第35話 ここからがスタート

 コルクから持ち手にかけての首の部分はスラリと細く、うっすらとした稜線を描きながらボディは膨らみ、また底のほうでわずかに小さくすぼまる。

 女性の腰のラインのような美しいフォルムだ。

 オルネライア家のワインにのみ使用が許されるその形状は、それ自体が一つの芸術品のようだった。


 芸術品を生み出すのはなにも華の都フロレンティアだけが専売ではない。

 海洋都市ヴェニシアで活躍する万能の聖女たちは、ガラス細工を得意としていた。

 この瓶の鋳型も、元はヴェニシアで造られたものだ。


 気を抜くと、うっとりと眺めてしまいそうになる。

 けど、いまは作業の真っ最中だ。


 ニーナは、ガラス製のそのボトルにそっと一枚の紙を重ねる。

 裏側には、製本に使うのと同じ糊が塗られている。


「これで……おしまいっ」


 ぴたり、と真っ白な紙がボトルに貼り付く。

 上からごしごしと手でこすり、しわや歪みが生まれないように気をつけながら糊付けする。


 上部は直線で、下方は楕円状にくり抜かれたその紙は、ちょうど盾のような形をしていた。

 ニーナとガラテイアのふたりで話し合い、その形が一番ボトルに合っているという結論になったのだ。


 それ自体芸術品のようだったボトルが、さらに一段引き締まり、華やいで見えた。


「お疲れさまでしたわ~」


 周囲で拍手が巻き起こった。

 ニーナは額の汗をぬぐい、ふ~っと息を吐く。

 緊張が解け、笑顔で後ろを振り返った。


 拍手をしているのは、ニーナを守るようにすぐそばに立つガラテイアだけではない。

 姉のエリザ、老メイドのロザンナ、発明家のカルヴィーノ爺さん、その孫娘のイオ。

 さらにオルネライア家のワイナリーで働く男女の従業員たちもいた。

 およそ、ニーナがタスカーナに帰ってきてから関わってきた、すべての人たちと言ってもいい。


 彼らは先ほどまで総出で、ワインの瓶にニーナの描いた紙を貼りつけていた。

 ワイナリー蔵の入り口近くの野外に、今年出荷予定分のワインが山と積みあげられる。


 意外な活躍を見せたのは、イオだった。

 じっとしているのが苦手な彼女には単純作業は苦痛ではないかと最初はみんな思っていた。

 けど、いざ開始してみると、コツを飲みこむのが誰よりも早く、正確かつ迅速に貼紙を瓶に貼り付けていき、あまりうまくできない人間の作業を手伝ったりもしていた。


「その集中力を発揮すれば、わたしを超える日もそう遠くないでしょう」

「ほんと、エリザねえちゃん!?」

「ええ、期待していますよ、イオ」

「うん! うち、なんかつかめたような気がする!」


 エリザとイオの会話はニーナにも聞こえていた。

 貼紙付けくらいで何を大げさな、と内心思っていたけどふたりは真剣そのものだった。


 フロレンティアでは、商店に並ぶ衣服などに値札がぶら下げられているものもあり、ラベルと呼んでいた。

 それにならい、この貼紙もラベルと呼ぶことにエリザたちは決めた。


 一枚原型があれば、大量にラベルは生産できる。

 カルヴィーノが発明した、魔光印刷機の成果だ。


 気が遠くなるほどの単純作業を繰り返し、すべての瓶にラベルを貼りつけ終えたあとも、まだまだ予備はたくさん残っていた。


「うん……うん!」


 ニーナはランプの灯に透かすように両手でワインの瓶を持ち、そこに貼られたラベルをじっと見つめた。


 上部には、気品あるワインレッドで染め抜かれたオルネライア家の名前と家紋。

 下のほうには、生産年と混じりっけのないヴィンテージワインであることが刻まれている。

 そして、紙の中央部を飾るのはニーナの絵だ。


 青々としたタスカーナのブドウ畑、そして遠景から見たオルネライア家の蔵が、ややデフォルメされた形で描かれている。


 魔光印刷機は、あまり細かな絵柄を写すのには向かないという。

 けど、ニーナの光と影の印象で風景をとらえる絵柄にはピッタリだった。

 むしろ、原画よりも印刷されたものの方が、ワインのラベルらしい味が出ているくらいだ。


 単純にオルネライア家のワインであることを示すだけでなく、タスカーナのどこまでも広がる景色、その空を渡る風、そして風によって運ばれる土とワインの香り。

 そんな目に見えないいろんなものが、絵からも伝わってほしい。そう、願いを込めて描いた。


「お姉ちゃん……ううん、蔵元。これ」


 ニーナはその瓶を、エリザへと差し出した。


「ニーナ。それはあなたが……」

「蔵元に開けてほしいんだ」


 ふたりはしばし、視線をかわしあった。

 ニーナの目は誇らしげに輝いていた。


 まるでディオニシアの神殿にワインを奉納したときのように、厳粛な想いすら湧きあがってくる。

 やがて、エリザのほうがゆっくりと首を縦に振った。


「分かりました。ありがとう、ニーナ」


 エリザは、ニーナからそっと瓶を受け取る。

 その瞬間の光景は、一枚の絵画のようだった。


 もう一度、周囲から拍手が起こった。

 今度は盛大なものではない、静かで温かな拍手だ。

 

 そして、エリザは小さなナイフを差し込み、コルクを抜き取った。

 ぽん、と威勢の良い音が蔵に響く。


「皆さま、ご協力ありがとうございました。さあ、お祝いをしましょう」


 その場に集ったみなが歓声をあげた。


 歓声の中、ニーナはそっとガラテイアに近づく。


「ガラテイア……。わたしやったよ」

「ええ、おめでとう、ニーナ」


 ふたりは小声でささやき合う。


「やっとわたし、お姉ちゃんの目をまっすぐ見れた」


 ニーナにとって、ただ絵を仕事に活かせた、というだけのことではなかった。

 姉の前で、こんなふうに堂々と胸を張れたのは、生まれて初めてのことだったかもしれない。


 いまならなんだってやれそうな気がした。

 ガラテイアも、そんなニーナの胸の内を察しているようだった。


「ここからが、わたくしたちの始まり。そんな気がしますわ」

「うん。わたしも……まだ、やっとスタート地点に立っただけ、って思う」


 姉にボトルを手渡したとき、ぐっとこみあげてくるものをニーナは感じていた。

 けど、もう泣かなかった。


 まだ、やり遂げたという感慨にふけるのは早い。

 もっともっとやりたいこと、できることがたくさんある気がした。


「わたし、自分の絵をもっといろんな人の役に立てたい」

「ええ。あなたの絵は、人をつなげる不思議な力を持っていますわ」


 けど、いまは、とガラテイアは談笑しているみなの姿を見る。


「ニーナ。ガラテイアさん。何をしているのですか。乾杯をしますよ」

「そーだよ。ニーナねえちゃん、早く早く!」


 エリザたちがニーナを呼んでいた。

 ニーナとガラテイアのふたりは、互いにうなずき合い、笑顔でみなの輪の中へと入っていった。

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