第9話 「ぼく」がきみを受けとめる話

 すぽーんと高い熱が出たみたいだけれど、ぼくは昔からたまにそういうものすごい高熱を出してしまうことがあったので特に動揺も心配もしていなかった。ああこのタイミングだったんだ、みたいな感じ。最初は自分が発熱したんじゃなくてうたくんへの感情をぐるぐるさせて暴走したんだと思ったけれど、熱を出してみれば今だったのか、くらいの納得感で落ち着いてしまった。もともと数年に一回くらいのペースで高熱を出してしまうことがそれこそ昔からあったし、田舎を離れるときにじいちゃんとばあちゃんに心配されてうるさいくらいに言われたことのひとつだった。慣れない環境で生活をして身体がびっくりしたんだろうね、とばあちゃんからのラインには書いてあった。

 それでも住む場所がなんとか見つかってよかったこともついでにラインには書いてあった。もちろん自分の家を見つけることができれば一番いいけれど、ひとまずは雨風をしのげる場所にありつくことが出来てよかったと書いてあった。じいちゃんもよろこんでいる、という内容でしめくくられている。そんなこの家の持ち主であるうたくんは今日も居酒屋さんに出勤しているから、日付が変わるくらいまでの間はぼくがひとりでこの家を守ることになっている。

 居酒屋さんで働いているという職業柄、うたくんの生活はかなり夜型だ。朝はゆっくり目を覚まして、少しの間布団の中でごろごろとしている。なんとなくわかるけれど、布団の中のなんとも言えない穏やかなぬくもりの感じがとても好きな上に離れがたくて、目を覚ましてから布団を出るまでが時間を必要とするらしい。寝汚いとか寝起きが悪いとかじゃない。ぼくが見える限りでは、うたくんは布団の中でスマホをじっくりいじって過ごしているし、うとうとしながらなにかをしているわけでもない。あの、もったりとしたぬくもりから離れる決心をするのに時間がかかるんだろう。

 ぼくはうたくんがもともと持っていた客用布団を寝床にして生活している。朝起きたら布団を畳んで部屋の隅において、それから布団の中で時間を過ごしているうたくんを起こすのが役割になっている。ただでさえ声を出すのがあんまり得意じゃないから、ゆっくり布団を揺さぶって彼に振動を与えて目を覚まさせる。一度目覚ましのアラームを無視して爆睡しているときにそれをやってあげたら、どうにも彼の生活にマッチしたらしく、ずっとやってほしいと言われたことで、ありがたく目覚まし亮太をやらせていただいている。それくらいしか今のぼくは彼に貢献できないから、これだけは絶対に頑張っている。

 ぼくたちは「付き合う」ことを決心してから数日しか経っていないカップルだ。男性同士のカップル。街を歩くときはどきどき手を繋いだりするし、ぼくがうたくんの部屋に迎え入れてもらって熱を下げてから少しして、一緒にお揃いのマグカップを買いに行ったりもした。誰かを好きになるという経験がほとんどないぼくと、おそらく誰かに恋愛という意味で大事にされたことがなさそうなうたくんで、二人で手探りの恋愛街道を歩んでいる。手をつなぐことひとつするだけでも、大げさに深呼吸したり耳まで真っ赤にしてみたりするうたくんを、ぼくの恋人を見ていると、誰かに奪われてしまわないか不安になる。かわいいんだよ、うたくん。

 八神悠太くん。それが、ぼくのこいびとの名前だ。悠太と書いてうたと読むんだって。うた、という名前はぼくの亮太という名前に比べたら母数は少ないかもしれないけれど、それでもそこまで珍しい名前ではないはずだ。それよりもぼくがびっくりしたのは、悠太という字を書いてうたと読むこと。太という字がぼくたちは一緒だってこと。それから、ぼくの名前の亮太の中にうたというひびきが内包されていること。太が一緒だって話はもう彼にはしたし、それを話したら例のごとく首筋をほんのり赤くさせて喜んでくれた。うたって名前があんまり好きじゃなかったらしいけれど、この名前で良かったと言われてしまったので、ぼくもかなり舞い上がってしまった。

 恋愛ってすごい。初めての恋愛に邁進しているぼくが日々、うたくんの帰りを待ちながらスマホで求人を探しているときに不意に考えることのひとつだ。恋愛って本当にすごいことだと思う。恋愛っていうのは、ぼくたち人間に生きるための力をたくさん与えてくれる。うまく言葉をすらすらと話せないぼくにとって求人探しや面接っていうのは本当にものすごく高いハードルで、それをやるって考えるだけで頭が痛くなったりお腹が痛くなったりしそうなのに、うたくんのことを考えると頑張ろうと思えるのだ。心のエネルギー源とでも言ったらいいのかな。

 求人を探すことも嫌になっていたぼくが、自分から暇つぶしも兼ねて求人を見るようになった。恋人は、うたくんはとっても優しくて、それからちょっとだけ、いやかなりぼくに甘いので、求人なんか探さなくてもいいよって言ってくれる。だけど、ぼくとしてはそれに甘えてばっかりではいけないんじゃないのかなって思うんだ。いつまでもうたくんに迷惑をかけ続けるわけにいかないということもそうだし、うたくんだってぼくと彼自身の二人分を養い続けるのは大変だろう。うたくんが体調を崩したときに彼を支えられるような男になりたいと思うし、もしなにかのときに今度はぼくが彼に手を差し伸べられるようになりたいと思った。

 こういう前向きさって、ただ生きているだけでは手に入らない。両親だとか家族に褒められることで養われるとか言ってるえらそうな教育書が言っていることはだいたいうそで、そんな簡単なものじゃないんだ。両親や家族に褒められたってグレる子どもはたくさんいるし、そういうのをぼくは田舎でたくさん見てきた。みんな世界が狭くてストレスが溜まるのだ。理想を信じていつかを夢見るより、自分で出来ることをしたほうがいい。そういう難しくてふわふわしたものに決着を付けられるという意味で、本当に恋愛はすごいと思う。都会で一人で生きていくことにどこか諦めのようなものを感じていたぼくがこれだけ前向きになったんだ。人間が誰かに及ぼす影響って大きいんだろうな。

 そろそろ日付が変わるので、ぼくの愛しの恋人が帰ってくる時間になる。帰ってきたら一通りの挨拶をしてからそのまま風呂場に直行するのが彼のルーティーンだから、ぼくはそれに合わせてお風呂の準備をしておくのだ。既にお湯は貯めてあったから、そのまま追い焚きスイッチだけ押した。このちょっとしたことでうたくんがほかほかのお風呂に入ることが出来て、少し嬉しそうな顔をしてくれる。これが今のぼくにできることで、うたくんがとてもかわいくなる瞬間のひとつでもある。

 うたくんのかわいいところひとつ。居酒屋さんであんまり働いてくれない店長を持つうたくんは、いつもくたくたになって帰ってくる。ぐったりとまではいかないにしても、わりかしくたくたになって帰ってくるのだ。日付が変わる日もあれば、変わる前に帰って来る日もある。その日のシフト次第なので、ぼくは彼からラインで共有してもらったシフトを見ながらタイミングを見計らってお風呂を沸かすのだ。そうすると彼はほかほかのお風呂に入ることが出来て……ここからがものすごくかわいいところなんだけど。お風呂から出てきてぼくを見つけると、一瞬で慌てて洗面台に引き返す。それからちょっとだけ髪を整えてから、またぼくが待つリビングに戻ってくるのだ。

 他にもある。彼に直接理由を聞いたことはないけれど、おそらくこうなんだろうな、っていうのもある。例えば帰ってきた瞬間のうたくん。言葉を発することが上手じゃないぼくは、その分気配や物音や表情に敏感になっているんだけど、恋人の足音なんかはもう簡単にわかってしまう。アパートのまわりの砂利道をざくざくと歩きながら帰ってくる彼が立てる音を聞くと、いつもぼくは玄関ドアの前に立つことにしている。帰宅して一番最初に目に入るものがぼくであるようにってことだ。そうすると彼はびっくりしたように慌てて自分の部屋番号を確認して、そうして間違っていないことを確かめると、ゆっくりと部屋のなかに入ってきてくれる。わたわたとしているところがかなりかわいい。

 彼の話を聞いていると、おそらく実家でも誰かに出迎えてもらうという経験が少なかったんだろうな、ということはわかる。多忙なご両親に、自分から自分の話をすることがあまり上手ではないうたくん。軽いトーンでいろんなことを話すのは得意だろうし、場を退屈させない雑談スキルなんかはそれこそどこの職場でも重宝されるようなものだと思うけれど。それでも彼は、自分の中身に関する深い話をあんまりしない。ぼくにはしてくれたけれど、それだってそれなりに時間がかかってしまっているし、話もかなり断片的になってしまっている。あんまり自分を開示することが得意じゃないんだろうな、って印象を受ける。

 ぼくはもちろんぼくの特技である話を聞くことや感情を察知することなんかのスキルを使いこなして、彼がふとした瞬間にこぼす情報を拾い集めて想像しているけれど、これは確かになかなか誰かを内側に入れるということが苦手なんだろうなあ、と思うものだった。ゲイだって自分のことを言っていたけれど、それに関してもどうやら彼はいろいろと苦しい思い出があるみたいだ。身長が高いこと、がっちりした体つきであること。どちらも優秀なうたくんらしさだとぼくは思っているけれど、確かに見た目だけでいうかわいさ、みたいなものは演出しにくいんだろうな。かわいい子がゲイの世界でモテるのかどうかは知らないけれど、もしそうだったのなら、うたくんはなかなか思ったような巡り合わせがなかったのかもしれない。想像に難くない。これらの苦しいものがまた、彼の開示を阻んでいるのかもしれない。

 ざくざくといつも通りに土を踏みしめる音が、アパートのドアの外から聞こえてくる。ぼくは彼に、足音だけでうたくんの帰宅するタイミングが分かるよ、なんてことは言ったことがない。びっくりさせちゃうかもしれないからだ。気遣いやさんの彼だから、本当の感情をぼくの前でも隠そうとしてしまうかもしれない。そういうのはぼくが望んでいるものじゃないから黙っている。こういうときにぼくは、心の底から自分のコンプレックスに感謝をする。言葉がうまく出てこない性質で良かった。こっそりきみの感情を理解して寄り添ってあげられてよかった。きみを喜ばせることが、他のひとにはそう簡単にできない方法でできてよかった。これはぼくの長所であり、取り柄だから。ほんとはね、きみのことなら、足取りで感情までわかるよ。すごいでしょ。いつか褒めてね。

「りょーおた!ただいま!ハグして!」

 一瞬だけ土を踏みしめる音が止まったので、なにかあったんだろうなというのをすぐに察した。ドアを開けた彼の声のトーンは、まるで酔っ払いのそれだった。一緒にアルコールを飲んだことがなかったからわからないけれど、うたくんの表情はいつもと変わらなくて、アルコールで顔が赤くなっているようなこともない。息が酒臭いというようなものもなかった。きつめの農作業終わりにじいちゃんがワンカップを煽っていたときだって、もっともっとアルコールの臭いがしていたはずだ。けれど、うたくんからはそれらが一切ない。いつもの洗剤の匂いがふわんと香ってくるくらい。

 言われるがままに玄関から少し身を乗り出して、背中までゆっくりと手を伸ばして、回して、ハグをする。ぎゅうと抱き寄せるようにして、心臓の位置が交互になるように寄り添って、思い切り力を込めて抱き寄せてみる。やさしくてあまくてかわいい、うたくんのにおいだ。ぼくが全てを救われたこの匂い。アルコールの匂いなんかひとつもしない。けれどもふにゃんとしてみせるうたくんを、もう一度ぎゅっと抱き寄せて、部屋の中に引きずり込もうとしてみる。わ、と小さな声が彼の口から漏れて、彼はもぞもぞぱたぱたと両足を動かしてみせた。靴を脱ごうとしているみたいだ。うん、これ、酔ってない。そもそもアルコールを接種したのかもあやしいところだと思う。

 けれど、そんなことに踏み切ったこの子が、うたくんがひたすらに愛おしい。甘えたかったのかなあ。別にぼくは気にしないしかわいいと思うだけだし、かわいいと思う感情が高まると最近ではラインでさっさとテキストメッセージで、かわいい!と彼にその都度送信するようにしているんだけど、それでも彼はどうにもこういうことをするのに抵抗があるみたいだ。甘えたいとき、甘えたいと言うのが難しいみたい。恥ずかしがり屋さんで照れ屋さん。かわいいってラインで送られるだけでそわそわしちゃって、布団に入っちゃうこともある。大きな身長でがっちりした身体の、ぼくの恋人。照れて俯いて布団に入っちゃったこいびとの耳は、真っ赤だから。ぼくはそれを見て、布団の上から抱きしめる。ぼくだけの不器用な甘えんぼうさんだ。

 抱きしめたままの身体をゆっくりしゃがませて、ぼくに寄りかからせる。身長は少しこちらのほうが小さいけれども、力の強さだったら案外変わらないことをこのひとは知らない。ぼくだって田舎で農作業をしっかり頑張っていたからね、そこらの都会っ子には負けないんだよ。ぎゅっと抱きしめてそのまま動くな、という気持ちを込めてから、少し小さくなっている印象を与えてくる彼の背中と頭を飛び越えて、玄関で靴を脱がせてやる。今日もまたシンプルでお洒落なスニーカーを履いていったんだね。すらっと伸びた背丈によく映えていて、ぼくはこの靴を履くきみが好きだよ。そういう気持ちを込めて、もたもたと右往左往してみせる彼の手のひらを捕まえて、ぎゅっと握ってみる。手を重ねるようにして、靴紐をゆっくりと引っ張った。しゅるしゅると音を立てるは、ふたりの共同作業。

「りょーたあ」

「ぎゅーってして」

 唇が少しつんとして上を向いているので、これは照れに耐えている姿だと思う。しゅるりしゅるりとゆっくりと音を立ててほぐれていった四本の靴紐を地面に伸ばして、そのままぼくをじっと見てくるうたくん。しゃがんでいる人間が背中越しに手を伸ばしているぼくを見ているのだから、必然的に上目遣いになってしまう。ぶりっこしてやろうと思っているわけじゃないにしても、これはあまりにもぼくの心にダイレクトアタックだった。それだけじゃない。やっぱり彼は酔っていないようで、耳の縁のほうがほんのりと熱を持ってしまっている。スラックス越しにぼくの向こう脛に触れている彼の耳の温度がそれなりに高い。あーあー、かわいいぞ。どうするんだ、こんなにかわいくて。どっどっどっ、うたくんの鼓動が早い。ぼくのも早いんだろうな。同じくらいかそれ以上にどきどきしているから。

 靴を脱がせ終わったうたくんを抱き上げるようにして、ゆっくりとまた立たせた。もちろんぼくの両腕は彼の胸元から背中までにしっかり回されたまま。照れ屋さんなぼくの恋人は、相変わらずぼくの両手や両腕に触れてくることはない。重ねてきてもいいのになあ、むしろ重ね合わせて欲しいなあ。そのままこのかわいい酔っぱらいちゃんの言うとおりにぎゅうっと抱き込んで、後頭部に手を添えて撫でてやる。さわさわとなめらかな彼の黒髪が音を立てているけれども、この音すらぼくには愛おしいものに思えていること、きみに伝わるかなあ。伝わりますようにと願いをたっぷりと込めて、だらりとさげられたままのうたくんの腕を取って、肩から手のひらの指先までゆっくりと撫でていく。

 床に広げられたラグからテーブルのほうまで、ぼくたちふたりの影がするりと伸びているのがわかる。ふたりの影はほとんどぴったりと重なって、ひとつのおおきな生き物がそこにいるように見えていた。うたくんの身長が高いものであってよかったと、こういうときにぼくは心の底から安堵するのだ。田舎ではのっぽのっぽと言われていたけれど、都会に出てきてみるとそうでもない。自分のなかで長所や利用すべきポイントとして昇華しきれていない特異性を叩きつけられることが嫌いなぼくは、自分より身長が低い人間をあまり得意としていない。だから、ぼくより身長が大きいうたくんで良かった。大きな身長と同じだけ苦しい思いをしてきた愛しいひとにこんなことを思うのは申し訳ないけれど、それでもだ。ぼくとハグをして、抱き合って、ひとつのシルエットになり得る体格のきみが、本当に愛おしいんだ。

 ぎゅうぎゅうと何度も緩急をつけながら抱きしめているうちに、うたくんの呼吸が少しずつ落ち着いてきた。肩にぽてんと預けられた彼の額は、やっぱり少しだけじんわりと温もっている。けれどもアルコールで酔っ払っているひとのそれとはまるで比べ物にならない。照れているんだ。肩口にぐりぐりと押し付けられる恋人の額と、それと同時にぼくの頬をくすぐる彼のすべらかな黒髪。するすると音を立てそうなくらいにまろやかでおだやかで透明感にあふれていて、毛先の一本一本までいとおしい。この先一生この髪の毛を食べて生きていけと言われても、ぼくはノータイムでうなずくだろう。吾妻亮太というぼくの人間を形作るためならば、この髪の毛だけで十分だと思えるくらいにまぶしくて、いとおしくて、魅力的だ。

「う、……た……、っ、く……」

「なッ!な、なあに亮太!」

「s……す……っき……」

 名前を呼んで気持ちを伝える。もう少しぼくが上手におしゃべりをすることが出来たのなら、ぼくはもっともっときみにたくさんの愛を示すための言葉を紡いでいただろうね。それができなくて残念だ。どこかの詩人を気取ったようなことを考えながら、するりゆるりと彼の首元を撫でてやった。ぼくがどれくらいうたくんのことを好きだと思っているか、どれくらいきみのことを大事なものだと思っているか、きみがぼくの人生においてどれほど大きな存在であるかを、伝えられたら。そういう気持ちを込めて、ゆるうりと首元を撫でてやる。田舎にいたのらねこの首元を撫でてやるような手付きで、ゆっくりと。けれどものらねこにするときよりも百倍、一千倍、いやもう数えられないくらいに愛情を込めて撫でてやった。

 地球上の愛情をたくさん集めてあつめて、全部をきみの腕に収まるくらいに小さな容器に詰め込んで、そうしてきみに持たせてもまだ足りないくらいの大きな気持ちをもって、きみを愛しているよ。そういう気持ちをこめて、今度はゆっくりと背中を撫でた。大きくて筋肉も人並みかあるいはそれ以上にしっかりとついている、大事なものを自分で守るだけの力はあるのだと主張するようなそれを、しっかりと愛でるように撫でた。ぼくはきみを愛しているし、世界で一番大事だと思っているよ。じいちゃんとばあちゃんとうたくんがそれぞれ沈没船に乗っていて、誰か一人だけを助けることができると言われたら、ぼくはまっさきにきみのところに泳いでいこう。だから絶対にぼくの手を離さないで。うたくん。だいすきだよ。世界で一番なんて小さなスケールで収まらないくらい愛しているよ。

 酔っ払いだという設定を忘れてしまったんだろうか。アルコールでめちゃくちゃに理性を見失ったという人間にしては激しく、がばりと俊敏にぼくの肩口から上げられた彼の顔は、そりゃあもう真っ赤だった。手を繋いでぼくとこの家までやってきたときの彼なんて、比べものにならないくらいの赤面っぷりだ。アルコールが入ったらきみはそこまで赤くなるのかなあ。アルコールとぼく、どっちがきみを赤くすることが出来るかを比べてもいいね。ぼくのスキンシップはどうやら、言葉のそれよりも雄弁みたいだから。真っ赤になってどこか目をうるませている恋人のことを見つめながら考えてみる。照れていた唇の先は、照れを耐えるために噛み締められたらしく、ぽってりと赤くなってしまっていた。痛そうだなあ。あとでリップクリームを塗ってあげよう。

 持ち上げられた顔を逃さないというように、しっかりとぼくの両手で両頬を捕まえてやった。抱きしめていた腕による拘束、あるいは密着はなくなってしまったけれど、そんなものなくてももう大丈夫なはず。うたくんは無意識なのかぼくにしなだれかかってくれていたし、ぼくには農作業で鍛えまくった体幹がある。くわを振るうのは結構全身の筋肉を使うんだ。なにも遮ることなく触れ合う身体と身体を密着させながら、ぼくの両手はうたくんの両頬にご執心。ちらりと視界をよぎった床に伸びるシルエットは、まるでぼくたちが最初からひとつの生きものだったみたいにぴったりとひとつになっていた。布と布が呼吸に合わせて、鼓動に合わせてざわざわそわそわと雑音を奏でる。その音ですら、触れ合っているぼくたちの緊張や昂揚を煽るような手助けをしているように錯覚してしまうのは、ぼくの経験が無いからだろうか。

 いいや、それならばうたくんだって一緒のはずだ。するすると繰り返し左右の頬を撫でて、両手で愛情を伝えるように手のひらを上下に動かしていく。およそ本来人間が過ごすタイムテーブルとして望ましいものであるとは言い切れないその生活リズムを考えてもなお、うたくんの頬はスムーズでなめらかだった。シミひとつ無い、なんて女優さんを見るたびにばあちゃんがこぼしていた表現をこんなところで拝借するとは思わなかった。けれど、とにかくそれくらい美しいのだ。ぼくのこいびと。あんまり今までは恋愛に恵まれなくて、思ったような恋愛を出来なかったうたくん。身体の経験は一度だけあるけれど、それ以外はあまり恋愛の経験がなかったうたくん。心の奥から望んでいたのに、その相手が彼の前に現れなかったうたくん。ずっとひとりでさみしいさみしいと泣いて、それでも誰にもその寂しがりの部分を見つけてもらえなかったぼくのだいじなひと。

 そんな彼がぼくより経験が豊富だなんて話があるだろうか。ぼくがしつこいまでに撫でる手付きにうっとりしたように、すっかり身体の芯を見失って寄りかかってくれている恋人。シルエットがひとつになっていることなんか、もう確認するまでもない。一番大事で繊細で柔らかい、ずっとずっとさみしさから泣き叫んでいたようなところまで開示してくれるこの恋人を、愛さない理由なんかひとつもない。愛しているよ、だいすきだよ、宇宙へ飛び出していって愛情を示すことばを全て集めてきてもなお、きみへの愛情を語り尽くすフレーズには足りないくらい好きだよ。大きすぎる感情を抱えていることを自覚しながら、少しでも愛が伝わりますようにと、彼が少しでも自分を愛して生きていくことができますようにと、気持ちをこめて頬を撫で続ける。するり、するり、すとん。ワンパターンとも言えるような動作を繰り返しながら撫でて、撫で続けて、愛を捧げる。好きだよ、好きだようたくん。

 酔っ払いの真似なんかしなくても、ひとことハグしてといってくれたらいくらでもするのに。それも恥ずかしかったんだろうか。恥ずかしがり屋さんで照れ屋さんなうたくん。ちょっとかわいいと伝えてしまうと、ぼくが伝えたい気持ちを受け止めてくれたのち、どうにもならない照れが沸き起こってきてしまって、そのまま慌てたように赤くなりながら布団に潜るしかなくなってしまうこいびと。かわいいかわいい、ぼくのいとしご。かわいいなんて言われたら、それこそぼくはきみの恋人なんだから、堂々と「ありがとう」でいいと思う。その返事だけでもぼくはうれしいし、もっともっとかわいいを伝えようと思うんだけれど。きみはまっすぐで美しくてやさしいから、全部を受け止めてくれるんだね。全部をまるっと受け止めて、そのまま愛情を噛み締めようとしてしまう。ぼくからの大きな感情をきちんと受け止めて、ありがとう、だけでは足りないと思ってしまうんだね。だから布団に入って、ごまかしちゃうんだ。世界で一番かわいい恋人。

 だけどね、うたくん。ぼくは知ってしまっているんだ。きみが布団に潜り込んで恥ずかしさと照れみたいなものをどうにかしようとして、頑張ってくれているにぼくも布団に入っているよね。そうするとゆっくり布団から這い出てくれて、そのままぼくの耳元で小さな声で、ありがとう、と言ってくれるところ。そういう、かわいいだけじゃなくて健気でいじらしいところ。きみのことを身長が大きいから受け身なんて有り得ないと笑ったゲイのひとが気付かなくてよかったと、真剣にぼくは思っている。きみは誰よりもまっすぐでかわいくて、誰よりも愛おしい生きものだから。誰かになにかをしてあげる瞬間よりも、誰かになにかをしてもらってどうしようもなく照れている瞬間のほうがかわいいよ。

 いっぱい傷ついてしまったかもしれないけれど、ぼくはきみに出会えたから。ぼくはうたくんからたくさん素敵なものをもらって生きているから。だから今度はきみにぼくがたくさん愛情を伝えていくよ。だってあんなにきらいだった求人広告を眺めることが、きみという存在があることでぼくにも出来ている。これって本当にすごいことなんだ。どうせダメでもいいから探してみようと思えるようになったってこと、きみに伝えたいよ、うたくん。だけど今伝えたらきっと恥ずかしさが限界を超えて、溶けてしまうかもしれないからね。ゆっくりゆっくり、時間をかけて伝えていくよ。どうせぼくの言葉はゆっくりだから、それに合わせてきみもゆっくりしてほしい。

 だけどいつかお酒を飲むことがあったのなら、その場にぼくも呼んで欲しい。ここまで乱れるとは思っていないし、居酒屋さんで働いていてもなんともないのだから、アルコールに対する耐性みたいなものはそれなりにあるんだろうし、いろんな羽目を外す酔っぱらいを見て来ているだろうから、飲み方もきっとわかっているんだと思うよ。信頼もしている。だけどこれは、吾妻亮太という心の小さな人間が抱く嫉妬心のようなものの現れだと思って聞いて欲しい。あるいは、独占欲でもいいかもしれないね。お酒の席は、絶対ぼくと一緒にいて。誰かにこんな姿見せちゃダメだよ。ねえ、うたくん。約束、と訴えながらまた一度、頬を撫で回した。

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