第三章 出征前夜

出征前夜(一)

「火急の事態だ」


 その日、王家軍の陣営を訪ねてきた連城県令は、強ばった面持ちで伯英に告げた。


ばく元宇げんうの一党が、この連城へ向かって進軍中との報せが、今朝」


 この男と会うのは二度目になる。一度目は養い子の婚礼の宴で。いかにも貴顕の出らしい端整な顔を、あの晩は赤くしていた。恥と混乱と、あとは行き場のない怒りのために。


 あのときとさして変わらんな、と伯英はあごをなでた。

 この育ちのいい県令どのは、いささか感情が表に出やすい性質らしい。なぜ自分がこのような目に遭わねばならぬのか。そんな思いが白皙の面に透けている。


 せっかくの色男が台無しだぜ、などと軽口をたたける仲でもなかったので、伯英はせいぜい重々しい表情をつくってうなずいた。


「そのようですな。こちらが放っていた斥候からも、同じ報告を受けたところです」

「ならば、なぜ何もせずに座しているのだ!」


 そりゃあんたが訪ねてきたからだろうが、と返す代わりに、伯英は左右の配下たちに鋭い視線を走らせた。右端の迅風には特に念入りに。いいから黙って座ってろ、と声には出さずに恫喝する。


「まずは県令どのと、今後の方針をご相談いたしたく」

「今後の方針?」


 黄氏当主が形のよい眉を跳ね上げた。


「そのようなもの、決まっているではないか。彼奴きゃつらを迎え撃つ。それ以外あるまい」


 まあそうですな、と伯英は適当な相槌を打った。

 話し合いたかったのは、その「迎え撃つ」方法の中身なのだが、この県令どのはまだそこまで思考が追いついていないらしい。とりあえず「白旗を掲げて降伏する」という選択がないことがわかっただけでも、良しとすべきかもしれないが。


 莫元宇という敵将が、太興を出て攻めに転じる。その可能性は、もとより伯英の頭の中にもあった。だが、幾隊かに分かれて太興へ向かう討伐軍のうち、そのいずれが狙われるかまでは予見できなかったところである。

 よりにもよって、と伯英は胸のうちでぼやいた。こたびの貧乏くじを引かされたのは、どうやら王家軍であるらしい。勝負事にはそれなりに自信のあった伯英だが、持ち前の運も底を尽いたといったところだろうか。


 思えば今回の出征は、最初からつまづきが多かった。前の戦の後始末が終わらぬうちに、次の遠征に駆り出されたことがやはり響いている。おかげで文昌と軍を分つはめになり、伯英自身の到着も遅れてしまったのだから。

 きわめつけは、と伯英は末席の養い子に目をやった。いきりたつ大人たちの中で、その少年は常のごとく黙然と座していた。


 この養い子を軍議の場に伴うようになって久しいが、同席を許すにあたり、伯英は子怜にひとつ約束をさせていた。


 居てもいいが、余計なことは絶対に言うな。そう申し渡した伯英に、養い子は首をかしげてこう尋ねたものである。


「余計なことってどんなこと」

「それがわからんうちは黙ってろ」


 言いつけどおり、今日も子怜はおとなしい。その落ち着きぶりだけは周りの連中に見習わせたいものだと、伯英は内心でため息をついた。



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