を開始し、その後完了するまでに目を覚ませば、バックアップは一体無駄になるが、そのまま探索を再開することはできる。完全に目覚めさせる前にバックアップを放棄することは、あらゆるレベルで拒絶されることはない。本人の意思としても、倫理としても、法律としても。

 なので、現在励起状態にあるガラップが死を回避するという意味であれば、猶予は残り一七九九秒。それ以降はより新しいガラップを優先し、クルルの側から活動中の古いガラップを基底状態に移行させるよう契約が交わされている。

 とはいえ、ここで現在のガラップを生かすために最善を尽くさないことは、クルルにとって恥いる行為だ。クルルは個人環境にジャンプすると、そこにガラップの精神モニターを接続し、視界の端の方に固定した。

 クルルの個人環境は雑多な家具で溢れていた。勉強机が二つ、クローゼットが四つ、ベッドが三つ、冷蔵庫が六つ。それぞれに異なる使用感が残っているが、この環境にクルル以外の人物が足を踏み入れたことは殆どない。クルルは勉強机の一つに座ると、個人用画面を開いた。残り一七〇〇秒。そしてライブラリにアクセスし、意識回復に関する記事を呼び出す。


『失神は数秒から数分で意識を回復し──』

『二十七年越しに昏睡状態から回復した女性が──』

『個人国家ハロートの三番目のバックアップが、五百年越しに意識を取り戻し──』


「……あった」


 残り一五〇八秒。この時点で、精神モニターに有意な変化は見られていない。しかし、ガラップに似た状況を、たった一例だけ見つけることができた。


『惑星メメントの探索に出かけた男性が、フェルト山脈にて意識不明状態で見つかる。精神モニターの記録は、突入時点から横ばいで一定──』

『フェルト山脈の意識不明の男、三十五年ぶりに意識回復。事故時に励起状態に移行したバックアップを権利侵害で告訴──』


 どちらの記事にも、男の名前はファーネル・マルキンと書かれている。総合するに、ファーネルは惑星探索と同時に意識を失い、三十五年後に目を覚ました。

 三十五年、即ち一一〇三七六〇〇〇〇秒。ガラップが同様の水準を辿るならば、圧倒的に時間が足りない。残り一四三〇秒。

 しかし、クルルは決して打ちのめされたような気分にはなっていなかった。むしろ清々しく、ガラップを助け出すための確かな道筋が立ち上がっていた。

 クルルはガラップの所有する仕事用の環境へと戻り、彼の精神モニターを再び立ち上げた。外部からのガラップの精神への干渉は、大きく四つの項目に限られる。

 意識レベルのモニター、基底状態への移行、擬似音声コミュニケーション、そして主観時間の操作。

 クルルは四番目の項目にアクセスした。残り一三三〇秒。ガラップの主観時間を、


 この時、もしもガラップに意識があったのなら、彼の周囲の時間はさま止まっているかのように見えただろう。雲は空に縫い付けられ、オーロラは揺れず、ガラップを射出した宇宙船はいつまでも止まっている。もちろん、それは完全な静止ではなく、本来の八十五万分の一という、恐ろしくゆっくりとした速度で動いている。あくまでガラップの視点に限り、であるが。

 この手法の問題点は、モニター側の主観時間も加速しなくては、ミクロな精神の揺れを観測できない点にある。例えば現実時間で一分間、主観時間の減速に遅れた場合、ガラップの精神内では五九〇主観日のズレとなる。その為、ガラップの目覚めを観測し、最速で現実時間に合わせるには、ガラップと同速でモニターするしかない。

 

 クルルはわざわざ覚悟を決めるようなことはしなかった。ほんの三十五主観年間の仕事だ。その程度は、少し考えごとでもしていればすぐに過ぎる。

 一応、バックアップを励起状態に移行するタイミングで一度減速するように設定し、クルルは自身の精神を加速させた。八十五万倍に加速。同時に個人環境にジャンプし、再び精神モニターを視界の端に縫い付けた。個人環境もまた同程度に加速しており、ここでは周囲とのズレは存在していない。


 クルルはベッドの一つに寝そべると、仰向けのまま伸びをした。


 残り一一〇五〇〇〇〇〇〇主観秒。


 ×


「おはよう、ガラップ。よく眠れた? キミは随分とお疲れだったようだね。なあに、二十分ちょっと寝てただけだ。気にするようなことじゃない。それよりも、もうすぐ地上だ。ジェットの燃料はばっちり? パラシュートは? 確認が終わったら返答を頼むよ」


 ガラップはウトウトとしながら確認作業を進めると、突然何かに気づいた様子で声を上げ、申し訳なさそうに言った。


「倍の給料を払うよ」

「倍はいらない。でも私の仕事ぶりを評価するなら、チップを弾んでね」


 間も無く、地球環境に降り立つ。十分に多様性に富んだ生態系を育み、高度な知的生命体を有しながら、恒星間文明には至らずに自滅した惑星。今回のガラップの仕事は、上級市民である芸術家に、地球文明の残骸を提供することだ。

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