零章 その2

 観測可能なあらゆる要素が、やつがどこまでも真剣にこの提案を持ちかけたことを示していた。強い眼差しがその決意の固さを物語っていた。しかし、やつを許せずにいるおれはそれを拒んだ。

「誰が人間の機械になど関わるか。まして、貴様と組むだと。笑わせるな」

「よく考えろ、きっと二度とない機会だぜ? もう一度、空が飛べるんだ」

 空。

 飛ぶ。

 その二つの言葉は、目に見えるほど明確な形と質量を持って、おれの琴線に触れた。痛々しく衝突したと言ってもいい。衝突の跡地には、おれが求めて止まない手の届かない憧れが煌めいていた。すぐにでも手を伸ばし、それに触れたかった。その提案をしているのが、おれを空から撃ち落とした張本人でさえなければ。

「何が目的だ。おれを飛行士に誘う理由があるとは思えない。まさか、贖罪などと言い出さないだろうな」

 もしもそうなら、これほどの屈辱はない。今度こそ、おれはこの人間を殺してしまうだろう。

「何の話だ」

「おれから空を奪っておいて、そのことを後悔しているのか? 悪いことをしてしまったとでも思ったのか。だから、おれを飛行士にしたいのか? 答えろ。返答次第では、貴様の生涯はここで終わる」

「理由か。いいぜ、教えてやる」

 やつは短く、嘲るように笑った。

「俺が再び飛び立とうというのに、一度は俺から空を奪ったお前が腑抜けてるのは気に食わん。死闘を繰り広げた相手の落ちぶれた姿なんて、反吐が出る」

「忘れたのか。貴様を殺すくらい、造作もないことだ」

「今日に限らず何度も機会があった割に、俺はまだ生きてるぜ」

 アトラスはおどけた様子で肩をすくめ、おれは毒気を抜かれてしまった。同情でないのなら、見逃してやってもいい。そういうことにした。

「ま、続きも聞けよ。なまじ自分の腕がよかったせいで、半端な腕前の飛行士と組む気にはなれないんだ。口出ししすぎて嫌がられるってのもあるが。その点、竜のお前なら、俺の記憶を読み取って操縦技術をそっくりそのまま再現できるよな。違うか?」

「不可能ではないが、気軽に行うことではない。それは貴様の半生をおれに差し出すようなものだ。竜同士でも、親から子への知識の継承のために一度だけ行う程度だ。そもそも、貴様はどこでこのような知識を得た?」

「俺は魔術師の家系の生まれなんだ。そのくせ魔術は何一つ使えないが、知識だけはそれなりにある。記憶を読ませるのがどういうことかは、ちゃんと分かってるつもりだ」

「各自に固有の記憶は精神の自由の証だ。おれたち竜は自由を尊ぶ。それは自らの自由も他者の自由も区別なくだ。故に、それを損ないかねない行為は何であれ、歓迎されない」

「それなら、今回は問題ないな。俺は全て承知の上で提案した。お前が俺の記憶を読み取ることに忌避はない。むしろ、俺の自由のために必要なことだ」

「おれが拒むとは思わないのか」

「どうしても嫌なら、座学から始める。それで構わないな?」

「それは矛盾している。貴様の技術を再現できることが肝要ではなかったのか。おれが一から学ぶのでは、貴様の目的は達せられないだろう」

 沈黙が夜の闇に包み込まれた。おれたちが黙ると、ほかに生き物の姿のない渓谷には静寂だけが残された。アトラスの答えを待つ間、おれは星空を眺めていた。天上の月が柔らかい光を投げかけ、かつて空を舞ったあらゆる命の残滓を照らし出していた。

 おれはあの空で死に、地を這う屍として今も存在し続けている。意識の片隅に追いやっていた悲しみが首をもたげ、胸中に居場所を探していた。無性に泣きたい気持ちになり、おれは世界の全てから顔を背けた。

「俺はお前と組むと決めて会いに来た。操縦技術のことなんか後付けだ。お前じゃなきゃだめなんだ」

 アトラスの方をまともに見られず、おれは呟くように尋ねるしかなかった。

「なぜだ」

「俺たちは戦場で出会った。が、お前は戦いがどうとか以上に、空を飛ぶのが好きだっただろう。さっき言った通り、俺も似たようなもんだ。だからな、戦争さえなければ、俺たちは初めから友だちになれたはずだ」

 やつには確信があるようで、その言葉には自信が溢れていた。頭に浮かんだ懐疑的な思いがおれを現実に引き戻し、問題点を指摘せずにはいられなかった。つい棘のある口調になってしまったが、これで怯むようなら、結局のところやつは口先だけだということだ。

「闘争は竜の本能のようなものだ。おれは仕方なく戦っていた訳ではない。相応しい機会があれば、喜んで力を振るってきた」

「それでも、だ。お前は偶発的な戦闘と先制に対する反撃くらいでしか戦わなかったと聞く。ほとんどの時間、ただ悠々と飛んでばかりだとな。軍からの命令さえなければ、お前を討伐しようとは思わなかった」

「経緯はどうあれ、おれから受けた被害に見合った戦果を得ずには終われなかった訳か。知ってはいたが、人間とはどこまでも業の深い生き物だな」

「社会性には負の側面もある。とにかく、あの戦いの中で俺は確信した。お前は俺と同じように、ただ空を飛ぶのが好きなだけ。俺たちはどちらも一介の飛行士なんだと」

 アトラスは立ち上がっておれに近づき、肩に手を置いてきた。おれはその手を避けなかった。やつの言葉には、どこか気を引かれるものがあった。少し視線を上げると、やつと目が合った。

「俺たちほど空を愛したやつが、ほかにいると思うか?」

「貴様ごときにおれの心が推し量れるものか」

 そう言いつつも、本当はおれの方もやつと同じことを考えていた。おれを撃ち落としたやつは、おれと同じくらい空を飛ぶことが好きなのだと。その確信を胸に抱いて、おれは墜落した。

 別の出会い方をしていれば、おれたちの間に友情が芽生えたのか。それは分からないが、少なくとも似たもの同士であることは否定できない。苛烈な戦闘の渦中にあって、おれたちが考えていたのは相手の命を奪うことではない。互いの頭にあったのは、いかに相手より速く飛ぶか、いかに相手より上手く飛ぶか。ただそれだけだった。

 もはや認めるしかない。同族たる竜よりもこのアトラスという人間の方が気が合うのかも知れない。

「……だが、否定はしない。おれや貴様ほど空を愛する者など、どこにもいるはずがない。そのくらい、言われるまでもなく知っていた」

「決まりだな」

「ああ。貴様の技術、借り受けよう」

 おれは人間のやり方に合わせるつもりで、右手を差し出した。握手をしながら、アトラスは楽しそうに笑っていた。

「じゃあ早速、やってくれ」

「おれに共有したい記憶だけに集中して、ほかのことは考えるな。貴様自身が許可していようが、読み取るのは必要最低限のことだけにしたい」

「分かった」

 アトラスに目を閉じさせて、おれは両手でやつの頭を挟み、互いの額を接触させた。目を閉じてやつの意識へと潜り、飛行士としての記憶を探した。やつの経験したことやそのときの感情を断片的に覗き見てしまうことは避けられなかったが、可能な限り知識だけを読み取っていく。

 やつの記憶の中で最後に目にしたのは、翼の破れた竜が落ちていく姿。自らも死に向かって墜落しながら、やつは生涯最高の宿敵への敬意を抱き、共に死ぬのも悪くないと思っていた。

 おれはアトラスから離れた。おれが何を目撃したのか、やつには分からない。意図せずに知ってしまったことは胸に秘めておくべきだろう。

「操縦の知識は得られたか?」

「一通り動かす分には問題ないはずだ」

「これでお前も一端の飛行士だな」

「一度も実際に操縦したことのない者を一端と言うのは不適切だ」

 飛行機を操縦する技術について知ることはできたが、知識だけ身につけても、それを自らの手で再現できるかは別問題だった。早く飛行機に乗って、どこまでできるか確かめたかった。

「まずは操縦させろ。誘っておいて準備がないとは言わないよな?」

「当然だ。だが、今夜はもう移動できない。俺には暗すぎる。それに、下山した後も街まで何日かかかる。しばらく我慢してくれ」

 おれは言葉を失い、ただ肩を落とすことしかできなかった。期待に胸を膨らませていたというのに、再び飛び立つための翼を与えられたというのに。今しばらく、おれは待っていなければならなかった。

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