11

「アベイル・エルニ! わたくし、エヴェリン・ヴィンフリートは、貴方との婚約破棄をここに宣言しますわ!」

――嗚呼、またここから始まるのか。

 大広間に響く涙声に、アベイルはうんざりと瞳を伏せた。何回、何十回、何百回と目にした断罪劇である。

 喜劇の舞台は大広間だった。王家主催のパーティで、主役は第一王女たるエヴェリン王女殿下。その隣でエスコートするのは、本来であれば婚約者であるアベイルの役割である筈が、何故か寄り添っているのは別の男である。

 フィリップ・アダムス侯爵令息。甘い相貌で王女を見つめるその瞳は、王女の纏うドレスと同じ深紅のもの。また白い燕尾服を纏った侯爵令息が胸元につけた装飾品も、王女の瞳と同じ翠玉のものだった。互いの瞳の色のドレスや宝飾品を贈り合うのは、婚約同士か、最低でも恋人同士の所行である。

 とてもではないが正式に婚約者がいる身でする装いではない。だが、本来なら非常識である筈のその行動も、咎める者はない。将来の女王陛下とそのお気に入りに対し、態々不興を買いに行く酔狂な輩はいないからだ。

 愉快そうに、不快そうに、各々扇で顔を隠しざわめく群衆を前に、茶番劇は幕を閉じようとしている。

「貴方の行った悪行――アダムス侯爵令息への嫌がらせ、果ては事故に見せかけてその命を狙うなど……貴族にあるべき所業です! 恥を知りなさい!!」

 緩やかにうねる長い金髪を振り乱し涙目になる、王女はさながら悲劇のヒロインだ。対する悪役令息は、アベイル・エルニ、その人に他ならない。

「アベイル・エルニ……わたくしは貴方を断罪します!!」

 幾度となく繰り返されて来た茶番に、悪役令息として仕立て上げられたアベイルは、全てを諦めたかに虚しく、笑った。


 ◆ ◆ ◆ ◆ ◆


 アベイルが己の能力を自覚したのは、三歳の時だった。

 その日、幼少のアベイルは喉の渇きを覚えて午睡から目覚めた。パタパタと天蓋から垂れたカーテンが揺れる。

 アベイルは小さく乳母の名を呼んだ。いつもなら直ぐに応じる筈の乳母の返事はなく、白いカーテンが静かに風に揺れている。

 不安に駆られ、アベイルはそっと寝台から降りた。お腹が僅かに空いている。昼食を食べて間もなく昼寝に入った為、今はおやつの少し前の時間といった所だろうか。

 身体に生じた不快感に、些かむずがりながらアベイルはカーテンを押し開けた。とてとてと床を歩く。アベイルに与えられた子供部屋には、矢張り乳母も使用人もいない。

 窓が開いていた。初秋とはいえぐっすりと寝込んでは身体が冷えるだろうと、きちんと閉め切られていた筈の窓が。

 再び乳母の名を呼び、アベイルは窓辺へ近付く。少し高い所にある窓は、万が一にも子供が落ちないように近くに登れるものはない。

 見上げる秋空の高さに気を取られるアベイルの身を、不意に後ろから持ち上げる者があった。柔らかな感触はメイドの誰かだろうか。突然近付いた窓から見える光景に、アベイルは小さく歓声を上げる。二階から見える外の風景は新鮮で、中庭の花や木々に目をやった時だった。

 持ち上げられた手が、不意に離された。訪れる浮遊感、近付く地面、訪れる衝撃。

 アベイルの意識はそこで途絶えた。


 午睡から目が覚めたアベイルは、翻るカーテンを見て、あれ、と思った。何処かで見た光景だ。寝ぼけているのだろうか。

 乳母の名を呼び、寝台から降り、窓辺で持ち上げられ、そして浮遊感か訪れる。

 それを数回、数十回、ひょっとしたら数百回、繰り返した。

 妙だと思うにはアベイルは幼過ぎた。それでも繰り返し、繰り返し、積み重なる内に不自然さに気付く。夢にしてはおかしい。同じような出来事が続いている。

 それである時、違うことをしてみることにした。とはいえ、目覚めて部屋に入ると直ぐに何者かに柔らかな拘束を受け、窓の外へと放られてしまう。だからその時は、アベイルはベッドから出なかった。目覚めて布団に入ったまま、声の限りに、泣き叫んだのだ。

 ばたばたと隣の部屋から駆けて来る気配がした。坊ちゃまどうされました、そう走り込んで来たのは慣れ親しんだ乳母で、安堵したアベイルは尚更大仰にしゃくりあげた。元来大人しい性質の子供である。泣き喚くアベイルに慌てたような乳母が駆け寄って来る。喧噪に使用人たちも集まって来た。その一番後ろ、青い顔をして何処か茫洋としたメイドの一人を、アベイルは泣きじゃくりながら指さした。

――あのひとが、ぼくを、ころしたんだ。


 荒唐無稽な子供の寝言だ、悪夢でも見たのだろう。そう判断されるだろうその発言は、しかし告発されたメイドの発狂により困惑を極めた。

 事実、そのメイドはアベイルの殺害を企てていたらしい。隣室でぼや騒ぎを起こし、傍仕えの者たちを遠ざけている一瞬の隙に、アベイルを害する手筈だったようだ。

 メイドにそれを指示した下手人は分からなかった。メイドの気が触れていたからだ。

――この子は悪魔の子だ、何度殺しても生き返って来る!

 血走った目でメイドは幾度も訴えた。悪魔が、悪魔が、どのような手段で口を割らせようとしてもそれしか喋らなくなったメイドから、黒幕を吐かせることは出来なかった。どうせ政敵の内の一人だろう、そう断じたアベイルの父はメイドを精神病院送りにし、この件を終わらせた。

 息子が何らかの“ギフト”を発動させたのではないか、という疑惑は当然アベイルの父にもあっただろう。だがどの道確かめようもない推測は無意味だ。いかに冷酷非道で知られる宰相閣下とはいえ、己の息子を確認の為だけに殺したりはしない。

 その件は使用人たちにも箝口令か敷かれ、また幼いアベイルもその出来事は記憶の片隅に追いやられた。


 アベイルが己の“ギフト”を正式に自覚したのは、それより二十年程後のことになる。


 公爵家の次男として生まれたアベイルは、極一般的な貴族令息としての教育を与えられ、育てられた。強いて他の者と違う点を挙げれば、12歳の時に第一王女であるエヴェリン・ヴィンフリートと婚約したことか。シルヴァリル王国は代々女王が治める国である。王配の仕事は基本的に子を成すこと。政治の観点で関わることはない。伴侶に権力を持たせない国の政策だ。

 それ故、アベイルは選ばれた。能吏な長兄でも、武勇に優れた末弟でもなく、取り立てて秀でたもののないアベイルが。

 アベイルとて人より劣っている訳ではない。だが、宰相を勤める父を始めとして、周りが優秀過ぎた。公爵家の一員として、何の役割も期待されなかったアベイルは、王家との更なる繋がりを求められ、種馬としてあてがわれることになった。

 それでも、アベイルは腐ることなく己に与えられた役割を全うしようとした。エヴェリン王女に対しても決して悪感情など抱いたことはない。おしゃまでえくぼの可愛い妹分。知り合った際の年の差もあり、恋慕には至らなかったものの、成長するにつれ聡明な一面を見せ始めた王女の伴侶として、共に在ることに異論はなかった。彼女の国を良くしていこうとする真っ直ぐな姿勢は、大層好ましいものであったし、そして何よりアベイル自身、表舞台に立つよりも裏で他者を支える方が性分に合っていたのだ。

 学院に入ってからは少しでも王女の助けになればと、経営学に打ち込んだ。学友は少なかったが、少なくとも周囲と軋轢があったとは思えない。

 それなのにアベイルは孤立した。気付いた時にはもうどうしようもないくらいの悪評が振りまかれていた。

 王女が婚約者でもない男と腕を組んでいたのを諫めれば、嫉妬故のの所業と嗤われた。

 幾つかの嫌がらせや悪口は、その場にいた覚えもないのにいつの間にかアベイルの仕業とされていた。

 そして極めつけに、階段にピアノ線を貼り王女とその想い人を害そうとしたのだと。そのような身に覚えのない罪を着せられ、停学に追い込まれた。当然弁明はした。しかし実際に、アベイルが音楽室のピアノを弄っていたのを見た者がいると言う。そもそもピアノの調子が悪いと調弦を頼んで来た生徒の証言だ。既にそこから、仕組まれていたのだろう。

 停学が明け、王女に弁明の機会を得ようとしたアベイルは、学院の正門で組み伏せられた。制服や鞄の中から、多数の刃物が見付かったのだと言う。当然アベイルはそんなものなど所持してはいない。全ては用意周到に図られ、陥れられた。

 弁明も釈明も無意味だった。まるで昨今流行の戯曲に出て来る悪役令息の如く、真実の愛を見つけた主人公たる王女を阻む悪役として、アベイルは仕立て上げられたのだった。

「アベイル・エルニ……わたくしは貴方を断罪します!!」

 そして繰り広げられる断罪劇。何度無実を訴えても聞き入れられず、アベイルは拘束された。そもそもアベイルとフィリップ・アダムス侯爵令息は面識すらないというのに。

 嵌められたのだ。そう気付いた時には、全てが遅かった。


 宰相である父の判断は早かった。

 自宅で謹慎することになったアベイルの自室に寄越された食事、本来であれば毒味が成されている筈のそれは、いとも容易くアベイルの命を奪った。

 込み上げる嘔吐感、激しい吐血、酩酊、暗転。

 利用価値がないと父に判断されたのだと、理解する前にアベイルの意識は途絶えた。そして――

「アベイル・エルニ! わたくし、エヴェリン・ヴィンフリートは、貴方との婚約破棄をここに宣言しますわ!」

 そして繰り返される喜劇は、幾度も、幾度も、アベイルの死と共に遡り、何回、何十回、何百回と、アベイルの前で繰り広げられるのだった。


 それが己の“ギフト”であるのだと、初めての繰り返しの時にアベイルは悟った。己の死に際し、時を巻き戻る力。自分の意志とも希望とも無関係に、己の死をなかったものにする。茶番に浸る王女を見ながら、アベイルは呆然とした。その余りにも荒唐無稽で類稀な能力は、到底アベイルにとって救いとなるとは思えなかった。

 巻き戻りの地点はどうやらこの断罪劇の現場らしい。幼少時の経験も恐らくこの能力に因るものだったのだろう。そう考えると死因は他殺であることが条件か。自死が無効かは知れない。流石に己の命を担保に確かめることは出来ないだろう。

 どうせ戻るのであればもっと早い段階であってくれれば良いものを。涙にくれる王女を再び前にして、アベイルは歯噛みする。既にアベイルの失墜は確定している。ここから死を回避するのは、どう考えても酷く困難な道のりにしか思えなかった。


 一回目の時と同じく、アベイルは王都にある邸宅の自室に軟禁される。そこで出された食事に、今度はアベイルは口を付けなかった。毒の入ったと分かっている料理を食すことなど出来ない。

 しかし一切食事に手を付けず部屋に籠もったアベイルの元に、寄越されたのは刺客だった。鍵のかかったドアをいとも簡単に開き、後ろから羽交い締めにしアベイルの喉元にナイフを突きつける。暗殺者は強引にナイフの柄をアベイルに握らせた。どうやら父はアベイルが自死を選んだと見せかけたかったようだ。

 ふ、と空虚な笑みが零れると同時に、喉元に鋭い刃が食い込む。頸動脈を的確に削ぎ、しかし直ぐには死なないその程度の傷で、アベイルは床に転がされる。どくどくと流れ出る紅は絶望の色だった。


 毒入りの料理を死なない程度に食すこと。一人で引きこもらず必ず複数の使用人に自分を見晴らせること。何度も失敗を繰り返し、その度に苦しみ悶えながら死を経験し、少しずつ生き永らえる時間が増えていく。だが、それに何の意味があるのか。多少生き延びる時間が増えたとて、最終的に命を落とし、そしてまた絶望の舞台へと上らされる。そんなものが生と言えるのか。只、死なない。それだけだ。

 一体何の地獄だろうか。アベイルの精神がすり減るのに時間は掛からなかった。誰にも信じて貰えない断罪劇、父から命を狙われ、そして訪れる死の苦痛は、繰り返す毎にアベイルを蝕んだ。

 止めてしまいたかった。しかし諦めることは、即ちまた同じ地点に巻き戻ることを意味している。止めることは出来ない。己の意志は関係なく何度も、何度でもやり直させられる。気が触れない方がおかしかった。


 絶望を抱いたまま幾度繰り返しただろう。

 そして彼は、彼と出会う。


 ◆ ◆ ◆ ◆ ◆


 黒く短い髪、鳶色の鋭い瞳。浅黒い肌は南方の出身なのだろうか。

 白い騎士団服をきっかりと着こなしたその成りは、流石年若くして一個小隊の隊長を任されるだけのことはある。

 カインという名のその護衛騎士は、地方領主として飛ばされるアベイルの護衛騎士となる者だった。

「君が僕の護衛騎士を任される、カインだね。よろしくお願いするよ」

 一先ずはにこやかに、アベイルは手を差し出す。求めた握手に応じる手はなかった。頑なに唇を結ぶ精悍な男に、アベイルは困って俯く。

 アベイルにあてがわれたこの不運な男について、知ることは余り多くはない。第三騎士団所属であること。平民出身でありながら小隊長を任される程腕が立つということ。それだけだ。

 本の気まぐれのような、自棄のような気持ちで、アベイルは彼に伝える。

「……もしも、」

 謂われのない冤罪だった。アベイルがフィリップ・アダムス侯爵令息に嫌がらせをしたことも、事故に見せかけて殺めようとしたことも、――エヴェリン王女に嫉妬したことさえも。全てが偽りで巧妙に図られた罠だった。しかし周到に作り上げられた証拠は覆しようもなく、家族ですらアベイルを切り捨てる判断をした。

 それなのに赤の他人に訴えるだけ間違っている。縋るだけ無駄だと分かっていながら、アベイルは自ら絶望への道を進む。

「もし、僕が、王女を裏切ってなどいないと言ったら……君は、信じてくれるだろうか」

 途端に溢れ出した憤怒はいっそ心地が良い程だった。鋭い瞳を一層尖らせ、自身の手を押さえたカインは、アベイルを殺さんばかりの形相で睨み付けている。

「……自分は、」

殴りかかるのを堪えているのだろう、ぎりと唇を噛み締める彼は、何とか職務を全うしようとしているかに見えた。真面目なのだな、思うアベイルの耳に絶望が届く。

「自分は……貴方を、軽蔑します」

 固く告げられる言葉は想定内であるのに、容易くアベイルの心を切り裂いた。味方はいない。全てを諦め、アベイルは空虚に、笑った。


 一人目のカインはアベイルを刺客から護って死んだ。軽蔑していると告げた癖に、職務は全うする。実に忠実で難儀な男だと、短刀に身体を貫かれながら、アベイルは思った。


 それから幾人ものカインが死んで行った。アベイルを庇って死んで行った。

 最初のカインは領土に向かう最中、襲って来た刺客に殺された。二回目も、三回目も。

 己の命を担保に、窮地を脱する術を覚えたのはもう何人のカインを失ってからだろう。どれだけこちらを軽蔑していようとも、カインは護衛という任務に忠実に、身を張ってアベイルを護るのだ。

 アベイルが身を投げ出せば、カインは何を賭してもそれを護る。それを利用し、命を延ばすことを覚えた。

 それに何の意味があるのかは分からない。領主として赴任してからも、次から次へと問題は起こった。父からの追っ手が迫ることはなかったが、ぼろぼろになった領地の経営を立て直すのは困難を極めた。水難、蔓延する病、重税に喘ぐ領民の前に、更に魔獣の被害が押し寄せる。

 最初はアベイルも、領土を良くしようと精一杯の努力はしたのだ。けれど前領主に財を貪られ、領民の不信も根強く、王都からの支援も望めない。施策は失敗し、困窮した民が領主館へと押し寄せた。反乱の最中に殺されたことも、引き立てられ衆目の前で処刑されたこともあった。

 その度にカインは、律儀にもアベイルを庇い、アベイルより先に死ぬのだった。


 最初に軽蔑すると告げて来た割に、共に過ごす時間が長ければ長い程、カインは信頼と行為を寄せてくれるようになっていた。そして剣の腕も、繰り返す毎に立つようになっていった。

 魂の研鑽を積んでいるとでも言うのか。莫迦な。ならば記憶ばかりが消え失せるのは辻褄が合わない。

 それとも、彼の中にも記憶の残滓が残っているとでも言うのだろうか。だから幾度繰り返しても、その思慕が変わらないのだろうか。

 だとすればそれは余りにも、残酷に思えた。


 下手に使用人を増やせば、文字通り命取りとなる。双子の入れ替わりは時を重ねる毎に見分けかつくようになり、従えることは出来るようになったが、信頼を勝ち取れた訳ではない。

 人間不得手なことは不得手なもので、アベイルは幾度巻き戻っても自身の身の回りのことが上手く出来ないし、出来るようになろうとも思えなかった。その分、カインは甲斐甲斐しくアベイルの世話をした。

 夜中にどうしようもなく小腹が空いて、厨房に立ったことがある。本当に簡単な、パンに卵を落としたものを作ろうとしただけなのに、出来上がったのは真っ黒な炭のようなものと膨大な煙だった。

 呆然とするアベイルを前に、慌てて駆けつけたカインは、火元の処理をしながら呆れ果てていた。

「一体、何をどうしたら夜食の準備が火事に変わるんですか?」

 呆れながらも、カインは苦笑していた。仕方のない人だと、そう微笑む表情に親しみが滲んでいるのを見た。見てしまった。

 だからアベイルは、無謀と知りながら何度でも厨房に立つ。何度も、何度でも、繰り返し。


 積み重なる時間に、降り積もる想いに、アベイルは疲弊した。

 アベイルは全て覚えている。彼が不満そうな顔をしながら書類整理を手伝ってくれたことも、呆れながら夜食を度々持って来てくれたことも、握った手の温もりも、恐る恐る触れた唇の感触も。

 一度だけ、カインに躯を許したことがある。あれはもう、何人目のカインになるのだろうか。思慕を隠しきれないカインに、アベイルもついに自分を抑えきれなくなった。

 まるで壊れ物に触れるように、優しく柔らかく振れる指先に、応じるべきではないと分かっていた。それが失われた時にどれだけ辛くなるか、想像出来ないアベイルではない。それでも白い肌をなぞり、アベイルも知らないそこを暴き、悦楽を与える相手に抗う術はなかった。

 本当はもう分かっていた。どうしようもなくカインに惹かれる己を。時を繰り返せば繰り返す程、共に在る時間が積み重なる毎に、情は深まっていた。果たしてアベイルはカインに恋慕を抱いているのか、カインの想いに応じているだけなのか、分からない。一つだけ確かなのは、彼に触れられ、抱かれ、それがこの上なく悦びに繋がっているというそれだけだった。

 初めて躯を割り開かれる痛みと快楽に、アベイルは溺れた。

 しかし初めてアベイルを抱いたカインも、呆気なく失われた。暴徒に襲われ、アベイルを庇い、そしてアベイル自身もまた直ぐに命を落とした。

 そうして全てが無に帰した。二人で紡いだ記憶も、抱いた感情も、躯を重ねた熱情も。

――貴方を、軽蔑します。

 再びの繰り返しで、幾度となく投げかけられた言葉がいつになく胸に刺さる。アベイルは全てを覚えている。それなのにカインの方は何もかもを忘れ、アベイルに侮蔑の言葉を放つのだ。頭がおかしくなりそうだった。

 いとも簡単に奪われた思慕は、時を共にする内に蘇ることは知っていた。しかしそれは違う。アベイルの内にある積み重なった想いとは、まるで。

 それ以来、アベイルはカインの想いと向き合うのを止めた。彼の情を分かっていながらのらりくらりと躱す。慕われているのだと分かっていながら目を背けた。そうすることでしか、最早自分の心を守る術はなかった。


 カインと離れることを考えなかった訳ではない。彼の身を本当に案じるのであれば、その手を放すべきだった。それでもこの地獄のような繰り返しの中で、カインの存在だけがアベイルの救いだった。何度彼の死を経験しようとも、手放すことは出来なかった。

 幾度も時を遡った。水難を避ける努力、病を抑える努力、けれどそれら全ては突如として起こる魔獣の暴走で無に帰す。今でこそ騎士団の陰謀であると知れているが、これまでの繰り返しではどう対処すべきか判断がつかず、対処に倦ねた。何せ戦力が足りない。アベイルの命で動く者など僅かで、襲い来る魔獣の前では全くの無力だった。

 領民が殺され、カインが殺され、アベイルも殺された。魔獣によって食い殺されたこともあれば、被害の責を取らされ処刑されたこともあった。どうしてもそれより先に、アベイルは進めない。


 果てしない絶望の末の諦念に、いつしかアベイルは空虚に笑うようになっていた。


 ◆ ◆ ◆ ◆ ◆


――この子は悪魔の子だ、何度殺しても生き返って来る!

 子供の頃のことを、アベイルはふと思い出す。まだ幼かったこともあり、何だか悪夢のようだとしか思えなかったあの頃のことを。

 アベイルの命を幾度となく奪ったメイドは、確かにそう言ったのだ。何度殺しても・・・・・・生き返る、と。おかしな話だ。アベイルの繰り返しは彼自身にしか分からない筈であるのに。

 もしかして、とアベイルは推測する。余りにも儚い望みであった。希望を抱くだけ後々辛くなると分かってはいる。けれど縋らずにはいられない。

 もしも、己を害した者が繰り返しに巻き込まれるのであれば。――カインを巻き戻りに引き込めるのならば。


 それは余りにも儚く、残酷な希望だった。


 アベイルは迷っていた。その希望的観測でしかない、非情な命令をカインに下すかどうかを。

 試す価値はある。そうでなかったとしても、アベイルは再び巻き戻るだけだ。カインがアベイルを殺めた記憶は彼の中には残らない。だから試すべきだ。そうと分かっていながら、アベイルは躊躇した。愛する者に己の命を奪わせる、その残酷さは躊躇の起因にはならない。

 アベイルには分かっていた。もし己の望み通りカインと共に巻き戻ったとして、その後彼と共に生き延びられる望みが薄いということを。共有する記憶を持ったカインが命を落とし、そしてまた再び何も知らないカインとして己の前に現れたら――その時はもう自分の精神は耐えきれないであろうことを、アベイルは分かっていた。

 躊躇する内にまた、幾度時を繰り返す。その度に損なわれ、失う一方の中、カインを巻き込むべきか、その手を放すべきか。決めかねたまま心は疲弊していった。


 迷いを抱いたまま、アベイルはその時を迎える。

 

 同じことの繰り返しの日々は寧ろ機械的に過ぎていった。全てを投げ出し無気力に生きることは出来ない。カインの目がある限り、アベイルは己にそれを許さない。

 だから出来得る範囲で領主としての任を全うしようと試みた。その時もそうだった。またいつものように、襲撃をやり過ごし、双子の入れ替えを指摘し、水害に備え、病の根源を裁つ。いつもと同じである筈が、その時は何かがいつもと違った。

 要因は知れない。只、その時のカインは、不思議と周囲の人間を巻き込んでいった。傍に人があることを望まないアベイルを説き伏せ、使用人を増やし、手足となる兵を増やした。そのお陰でいつになく、アベイルの施策は円滑に進んだ。

 不可解な程に順調だった。しかしその日々も、いつになく早い魔獣の暴走により呆気なく失われる。双子の片割れが損なわれたことはアベイルにとっても想定外で、直前にその内情の吐露を耳にしていただけに、アベイルの胸を痛ませた。

 だからだろうか、その時初めてカインの手を放す決断を出来たのは。

 暴徒から逃げる最中、 アベイルはカインに告げる。

「君の護衛騎士の任を解く。……要は、首だ。何処へとなりとも行くが良い」

 漸くの思いで告げた言葉は、しかしカインの必死の訴えで退けられる。許しを、請われたそれを否定も肯定も出来ないままに、アベイルはカインの家族の元へと連れられた。カインという人間の人となりが形成されたのが良く分かる、良い家族だった。いっそのこと、そこに永遠に居続けたいと思ってしまう程に。受け入れられているのだと感じるのは居心地が良かった。

 アベイルは心を決めた。カインに無体な命令をすることを決めた。双子の死が、家族の温かさが、そして何よりカインの想いが。アベイルにその決断をさせた。仔細は伏せたまま、アベイルはカインに己を殺すように告げる。カインのいる明日を、どうしようもなく、願った。


 ◆ ◆ ◆ ◆ ◆


 逃避行は長くは続かなかった。

 カインの実家を後にし向かう先、検問で止められるだろうと、国境付近の山中を抜けようとの考えは完全に読まれていた。

 待ち伏せされていた山中で奇襲を受ける。カインは強い。並大抵の強さではない。しかしアベイルを庇いながら、手練れの騎士団員を相手にするのは無謀に等しかった。

 最初に馬がやられ、カインが左腕をやられた。アベイルを逃がそうとした隙を突かれたのだ。滴る鮮血をそのままにしたカインの手を借り、何とか逃げ出し、慣れない山道を走るアベイルの足に鈍い衝撃が走る。射られたのだと、気付くより先にアベイルの身体は足場の悪い地面を転げていた。

 嗚呼、これで終わりなのだと。思う気持ちに安堵が含まれているのは否めなかった。

 アベイル様、必死にアベイルに追い縋り、逃がそうとするカインも最早、満身創痍だ。直ぐに手当をしなければ左腕はもう使い物にならなくなるだろう。

 紅を滴らせながらアベイルを助け起こそうとするカインに、アベイルは場違いに微笑んで見せた。

 はっと息を呑む彼に、この世で一番残酷な命令を告げる。

「約束を果たしてくれ、カイン」

 背後から迫る刺客は、容易く二人の命を奪うだろう。

――その時は、自分が、貴方を殺します。

 まるで愛を囁くような誓いの言葉が脳裡に響く。誰かに奪われるくらいなら自分が、と。相手もそれを思い出しているのだろう、喉を鳴らし懊悩しているのが分かる。

「カイン、」

 強請る声音は色事のように甘い。ついともたげた手を強ばる頬に触れさせる。最期の口付けは酷く倒錯的な味がした。


 アベイル様、小さく呼ばわる人は既に心を決めている。

 一度だけ、強く引き寄せられ、ぎゅうと抱き締められる。アベイル様、苦しく呻く人の剣は、容易くアベイルの身に突き刺さった。

 ごふりと口から鉄錆臭い液体が溢れる。またね、苦悶の中吐き出した言葉が、その人に届いたか確かめるより先に、意識が薄れた。


 ◆ ◆ ◆ ◆ ◆


「アベイル・エルニ! わたくし、エヴェリン・ヴィンフリートは、貴方との婚約破棄をここに宣言しますわ!」

 そしてまた茶番劇の幕は切って落とされる。

 その結末は未だ知れない。

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