第四章 雨過天哭

雨過天哭(一)

 ぽつりと、兜に水滴が当たった。お、と思う間もなく、ざあっと視界が灰色にけぶる。つづいて、隣から派手な舌打ちが聞こえた。


「雨ですぜ、兄貴」


 伯英は無言で片手をあげ、隊の進行を止めた。手近な大木に馬を寄せ、鞍から降りて兜を脱ぐ。雨の音が、大きくなった。


 後続の兵たちも、てんでに木陰に馬を寄せる。林の中を騎行していたため、雨をしのぐ場所には事欠かない。これは運が良いのか悪いのか、と首をひねる伯英の横で、迅風が再び舌打ちをもらす。


「まったくついてねえや。ねえ、兄貴」


 配下の愚痴に、伯英は片頬をゆがめて応えた。


 早朝に連城を発ち、ほとんど休みなしにここまで駆けてきた。日暮れまでには林を抜け、この先の平地で野営という予定だったが、やはり物事というものは、そうそう思いどおりにいかないらしい。


 とりあえず雨が弱まるまでの待機を命じ、随所に見張りを立てて斥候を放つ。それだけの指示を出し終えると、伯英はひとつ息を吐いて天を仰いだ。


 空は暗く、厚い雲は不穏な轟きをはらんでいる。大きな雨粒がばたばたと木の葉をたたき、跳ね返る飛沫が顔が濡らす。足元からたちのぼる草と土の匂い。首筋にまとわりつく雨の匂い。


「……くそったれ」


 伯英のすぐ横で、迅風が先ほどからぶつくさとこぼしている。


「まったく気に入らねえったら。なんだって俺がこんな目に……」

「さっきからうるさいぞ、おまえ」

「だって兄貴」


 血の気の多いこの若者は、こいつが悪いと言わんばかりに、ぐいと空にあごを向ける。


「俺たちがこんなに苦労してるってのに、あいつときたら……」


 あいつ、というのが誰を指しているのか、訊かずとも伯英にはわかっていた。頭の隅にほんの一瞬、白い花のような面影がよぎる。


「今ごろ嫁さんとひとつ布団でぬくぬくしてやがるんだろうなあ……くそ、おもしろくねえ」


 洟をすすりあげて悪態をつく迅風を、伯英は叱りつけようとして結局やめた。この程度で目くじらを立てていてはきりがない。それに、いっそ迅風の下世話な妄想が実現していればいいものを、と思わなくもないところだ。まあ、あの少年に、そちらの甲斐性を期待するのもむなしいが。


「そんなこと言うなら、おまえ」


 叱り飛ばすかわりに、伯英は配下の若者に意地の悪い笑みを向けた。


「さっさとあいつに負けてやったらどうだ」

「冗談じゃありませんよ」


 空に向けていた眼をきっと伯英に向け、迅風は強い口調でまくしたてた。


「それとこれとは別ってもんです。勝負事に手え抜くなんざ、死んでもごめんですや」

「わかった、悪かった」


 伯英はかるく手をふって迅風をなだめた。


 このやりとりには多少の背景がある。伯英が子怜を遠征に伴うようになって久しいが、前線にまで連れてきたことは一度もなかった。理由は簡単。足手まといだからだ。


 屈強な兵士でさえ命を落としていく戦場だ。そこにあの小柄な少年を放り込めばどうなるか、想像がつかないほどの間抜けは王家軍にはいなかった。いや、いないはずだった。ただ一人、当の本人を除いては。


 おまえは危ないから引っ込んでろ、という、それこそ子どもでもわかる単純な理屈を前に、子怜は意外なほどの抵抗を見せた。


 いつもの「なんで」に始まり、「ぼくは平気だよ」だのと根拠のない自信をふりかざし、しまいに「誰にだって初めてはあるでしょう」などとわかったふうな口をきいて、業を煮やした伯英に怒鳴りつけられるまでが決まりごとのようになっている。


 頑固なところはそっくりですね、とは、その場面を目撃した文昌がもらした感想である。


 誰に似たのか頑固であきらめの悪い養い子に手を焼いた――というより、いいかげん面倒くさくなった伯英は、ならばとひとつ条件を出した。


 どんな手を使ってもいい。迅風から一本とってみろ。王家軍一の暴れ者に膝をつかせることができたなら、そのときは前線でもどこでも連れて行ってやろう。


 その条件を聞いたとき、義弟の文昌は「さすがにそれは」と眉をひそめ、相手役に抜擢された迅風は「俺があいつに負けるなんざ、お日様が西から昇ったってありっこないですよ」と胸を張り、そして子怜はしばし黙りこんだのち、養父を見上げてこう訊ねた。


「文昌じゃだめ?」

「だめに決まってるだろうが」


 以来、幾度となく迅風に勝負を挑んでいる子怜だが、残念ながらというべきか、当然というべきか、勝利をおさめたことはただの一度もないのであった。





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