第二章 二仙山紫虚観(七)
「昨日の夕方、
「ああ、昨日同じことで玉林ちゃんともケンカしてたな。それが腹に据えかねたのか」
「だって小融、いままで見たこともないくらいうれしそうな顔してたんだよ。おいら6年間一緒にいるけど、いちどもあいつのあんな笑顔見たことがなかったから、なんかすっげぇ悔しくて」
(ははぁ、なるほどこの子)
「そうか。
燕青はずばっと切り込んだ。張嶺は顔を真っ赤にして
「ち、ちがうよ、そんなんじゃ……」
「じゃぁ、嫌いか? 」
「んなわけ……ないじゃん」と下を向く。
(つまり、嫉妬でもあり、しばらく会えなくなる寂しさもあり、からの睨みだったわけだ)
そりゃあ、好きな女の子が、今日会ったばかりの、どこの馬の骨ともわからぬ男とふたりきりで遠くまで旅に出る、しかもそれをすごく楽しみにしている、みたいなことを言われれば、心配もするだろうし腹も立つだろう。
自分の全くあずかり知らぬところで、あちこちに
「おっと、長話して悪かったな。修行を続けてくれ」
立ち去ろうとする燕青の袖を素早く捕まえた張嶺は、燕青の前に回り込んでひざまづいた。
「待ってくれ燕青さん、おいらの頼みを聞いてくれ」
(ありゃ、余計なことを教えちまったかな? )
「頼むよ燕青さん、おいらに拳法を教えてくれよ! 」
「まぁ立てよ、それじゃ話ができない。ええと、そもそもなんで拳法なんて練習してたんだ? 君は道士になるんだろ?」」
「うん……おいら、たぶん道士には向いていないんだよ」
「どうして?」
「おいら、バカだからいろんな術式や
「そうか、うん、わかる。俺も昨日魔物が全然見えなくて焦ったからなぁ」
「だからおいら、先輩たちからお前は道士に向いてない、ってバカにされるんだよ。でも小融はいちどもおいらをバカにしなかった。それどころか、
「ああ、それで
「あうっ」
真っ赤になって下を向く張嶺。
「聞いた話だと、あの子は『見える』から逆に辛いめにあったらしいな。まだ13歳だろ? そう決めつけるのは早いんじゃないのか? 」
「でも、やってもやってもすぐ忘れちゃうんだよ。おいら一生懸命やってるんだけど」
「だからって、道士を諦める必要はないと思うぞ。初歩的なことはできるんだろ? 」
「うん、『気を
「へぇ……そりゃすごい。仙術と武術ではやり方が違うかも知れないが、『気を錬る』ってのは、俺たちだって一生かかっても極めるのは難しいものだ。ちょっとでも『できる』ならたいしたもんだ」
「そ、そうかな? 」
「うーん、例えばさっきまでやっていた『
「え? いや別に・・・・・・あと線香3分の1だなぁ、とか」
「それじゃあだめだ。地に『立つ』んじゃなくて、脚で地を『押す』んだよ。『踏む』と言ってもいい。馬歩の間ずっと」
「よくわかんねぇよ、押す? 」
「うん、そうしたら地面も押し返してくるんだ。その戻ってくる力を感じられるようになってからが、本当の『
「うー、よくわかんないけど、やってみるよ」
「悪いが俺は弟子を取るとかそんな段階じゃないし、しばらく旅に出るし。そもそも、
「でも」
「まぁ騙されたと思って、さっき言ったことを意識してしばらく続けてみな」
「わかったよ、やってみる。でも、戻ってきたらまた『ちょっと』でいいから教えておくれよ」
「ああ、『武林是一家』とか『五湖四海皆兄弟』って言葉がある。武術を志す者はみんな仲間だ、って意味さ」
「絶対だよ! 」
「ああ、じゃぁ頑張れよ。立つ、じゃなく押す、んだぞ」
「はい! 」真面目な顔で再び「馬歩站椿」を再開した張嶺に手を振ってから、燕青は食堂に向かった。
当番らしき中年の男道士が座席を指し示し、盆に乗せた粥と漬物を持ってきてくれた。若い燕青には全く物足りない朝食であるが、少々酔いの残っている体には、じんわりと浸みこむ
出された茶を啜っていると、目の前を
その後ろ姿を苦笑しながら見送ると、入れ替わるように四娘と
目ざとく燕青を見つけた四娘が、手を振りながら走り寄ってきて、小声で
「燕青さん、食事が終わったのなら二仙山を散歩しない?」
と話しかけてきた。燕青としてもいろいろ聞きたいこともあったので、席を立って3人の後をついていくことにした。
初秋の赤く色づき始めた木々の中を、少女たちと院内をあちらこちら見て回る。広い院内は、隅々まで手入れが行き届いて、清浄に掃き清められていた。
三清院の他にも様々な道教の神や、亡くなった道士たちを祭る
畑には様々な野菜が植えられていた。いずれ道士たちの食卓にのぼるのであろう。数人の使用人らしき男たちがしきりに鍬を振るっている。牧歌的でまことに心が落ち着く風景である。
川のそばに
四娘がニヤニヤしながら
「ねぇ、燕青さん。昨日の夜は大変だったわねぇ」
「え、知ってるのか? 」
「ふふっ、ぶっ倒れた燕青さんを、誰が運んだと思ってるの? 」
玉林も笑いをこらえきれない顔で聞いてくる。
(まいったなぁ、この娘らに、えらいところ見られちまったらしい)
「そうか、そりゃぁすまなかったな、お恥ずかしいかぎりだ」
「あはは、うそよ。姉弟子があわてて
(……全く女ってやつぁ、子供のうちから女なんだなぁ。大人をからかいやがって)
と心中で苦笑い。
「そうか、じゃぁ君らにお粗末なモノを見られてはいないんだな、不幸中の幸いだ」
「くふふっ、でも姉弟子はばっちり見たみたいね。そのあとふたりともずーっと赤い顔してたし」
「そりゃぁ、ますます申し訳ない話だ」
「いいんじゃない、ふたりともずっと浮き浮きしてる感じだし」
「だよね、今朝とか翠円
「ふぅん、翠円さんは厳しいのかい?」
「うん、翡円は怒ってるところって見たことないなぁ」
「翠円師姉が叱る専門、って感じだよね」
「やっぱりそのおふたりも、小融みたいに剣を使うのかい?」
四娘、玉林、紅苑は顔を見合わせてから、燕青に背を向けて何やらひそひそ声で話している。相談がまとまったらしく、3人うなづいてから向き直った。
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