第9話 混乱

 根田は狐につままれたような気分から抜け出せないでいた。

十時半過ぎまでは覚えていた。が、その後の記憶が無かった。

それなのに冷凍車に積んでいた水槽が無くなっていて、佐知が氷漬けで殺されていた……。

間違いなく犯行は自分にしかできないはずだ。

それに変装道具が無くなっていたし……。

訳も分からず冷凍車を運転して釧路と帯広の書店を巡ってから車を返し夕方の特急で札幌へ向かった。

警察へは適当に言ったのだが、どこかで突っ込まれないか不安を拭えない。

アパートに戻っても何故か焦っている自分に気付いた。

「落ち着け!」根田は洗面所の鏡の中の自分に言った。

「誰かが、殺ったんだから犯人はいる……誰だ? チャンスがあったのは……沙希は寝ていたし、湖立か?」

根田は鏡の中の自分にそう続けた。

《いや、佐知の部屋のカードは俺が持ってたんだ、奴にはドアは開けられない》

鏡の中の自分に否定された。

「俺が持っているカードを使えるのは、俺か沙希しかいないぞ!」根田が言う。

《じゃ沙希が犯人だ》と鏡の中の自分。

「それはない。薬で眠ってたんだ。佐知を部屋に寝かせたあとも沙希は寝ていた」

《佐知は寝たふりをしてたんだ。おまえは佐知に薬を飲ませた訳じゃないんだろう?》

「いやいや、バーで飲ませようとしたが失敗して、部屋へ行ってから錠剤を佐知の口に放り込んで飲ませたんだ。だから佐知は抜け出せない」と、根田。

《そうなのか? いや、だが待てよ……薬を飲んだってことは起きてたんじゃないか? そして飲んだ振りをしたんだよ。だから、佐知は外出できたんだよ》

「そうか、なるほどな。だとすると、可能性は、湖立か赤井川先生か山笠の三人じゃないか?」

《いや、山笠は赤井川の助手でいつあの気まぐれな先生に呼び出しをくらうかもしれないだろう。だからホテルを抜け出してというのは無理だろう》

「そうだな、湖立か先生が犯人か?」

《そうだ、そのどちらかだ》

根田の中で結論が出た。これでゆっくり眠れると思いベッドに入って目を閉じた。

 

 

 

 沙希の命を受けていた山笠は浅草の書店の見える位置に陣取り心美の帰りを待っていた。

午後六時少し前になって店の裏口から数人の女性が出てきた。

「お疲れさまでした」明るい声で心美が言ってひとり歩き出す。

浅草駅近くのスーパーで買い物をしぱんぱんに膨らんだ買い物袋をぶら下げて、銀座線から山手線へ乗り換えて大塚駅まで行って徒歩で北方向へ。

七分程歩いてアパートの階段を上がる。心美の家じゃない。

部屋に入るのを待ってその部屋の前まで行くと表札に「若井」とある。

中からは楽しそうに談笑する声が響いてくる。

……

十時過ぎになって心美が部屋から出てきた。そして真っすぐ自宅へ戻ったので、山笠も赤井川宅へ向かった。

「仕事帰りに若井という表札の有る北大塚のアパートに寄って先程自宅に戻りました」山笠は沙希にそう報告した。

「じゃ明日はその若井を尾行して何をしている人か調べてくれる?」

「わかりました。……先生はもう寝たんでしょうか?」

「書斎だと思うわ。夕飯の時だけ出てきたけど、あとずっと閉じこもってるのよねぇ二、三日前から急にそんな風になっちゃったのよ。あなた何か聞いてないの?」

「いえ、何も」

「そう、あなたには私のために色々動いてもらって申し訳ないわね。今、何か欲しいもの無い?」

突然聞かれて答えに困る。

「いえ、特にありません」

山笠はそう答えたのだが、沙希が山笠の身なりを上から下まで眺めて

「そうねぇ、靴がダメね。相当歩いてるでしょう。擦れてるし踵が大分減ってる。それに尾行するにはその服目立つわ」

沙希はバッグから財布を出して「これで自分の好みで買って」

「いえ、そんな給料はきちんともらってますから……」

……

押し問答の結果は、当然山笠が負けて「すみません。では、明日一式揃えさせていただきます」

「えぇそのくらいされて当たり前なのよ。それだけの事してるんだから」

沙希は微笑んで「じゃ私、寝るから。おやすみ」

そう言って寝室へ行った。

 

 山笠は書斎のドアをノックしてみた。

「先生、山笠です。いらっしゃいますか?」

「あぁ」中から微かに先生の声がした。

「失礼します」ドアを開ける。

赤井川先生は机に向ってはいるがパソコンは閉じたままで天井を見詰めている。

「先生、具合でも悪いんですか?」

「あーいや、身体は至って元気だ。だが、ちょっと参ったことがあった」

「なんでしょう?」

「いや、ちょっと人には言えないんだ。でも大丈夫だ。それも小説のネタだから。今は特に頼むことも無いから寝てくれ」

そう言われては助手に返す言葉もない。

「はい、では、おやすみなさい」

 

 翌日、八時前から山笠は「若井」という男のアパートに来ていた。ドアまで行ってみるとテレビの音声が聞こえてきた。

……

 とうとう午前中は出てこなかった。山笠は近くのコンビニで用を足しパンと飲み物を幾つか買って戻る。

部屋の中から相変わらずテレビの音声が聞こえている。

夕方の五時、若井が出てきた。

行先はコンビニでビールと何かつまみか弁当のようなものを買っただけで家に戻った。

結局、平日なのに仕事へ行く気配がなかった。

 

 それから二日間仕事へ行くことは無かったが、たまたま来た郵便屋がポストに何かを差し込んでいたので、見に行った。そこには「若井碧人」と書かれていた。「あおと」は「碧人」と書くんだ。写真を撮っておく。

三日目は沙希から貰った金でトップスからボトム、シューズまで揃えたがまだ十万も余っていた。

「若井は仕事をしていないようです」

山笠は沙希にそう報告し「あおと」の漢字を見せ、服のお礼を言う。

 

 翌日は、若井の出身などを調べようと思った。

切口は郵便受けの封書だった。台東区の高校からのものだった。

その高校で自分と同年代の卒業名簿を見せて貰った。

しかし、該当者名はなかったので、さらに遡って調べを続けた。

その名前を見つけたのは山笠より八歳も年上の名簿だった。

スポーツマンだったようだが、「私の主張」という高校生の作文コンクールで入賞した時の賞状を持っている写真があった。

部活は弓道部に入っていたようだ。部長だったのか集合写真の真ん中で賞状を持っている。

よく見ると「優勝」と書かれていた。

卒業アルバムには名簿が添えられていたので写真に撮って、電話を入れてどういう生徒だったのか訊いてみた。

「あいつは頭が良くてクラスではトップ、学年でも五本指には何時も入っていたよ。卒業して何年かしてたまたま浅草であって話したら、小説書いてるって言ってた。コンテストで賞も取ったらしいよ。アーチェリーだかボウガンだかやっててそれも賞を取ったことがあるらしい。もっとも話だからどこまで本当だか分からないけどね、へへへ」元同級生はそんな話を聞かせてくれた。

何でもやればできるが努力はしないタイプだ。そして小説家になる夢をいつまでも追いかけているようだ。

アパートで張っていた時に窓越しに見えたのは、アーチェリーかボウガンの弓の部分だったんだと気付いた。

 

 

 その女が桃川心美と知った桂は、赤井川先生と別れさせようと思った。そもそも心美が好きでもないのに赤井川先生が強引に関係を持ったんだから心美は喜ぶだろう。

助手の山笠に話をして奪い取ろうと考えた。

 桂の話を聞いた山笠は「心美って浅草の書店で働いてるから、例えば、先生との関係を奥さんに話したら、怒ってあんたが働く店には赤井川の本を置かせないと言うかもしれないぜ、とか脅していう事を聞かせたらどうだろうね?」

「従業員なら別に本置かなくても関係ないんじゃないの?」

「いや、経営者がその理由を知ったら、首にすんじゃないか?」

桂はその気になってきた。「そして心美との行為を動画にとってショップに売ったら金になるかもな」

「桂さん、俺はその辺は分からないが、ちょっと折り返すから」

山笠はそう言って電話を切ってしまった。

桂は動画の販売先をネットで探してみたがそう上手くは見つからない。

そうしているうちに携帯が着信を知らせる。

「山笠です。すみません、お待たせしました。あのー若井碧人という男が大塚駅の近くに住んでいて、そいつはそう言った動画の闇取引をしているようなんです。そこへ持ち込んだらきっと高く買ってくれますよ」

桂は驚いた作家の助手がどうしてそんな事を知ってるんだろう?

「そうですか、住所とか分かります?」

「今、送りましたから確認してみて下さい」

そう言われて桂は決心した。

 

 

 山笠は沙希の言う通りに桂に伝えた。だが、どういう意味が有るのか分からなかった。

そして桂に話をした結果も報告すると、沙希はにやついて

「あんたはしばらくの間心美に張り付いて、桂が何をするのか監視して欲しいの。心美に危険が迫ったら助けてあげてね」

「はい、では、夕方から夜寝るまでの間監視します」

山笠には桂の気持も分からなかった。

佐久間春奈という恋人がいながら佐知に手を出し、亡くなったと思ったらすぐに別の女に触手を伸ばし無理に動画を撮って金にしようとする。という事は別に心美が好きだという訳でもなさそうだ。

沙希の考えも理解できなかった。

心美の恋人に桂と心美の絡みの動画を持ち込ませたらトラブルになるのは目に見えている。

心美と若井を別れさそうとするなら、まだ山笠に誘惑しなと命じてくれた方が年も近いし良いんじゃないか?

まぁ取り敢えずは、桂と心美がホテルへでも行く関係になるのかどうか見ていよう……。

 

 

 佐知が死んだあとの赤井川創語先生の担当者が空席のままになっているのに……。

佐久間春奈はそれが気になっちゃって……。湖立課長がどう考えているのかわからないけど、誰でも赤井川先生の担当者になれば成績は良くなるのは間違いないところなのにさ……。

ほかの営業や販売促進の連中も口には出さないが陰で色々暗躍していると噂が聞こえてくるし、のんびりは出来ないわ。でもねぇ、湖立課長に身を任せるのは嫌だし……。

「佐久間くん」

思ってたところへ湖立課長から声がかかって、勇んで行くと「この原稿印刷へ回して」

「はい、……それだけですか?」ちょっとは期待したのにがっかりよねぇ。

湖立課長は不思議そうな顔をして「あと何かあったか?」

「あのー赤井川先生の担当はどうなるんでしょうか?」春奈は素直にぶつける。

「おーそうだな。空席って訳には行かないからな。取り敢えずは桂に週一位で顔出しとけとは言ったんだが」

「えーそうなんですか? でも、彼、先生からも奥さんからも嫌われてるじゃないですか。そんなことしてたら他社に取られますよ」

のんびりした湖立課長の話しにちょっとイラっとして強い口調で言ったのよ。

「ははは、そうか春奈はやりたいか?」

分かってるくせにのらりくらりとして女から言わせて、女の身体を仕事を与える条件にするのよねぇ。いやらしいんだけど、みんな分かっててやられちゃうのよ。悔しいけど湖立課長の手練手管に負けちゃう。

見てて春奈もきっとやられちゃうから……。

「課長、それはここに居る全員が思っていることです。早く決めてください」何かはっきりしない課長に些か腹が立つのよねぇ。

「そうか、ちょっと夕飯でも食いながら話ししようじゃないか」

来た、来た、来た! 春奈は湖立の目にいやらしさを感じた。が、行けば仕事は取れるしなぁ……。

「夕食をごちそうして頂けるのであれば、お供しますよ」春奈は意識して軽く笑って見せる。

そのやりとりに周りの社員は注目しているのは言うまでもない。視線を痛いほど感じるわ。

その会話をした瞬間から春奈を見る目が刺々しくなったのも仕方のない事。

「ところで課長は佐知さんと寝てますよね」春奈は周りに聞こえるよう声を大きくして言ってやった。

そうしたら「ば、ばかな事言うな! 関係なんかない」気の小さい湖立課長はもう目が彷徨っていて可愛そうなくらい。

「妊娠してたって警察の方から聞きましたけど……」湖立課長に疑惑の眼差しってやつを向けると、冷や汗を掻いて、居た堪れなくなったのか席を立って何処かへ行ってしまった。

数分後、春奈の携帯に時間と場所を指定して食事へのお誘いがきて、思わず「ふふふ」声を出して笑ってしまった。

 

 時間通りにその場所へ行くと湖立課長はすでに来ていたわ。

席に着くと間を開けず料理が出てくる。

「飲み物は?」ウエイターに聞かれて湖立課長に目をやると「ワイン、赤」と言う。

「それを」

春奈が言ってウエイターが下がると早速湖立課長が喋り出す。

「佐久間くん、会社で事件の事は口にしないでくれ、社員が動揺する。これは社長からも言われてるんだ」

「はぁそうなんですか。でも、時々警察の方が課長のところへ来てるようですが何の用事があるんでしょう?」

「いつも同じだ。事件の夜の事で何か思い出したことは無いですか? って何回訊けば気が済むのか……」

「あら、それって怪しいと思ってるからじゃないんですか?」皮肉っぽく言ったら「冗談はよしてくれっ!」怒鳴り声が店内に響いちゃって周りの客の注目を集めてしまったのよねぇ。

それで湖立課長は無口になって箸をしきりに口へ運んでいるのよ。

春奈はこの先に起ることを想像して、ワインに手を伸ばす。

二時間ほど飲食を楽しんでると「赤井川先生の担当になりたいか?」と訊いてきた。予想通りの展開だわ。

男って見え見えの事を良く平気でやれるわよねぇ。

「それはもちろんです。人気作家の担当になれば実績が黙ってても上がりますから」

小説の出版は他社がメインだけど、取材させて貰ったり雑誌のコラムなどには執筆して貰ってて、表紙に赤井川先生の名前を掲げると売上も少しは良くなるのよ。

「そう、他にもそう言ってくる奴はいるんだ」

「そうでしょうね。女ですか?」

「ま、まぁそうだが、別に俺は男だから、女だからって差別はしないよ」湖立課長が自慢げに言うから余計可笑しくて「ふふふ」声を出して笑ってしまった。

「課長、そんなこと言っても誰も信じませんよ。有名どころの担当者はみんな女ですよ。それを決めたのは全部課長です。先日、部長が課に来て、 ’課長ならなんでもかんでも女にやらせるから困ったもんだ’って言ってましたよ」

嘘だが湖立は目の色を変えてまた冷や汗を掻いている。

「私も佐知さんのように赤井川先生の担当者にして下さいよ」

少し開き目にしてきたブラウスの襟元から、下着がちらりと見えるように前かがみになってお願いする振りをする。

女好きの湖立課長の目が春奈の胸元にくぎ付けになっている。

「ほんとうに佐知と同じで良いのか?」

「えぇまったく同じに……」

湖立課長は飲みかけのワインを一気に空けて、「じゃ行こうか」と立ち上がった。

既に湖立課長の股間は安住の地を求めているようだ。

「ふふふ、えぇ」春奈もグラスを一気に空けて立ち上がった。

……

 

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