第6話

 健吾が帰宅したのは二一時前だった。健吾の部屋は、離れにあり、バス・キッチン付きでおよそ一〇畳ほどの広さだった。そこはもともとは、整体院に賃貸していた小屋であったが、息子の帰省に合わせて、身内の住まいとして手配された。健吾は、机に座ると、PCの執筆中の小説ファイルを開いた。それは、地元の田舎に戻った中年男という健吾を投影した主人公の話だった。どういう話にするか何も決めてなかったが、書くことは尽きないと思えた。今日の出来事は、ネタとしても大きかった。今日の出来事をそのまま書けば一場面になると思えた。

 健吾は原稿用紙三枚ほど書いた後、ネット麻雀をやったり、YouTubeを見たりしたところで、ベッドに入った。そこで、今日教えたもらったInstagramのページを見てみた。そこには、これまでの飲み会の参加者の写真が投稿されていた。健吾はその写真の中に見知っていると思われる人を見つけて、ハッとした。

 もう何年も会ってないので確信は持てなかったが、鈴木慧一すずきけいいちと思われた。彼が佐渡に帰っていることは聞いていた。慧一もまた健吾にとって、ある痛みを呼び起こす存在だった。彼とは高校で出会ったのだった。彼は入学式のときに、新入生代表挨拶をした。健吾は慧一が自分よりも成績が良いというだけで彼のことを尊敬していた。慧一は勉強ができるというだけでなく、部活も熱心だったし、ほかに生徒会役員を務めたりしており、健吾よりも断然人気や人望があった。

 そういう慧一と健吾は友達になり、夏休みには一緒にビジネスホテルに滞在して、予備校の夏期講習を受講したりした。それは、健全な関係であるように思われた。ところが、果たしてそうだったのか、今では疑問があった。それは、後にアニメでつながった友達と比べると、違和感があったためだった。慧一とは、ただ成績とか女の子の話だけしかしなかった。

 二年になると、健吾は一部の科目の成績で友達を上回った(それは健吾が帰宅部になったことも大きかった)。それから慧一は、健吾に対して冷淡になり、やがては口を利かなくなった。

 そうした冷たい戦争のような状態が続く中で、慧一に対して激しい嫉妬と、それにとどまらない屈辱を感じた出来事があった。それは、健吾が当時好きだった女子・筒井美和子つついみわこが絡む出来事だった。健吾は二年の秋に美和子に告白して振られていたが、それから一か月もしないうちに、慧一が美和子と放課後一緒にいるところを目撃したのだった。そのときばかりは、奈落の底に落ちた気がした。その日、六限目が終わると、健吾はいつものごとくまっすぐ帰宅しようとしたが、忘れ物に気づき、校舎に戻ったとき、校舎構内の自転車・原付きの駐輪所にいる慧一と美和子の二人を目撃したのだった。間が悪いことに、健吾は二人に気づかれた。そのときの慧一の自慢げな顔が健吾の肺腑を抉った。健吾は校舎に入ることもなく、しばらく歩き続けて、家に帰った。それから、自室で電気も点けずに一人で泣いた。

 慧一は一年の浪人の後、健吾と同様に東京の大学に進学していたが、大学生になっても交流はなかった。ただ、ほかの同級生から慧一の状況についてたまに聞いたりした。最後に会ったのは、二〇代半ばの頃に開催された高校の同窓会のときだった。当時、健吾は別の大学に編入したため、まだ学生だったが、慧一はすでに社会人で、地方公務員になり県庁に勤めていた。健吾はまたもや敗北を感じた。

 そのとき、健吾は慧一と会話を持ったが、肝心のことは聞き出せなかった。つまり、慧一が何を思って美和子と交際したのかである(もっとも交際と言っても、三か月しないうちに別れていたが)。当時は慧一はひとえに自分への当てつけで美和子と交際したのだと思っていたが、後に慧一が自分の欲望に影響されて、美和子に好意を抱いたというのはよくあるシナリオだと気づいたのだった。

 そのことは、ずっとわだかまっていたが、今更それを知ることにどんな今日的な意味があるのか疑問だった。すでに三〇年超が経っていた。しかし、一方でどれだけ時間が経とうが、当時の痛みはリアルだったし、それがその後の人生に大きな影響を与えている可能性は否定できなかった。時間は確かに鎮痛作用をもたらすが、根本的に何かを変えることはないように思えた。

 あれから長い時間が経ったが、過去に暮らした家・土地に移り住んだことは、看過できなように思えた。過去の遺物がそこここにあった。家族から家から、細かいもので言えば、かつて使っていた参考書だったり、机だったり。

 どう転んでも過去とすっぱり縁を切ることは不可能だった。例えば、見知らぬ土地で独りで暮らしても、同様である。なぜなら、過去は変わらないからである。自分の状況にかかわらず、過去はついて回る。唯一できることは、過去から目を背けることだけだ、と健吾は考えた。

 しかし、ここまで過去に囲まれた環境では、それも不可能に近いのではないか。過去から逃れたいなら一生横浜にいるべきだった。結局、過去と対峙するために佐渡に戻ってきたのではないか。それは五〇代という年齢のせいもある。この年になったからこそ過去と向き合えるようになった、と健吾は考えていた。

 その過去とは具体的には妹だった。それを言えば、両親もまたそうだったが、両親に対する罪の意識はなかった。こちらが被害者と言えるとしても。健吾が住んでいる地区の人口は三千人程度だったが、その中でも子から親への殺人未遂事件が近年起きていた。その内情は知らないが、健吾もずっと実家に暮らしていたら、どうなったか分からなかった。

 家族の問題の悲劇的な側面は、逃げ場がないことである。今ならSNSなどあるが、たぶん田舎ではやっている人は少ないのではないだろうか。とにかく、吐き出せる場あるかどうかは重要なことだろう。そういう意味では、当時、妹は比較的恵まれていたと言える。彼氏がいたのだから。妹の彼氏と偶然会ったこと、そのときの彼氏の厳しい眼差しは健吾の記憶に残っていた。それはもちろん、妹の自分への敵意の反映だが、結局、それは解消されてはいないと思われた。

 健吾は一度、そうしたわだかまりの解消を試みたことがあった。当時大学生で、夏休み中だった。そのとき、新潟の専門学校に進学した理美は、好きなアーティストのライブのために東京に来ており、健吾の部屋に一泊することになっていた。

 理美は夜の遅い時間に健吾のアパートに来た。妹と二人で話すのは、何年ぶりかだった。ずっとほとんど他人のようだった。それは健吾自身の問題でもあった。勉強に明け暮れた三年間。駆け抜けたと言えば聞こえがいいが、自分のことだけしか考えていなかった。その中で妹の存在は、とにかく目障りでしかなかった。結局、そこには嫉妬があった。

 化粧している理美を見たのは初めてだった。妹はもはや子どもではなかった。身体も成長し、いつの間にか女になっていた。

 二人は狭い1Kアパートのリビングのローテーブルの角を挟んで座った。健吾は買っておいた缶ビールを出した。

 ビールを飲みながら、ライブのことなど適当な話をしていたが、そのとき健吾はどこか女の子と会話しているような感覚を持った。しかし、妹にそうしたことを気取られまいと、何気ないふりをしていた。

 久しぶりの妹との会話に興じていた健吾だったが、ふと当初の目的を思い出した。それは歓談の最中に持ち出すような話題ではなかった。しかし、妹と会話する機会など今度はいつ訪れるか分からない。健吾は葛藤していた。ビールがなくなると、ウイスキーを持ち出した。

「そんなに飲んで、大丈夫?」と妹。

 実際のところ、今日のためにウイスキーも買っておいたのだった。

「おう。まだまだ宵の口だろ。理美もどうだ?」

「『宵の口』ってもう一〇時過ぎてるよ」

「そうか、でもまだ寝るには早いだろ」

「そうだけど。わたしウイスキーって飲んだことないんだ」

「じゃあ、ぜひ試してみなよ」

 健吾は二つのロックグラスに氷を入れて、ウイスキーを注いだ。

「うまいだろ?」と健吾は一口すすった妹に訊いた。

「強いけど、悪くないかも」

「おっ、違いが分かるね。これはそこそこいいウイスキーだから」

 健吾はウイスキーを二杯ほど飲んだところで、ようやく気が大きくなった。

「そういえば、昔、いろいろと迷惑かけたな」

「えっ、何のこと?」

 二杯目のウイスキーのグラスを両手で挟んでいる妹の目は座っていた。

「高校の頃だよ。あのときは俺もどうかしてた」

「ああ、そのことね。まあ、でも気が狂うくらい頑張らないと難関校は難しいんだよね。私の学年でも難関大学の合格者いなかったし。わたしなんか最初から頑張る気なかったし、ハハハ」

 妹は唐突に笑い出した。

「おい、飲みすぎてないか?」

「まだ大丈夫よ。まあ、何にしても一流大学行った人はすごいよ。わたしの分まで偉くなってね」

 妹はそう言うと、ウイスキー飲み干し、さらにグラスに注ごうとした。健吾はそれを阻止した。妹はゴネたがもうすでに泥酔状態で今にも寝落ちしそうだったので、妹をベッドに移動させた。

 結局、その日、健吾は肝心なことを言えなかった。

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