水滸拾遺伝～飛燕の脚 青龍の眼～

第一章 薊州顕星観～二仙山（四）

　小乙（しょういつ）も四娘（しじょう）に遅れて廟の中に足を踏み入れた。正面の石造りの床に大きな血溜まりがあり、むっとするような鉄臭い匂いと、全体に酸っぱいようなかび臭いような空気が澱んでいて、あたかも瘴気（しょうき）が充満しているかのようである。小乙が思わず袖で鼻と口を覆い、息を止めたほどだ。

「どうやらあれは『猲狙（かっしょ）』のようね。けっこう大きい。こっちの様子をうかがってる」

猲狙（かっしょ）……古代中国の地理書「山海経（せんがいきょう）」に曰く、「獣あり。その状は狼のごとく、赤き首、鼠の目、その音は豚のごとし。名づけて猲狙（かっしょ）という。これ人を食う」という魔物（まもの）である。

　暗がりに眼が慣れてきたところで、小乙にも何となく気配、というか「濁った気の塊」らしきものが感じられた。

「あそことあそこになんとなく。あとあの柱の横辺りに何か嫌な感じの塊があるように思うんだが？ 」と指さすと、四娘はちょっと驚いた様子で小乙を見た。

「へぇ……それだけ感じとれるんなら大したもんだわ。さっきの拳法といい、小乙（おにい）さん何者？ 」

「お褒（ほ）めにあずかり光栄だね。それにしても凄い瘴気だな」

「ちょっと待ってて」　

　四娘は双剣を体の前で交差させ、小さく咒文をつぶやきはじめた。

「彖曰、大哉乾元、萬物資始。乃統天。雲行雨施、品物流形。大明終始……鋭（えう）っ！」

　気合い一閃、双剣を大きく両側に振るった。するとみるみるうちに、澱んでいた廟内の空気が突風で吹き飛ばされたように清浄なものに変わっていった。これなら深呼吸すらできそうである。小乙は大きく息を吸った。そして見たのだ。

　床にふたつ、正面の祭壇にひとつ、黒い雲のような塊がはっきりと。先程小乙が何となく感じていた「気の濁り」が、明確に可視化されたのである。そして床にいた黒雲が二つ、四娘の方へ向かって滑るように近づいてくる。

　四娘は黒雲に双剣の切っ先を向け、「水雷顕現（すいらいけんげん）、水剋火（すいこくか）、発（はっ）！ 」と唱えた。と、呼応するように剣から黒い帯のようなものが稲妻のように飛び出し、そのまま黒雲に吸い込まれていく。

　すると黒雲は、文字通り雲散霧消し、中から狼のような姿の、二匹の魔物が出現した。これが猲狙であろう。

　猲狙は狼、犬の系統で、五行で言うと「火」の属性になる。

　陰陽五行の仙術において、「水（すい）は火（か）を消し、火（か）は金（ごん）を溶かし、金（ごん）は木（もく）を切り裂き、木（もく）は土（ど）に根を張り、土（ど）は水（すい）を吸い込む」。

　この互いに力を弱める属性の関係を「五行相克（ごぎょうそうこく）」といい、羅真人一門の仙術では体内で錬った各属性を体外に放出する術を「雷（らい）」と呼んでいる。

四娘は双剣を媒介にして水（すい）の属性の「雷（らい）」を、「火（か）」の属性の猲狙に放ったのである。

　たまらず猲狙が姿を現したのを見て、四娘は双剣を左手にまとめて持ち替え、右手で長羽織の内側から飛刀（ひとう）を2本抜き出し、水（すい）の属性を付け加えた。

「水雷付与（すいらいふよ）、剋（こく）！ 」

　現れた2匹の猲狙に向けて次々腕を振った。飛刀は凄まじい早さで猲狙の額に突き刺さったかと思うと、けたたましい「プギャー！」という豚のような鳴き声が聞こえた。

　猲狙はだらだらよだれを垂らし、禍々しい牙の生えた口を開け、豚のようにフゴフゴ声をあげながら苦しげにのたうち回り、やがて動きを止めた。飛刀のささった魔物の姿はボロボロ崩れだし、灰の山のようになり、そして散っていった。

　小乙が唖然として見つめていると、四娘が「もう1匹！ 」双剣を両手に持ち替え、祭壇の上の、牛ほどもあるひときわ大きな黒雲に剣先を向けた。

「来るっ！ 」

　黒雲が急に祭壇から浮き上がり、ぐるぐる渦を巻きながら細く尖り始め、その形のまま弾かれたように飛びかかってきた。小乙は横に跳んで避けたが、四娘少しも動かず、柄の黒い木剣を右手に持ち、黒い渦に向け顔の前に真っ直ぐ立てて受け止める。「ガチン！」と木剣であるのにもかかわらず、金属音がした。四娘は柳眉を逆立てて叫ぶ。

「『東王父（とうおうふ）』発能（はつのう）、水剋火（すいこくか）！」

　途端に木剣の刀身の色が「水（すい）」の属性を帯びて黒く変わり始めた。徐々に黒雲は消え、猲狙の姿が現れてきたのだが、先ほどの2匹と比べると段違いに大きく、牛ほどもある。どうやら3匹の中の親玉だったらしい。

　最初は互角に見えたが、さすがに四娘の体の大きさでは、牛のような猲狙の圧力に徐々に押されてきている。これはいかんと、小乙が落ちていた袁兄弟の棍棒を拾い、横から殴りかかろうとした。が、なぜかそれを見た四娘が大声で「ダメえっ！」とと制止する。

「これくらいあたしひとりで大丈夫だから手出ししないで！」

　と叫び、さらに「『西王母（せいおうぼ）』発能（はつのう）、金生水（きんしょうすい）！ 」と叫び、柄の白い木剣を柄の黒い木剣の後ろにあてがった。

　2本の剣が交差したかと思うと、ふたつの刀身が、内側から光りはじめ、やがてまばゆいほどに白く輝きだしたのである。

「木は擦れて火を生み、火は物を焼いて土を生み、土は中から金属を生み、金は表面に水滴を生み、水を与えれば木を生む」。この互いに力を与える属性の関係を「五行相生（ごぎょうそうしょう）」という。東王父の「水」の属性を、「西王母」の「金」の属性がさらに強めたのだ。

　猲狙は唸り声をあげながら、涎をだらだら垂らし、四娘が構えた木剣にがっしりと齧（かじ）りついている。垂れた涎が石造りの床にぽたぽたと落ち、しゅうしゅうと音を立てて白煙が上がる。どうやら強力な酸のようだ。床がどんどん溶けている。

　だが光る木剣は何の影響も受けていない。数秒間膠着状態が続いたが、木剣の光はますます激しくなり、やがて「ぞぶりっ」と音を立てて、噛み付いている猲狙の口を切り裂き始めたのだ。

「雄（お）ぉぉぉおお！ 」

　四娘は双剣を握ったまま猲狙の横を駆け抜けた。しっぽのところまで駆け抜け、振り返ると猲狙は真っぷたつに切断されて、どさりと床の上に倒れこんだ。

　崩れていく猲狙を見ながら、四娘は鞘を腰に回し、双剣を収めてまた背中に背負い直した。すっかり見とれていた小乙は、鍔（つば）鳴りの音ではっとわれにかえり、小融に話しかけた。

「生まれて初めて魔物を倒すところを見たが、すさまじいものだな。大したもんだ」

　四娘は緊張が解けたと見えて、ふっと肩を落とし、前髪を左目の前に下ろしてから、照れくさそうに笑った。

「えへへ、実は1人で祓うのは初めてなんだ。いつもは師父（しふ）や師兄（しけい）が付いて、二人以上でやってたんだけどね」

「しかしこんなこんな小さい子にたったひとりでやらせるなんて、お師匠さん度胸があるというか無責任というか……」

「違うの、わたしがひとりでやらせてほしいって頼んだの！ もう十三歳になったし、独り立ちさせてほしいって！」

　ははぁ、それでさっき「ひとりで大丈夫だから手出ししないで。」と言ってたんだ、と小乙は独りごちた。四娘は続けて

「ひとりで祓えたら、師父に一人前と認めてもらえるんだよ」と、ご満悦である。

（うーむ、さっきの技は凄かったし、飛礫（ひれき）や飛刀（ひとう）もかなりのものだが、魔物よりも人間相手の方が心配だなぁ。世間知らずだし）

「独り立ちするのは、もうちょっと世間を知ってからでいいんじゃないのか？ 」

　とたんに四娘膨れて

「なによ！ 見たでしょわたしの実力！ もう十三歳だし、ひとりでやっていけるわよ！ 」

　と右目だけで睨む。

(まぁ確かに余計なお節介だけどな)と思いつつ、

「だけど実際、さっきは危なかったじゃないか。あの袁大朗（えんだいろう）って奴、一応勝ったけどありゃあかなりの功夫（カンフー）（修行で身につけた力）だったし。ほっといたら今頃売りとばされてたかも知れないぞ？ 」

それを聞いて四娘、急に落ち着きを失って

「あ、あの、お願いがあるんだけどさ、あたしが危なかったの、師父（しふ）には黙っててくれない？」

（いや別にお前の師匠に会うはずもないし、そもそも俺はもう行くつもりだし）

「危なかったなんて知られたら、もう二度とひとり旅に出してもらえなくなっちゃう。ね、この通り」

　両手を合わせ、必死に頼み込む姿に、小乙は微笑ましいものを感じたが、まさにその時、門の方から囃（はや）し立てるような、薄笑いの声が聞こえてきたのだ。

「いったい何をお願いしてるのかなぁ～？ ん～？ 小融（しょうゆう）ぅ～？ 」

振り返った四娘は、「げっ！」と仰け反った。

「し、師父（しふ）！ な、な、なんでここにぃ！ 」