出征前夜(四)

「おい、どうした。そいつは」


 顔に赤い手形をつけてきた養い子を見て、伯英は悪いと思いながらも、つい笑ってしまった。白い頬にくっきり残る指の跡は、あきらかに女の手のものだった。


「えらく男前になっちまって。嫁さんと喧嘩でもしたか」

「してないよ」


 常のごとくの無表情にひと匙の不機嫌さをにじませて、子怜は伯英の隣に腰をおろした。その動作がいつもより荒っぽく感じられたのは、伯英の気のせいではないだろう。


 そうかよ、と養い子の頭をかるくたたき、伯英は腰を上げた。おそらく人生初の夫婦喧嘩で惨敗を喫したであろう少年には、相応の慰めが必要なようだった。


「ほら」


 ほどなく戻ってきた伯英は、養い子に水で濡らした手巾を放った。


「とりあえず冷やしとけ」


 黙って頬に手巾を押しあてる子怜の前に、次はこれだと伯英は杯を置く。


「いいの?」


 意外そうに目をあげる養い子に「一杯だけな」と釘をさして、伯英は杯に酒を注いでやった。それから自分の杯にもなみなみと。出征前夜の酒盛りはあまり褒められたものではないだろうが、一杯だけなら構うまい。


 伯英がかるく杯を掲げてみせると、子怜も応じて杯に口をつける。最初に一杯だけと念押ししたのが効いたのか、ゆっくりと舐めるように飲んでいる。さもなくば、ひと息で杯を干していたことだろう。なんとなればこの少年、儚げな見た目に反して結構な酒豪であったので。


 この意外すぎる一面が判明したのは、およそ半年ほど前のこと。迅風ら王家軍の若い連中が、子怜を酒楼に引っ張り込んだのがはじまりだ。碁打ちの勝負ではまるで歯が立たない生意気な少年を、ひとつ酔いつぶしてやれとでも目論んだらしい。


 大人気のかけらもない兄貴分たちの思惑は、しかし手ひどく裏切られることになる。王家軍そちらの方々が酔いつぶれているので引き取りに来てくれまいか、という楼主からの遠慮がちな伝言を受け、あの馬鹿どもがと酒楼に乗り込んだ伯英が見たものは、死屍累々と横たわる酔漢たちと、涼しい顔で杯を傾ける養い子の姿だった。


 とりあえずその場は「子どもが酒なんか飲むな」と子怜に拳骨を食らわせ、つづいて「子どもに酒なんか飲ませるな」と迅風らをまとめて蹴り出して終わったのだが、こいつは今からこんな調子で大丈夫なのか、と珍しく養い子の将来に不安を覚えてしまった伯英である。文昌などは「弱いよりはいいではありませんか」と、どこか投げやりな顔つきで感想を述べていたものだが。


「それで」


 そろそろ落ち着いたかと思った頃合で、伯英は養い子に声をかけた。


「何があったよ」

「べつに」


 しごくそっけない答えが返ってくる。


「何もないよ」

「何もなくて横っ面張られるかよ。どうせおまえ、嫁さんに余計なことでも言ったんだろ」

「言ってない」


 杯に口をつけたまま、子怜は上目遣いで伯英を見る。


「本当のこと言っただけだよ」


 それがときには一番余計なことなのだと、この養い子にわからせるのはいささか骨が折れそうだった。


「伯英」


 しばしの沈黙をはさんで、今度は子怜が声をかけてきた。なんだと見下ろす伯英を、艶のある黒い瞳がまっすぐに見つめ返した。


「ぼくが死んだら悲しい?」


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