3

 稀代の悪役令息、アベイル・エルニの主な罪状は二つ。


 一つ、フィリップ・アダムス侯爵令息に対する度重なる嫌がらせをした罪。

 一つ、婚約者たるエヴェリン・ヴィンフリート第一王女を害そうとした罪。


 それらの内容が記載された書面を見ながら、カインは唸った。読めば読む程、酷い内容である。

「な、酷い奴だろ、アベイル・エルニ公爵令息ってのは」

 書面を寄越したユージーンが、やけに楽しげに言う。特に愉快な内容でもない為、カインは顰めっ面で頁を繰った。

 カムセト領へ出立の二日前。護衛対象であるアベイル・エルニについて、カインは噂以上の正確な情報を求め、ユージーンを頼っていた。ユージーンの家名はグロウレ。グロウレ家は爵位こそ子爵であるが、現当主であるユージーンの父は、シルヴァリル王国の法務を担う役職に就いている。そこでカインは、グロウレ家四男坊であるユージーンに、親の伝手を使ってアベイル・エルニの情報を寄越して貰うよう頼ったのだった。

 整えられた書類の束は、当然公的なものではない。平民のカインにも分かるよう平易な文章で書かれたそれは、わざわざ誂えてくれたものだろう。友情に感謝である。

 騎士団寮の自室の机に向かい、カインは内容に目を落とす。既に荷造りは済んでいる為、部屋は凡そがらんどうだ。後ろの椅子に腰掛けたユージーンが、興味深げに覗き込んでいる。


 アベイル・エルニ、26歳。エルニ公爵家の子息である。上に兄が一人、下に弟が一人、父であるエルニ公爵家当主は、この国の宰相でもある。

 貴族のみの通うことを許された王立学院に16歳の時に通い始め、卒業後も研究生としと在学している。それ故家業を手伝うこともなく、彼の身分は未だ学生のままだ。

 現国王たる女王陛下の第一王女、エヴェリン・ヴィンフリートと婚約を交わしたのはアベイルが12歳を迎えた年のことである。7歳年下のエヴェリン王女は5歳、幾分か年が離れてはいるが、貴族の結婚には良くあることだ。王家に籍を連ねるにはそれなりの身分が必要となる。公爵家であればそれは十分に果たせた。年の差はあれども二人の仲は良好で、どちらかといえば兄妹のような関わりではあるものの、そのまま順当にいけば王女が成人すると同時に婚姻ものと思われていた。


「婚約の式の日のことは覚えているよ、国中の貴族が集められて盛大に執り行われたから」

「ユージーンも参加したのか?」

「まさか、俺の家みたいな零細貴族はお呼ばれもしないさ! 王都をあげての大きな祭りだったものだから、俺ら子供らは出店なんかを楽しんだもんだよ」

「それは羨ましい」


 二人の関係が変容したのは、16歳を迎えたエヴェリン王女が学院に入学してからのことである。


「ああ、襲撃事件があったのがこの年か」

「そうそう、三年前の学院に魔獣が現れた前代未聞の事件。あれで当時の学長と第三騎士団の団長が飛ばされ、当時副団長だったジョルジュ団長が引き上げられたんだよな」

「そんなこともあったな」


 学院魔獣襲撃事件――後にそう称される事件が発生したのは、エヴェリン王女の入学した日のことである。入学式、多数の生徒が集った中で起こった魔獣の襲撃。本来、学院は魔獣除けの柵が施され、警備兵が学舎を囲んでいる筈である。だが、柵の一部が故意に壊され、兵の配置は何故か抜け漏れがあった。学院内の要人――王女を狙った恣意的な犯行であると、今では考察されている。実行犯は未だ捕まっておらず、当時の学院長と第三騎士団団長は降格された。

 現れたのは狼型の魔獣が三体。式場に使われた体育校舎は当然の如く恐慌状態に陥った。その騒動の中で、教員に次いで生徒の避難誘導に一役買ったのが、エヴェリン王女である。落ち着いた新入生への声かけ、誘導。王者たる風格を見せつけた堂々とした態度は、後の語り草になっている。

 それこそがエヴェリン王女の持つ、“ギフト”である。王者特有の威厳、カリスマ性。有無を言わさず他者を従えることすら出来るとも言われる技能を、彼女は他者を助ける為に遺憾なく発揮したのだった。

 それにより新入生たちは無事避難することが出来た。しかし逃げ遅れたエヴェリン王女の前に、無情にも狼型の魔獣が立ち塞がった。二体の魔獣は衛兵が討伐したものの、間に合わなかったその内の一頭である。

 あわや襲われんとしたその時、助けに入ったのがフィリップ・アダムス侯爵令息であった。同じ新入生の身でありながら、倒れた警備兵から得た剣を手に果敢に魔物に立ち向かう様は、勇敢そのものだったという。

 片腕を負傷しながらも王女を守り抜いた姿勢から、表彰されるに至ったフィリップを、エヴェリンは大層褒めそやしたそうだ。

 それがアベイル・エルニの嫉妬を駆り立てた。


「婚約者のいる者と腕を組むなどと、と人前で糾弾したらしい」

「腕を組んでいたのか? エヴェリン王女とアダムス侯爵令息が?」

「いや、怪我をして不自由な生活の手助けをしていただけらしい。何せ、命の恩人だ」

「なるほど。……男の悋気は見苦しいな」

「全くだ」


 エヴェリン王女の冷静な釈明も、アベイルの嫉妬を掻き立てるばかりだったようだ。

 その日以降、アベイルはフィリップに対して数々の嫌がらせを行うことになる。教科書や備品を隠すなどの地味な嫌がらせから、陰口を叩いて評判を落とそうとする、足を引っかけて転ばせるなど、その内容は多岐に渡る。

 大人しい嫌がらせの内は、まだエヴェリン王女も忠告で済ませられた。しかしアベイルの悪事が決定的になった事件が発生する。

 階段にピアノ線が貼られ、引っかかったフィリップが階段から転がり落ちたのだ。


「これは酷いな。何で傷害でしょっぴかれてないんだ?」

「直接的な物証がなかったそうだ。ピアノ線からは痕跡が出なかったらしい。とはいえ、直前に音楽室でアベイルがピアノを弄っているのを見た者が複数いるそうだから、まあ確定だろうな。本人は調弦していたと主張したみたいだが」

「苦しい言い訳だな」


 階段を降りるフィリップをエヴェリン王女が手助けしていた折のことである。下手をすればエヴェリン王女の御身に傷を負わせるところであった。

 流石に王室としても問題にせざるを得ず、「事態の把握と対策を出来ていなかった」咎で宰相たるエルニ公爵に一月の謹慎が申しつけられた。

 当然アベイル本人も停学処分となり、実家に閉じ篭もる内に、その狂気を募らせることになった。

 謹慎開け、学園に戻ったアベイル・エルニは、エヴェリン王女に詰め寄ろうとしたところを周囲の生徒に捕縛された。その懐にはナイフが隠されていた。また自宅を捜査したところ、大量の刃物や毒物が発見されたという。

 王女に対する害意は明白だった。


「ここまでしても処刑されないとは。お貴族様の身分も随分なものだな」

「まあ、そうだなあ……実行には至らなかった、実際に王女が害されてはない、と言うが、これが公爵令息でなければ即処断ものだったろうよ」

「これで謹慎で済むとは、特権が過ぎるんじゃないか?」


「……実際のところは、エルニ公爵令息は“ギフト”持ちなのではないかと噂されている」

「……“ギフト”持ちか。それは、確かに、処遇が厄介だ」

「何の“ギフト”なのかは定かでないみたいだけどな。それで処刑は免れ、他国にやる訳にもいかず、地方で飼い殺しにしようという腹積もりらしい」

「巻き込まれた側はとんだ災難だな」

「お前を含めてもな、カイン」


 はあ、と溜め息を吐いたカインは、書類の束を机に置いた。

 読めば読む程、気が滅入る。書かれた悪事もさながら、あの人格者と噂のエヴェリン王女に対して、嫉妬心を抱き危害を加えようとするなど。有り得べからざる行為だ。

 稀代の悪役令息、アベイル・エルニ。悪役令息というのは、今流行りの劇中人物から取られた徒名である。

 女性から多くの支持を集める恋愛劇、悲劇のヒロインが艱難辛苦を乗り越え、紆余曲折の末に身分の高い想い人と結ばれる。そんな有り触れた物語が現在民衆の間では大流行しており、そこに出て来るヒロインの本来の婚約者――真実の愛に目覚めたヒロインに散々嫌がらせをし、遂には婚約破棄される哀れな令息が、劇中では悪役令息と呼ばれていた。

 正しく今回の出来事にぴったりであると、言い出したのは誰か知れないが、アベイル・エルニは悪役令息であるという噂は見る見る内に広まっていった。

 悪役令息と名高い、アベイル・エルニ。そんな相手を、カインはこれから護衛しなければならないのだ。相手の人格は任務に関係ない。関係ない、が、命を張ってまで護るべき相手なのだろうか。そこの認識がぶれると、咄嗟の判断に関わってくるだろう。

 机で頭を抱えるカインの肩を、後ろからユージーンが軽く叩く。

「ま、なるようになれ、だ。俺はお前が何を選択してもお前の味方だぞ、カイン」

「そうは言うがなあ……」

 ひたひたと押し寄せる憂鬱を振り払うことは難しい。慰めるユージーンを前に、カインは先行きを思い、低く呻いた。


 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇


「ここまで来ると随分と風景が変わるね。資料では見ていたが、余り豊かな土地とは言えないようだ」

 ヒルデと名付けられた灰斑の馬に揺られながら、アベイル・エルニは呑気に呟いた。

 実際、王都付近では田畑や森などの牧歌的風景が広がっていた。それが南下するにつれ、次第に荒れた大地が広がっていく。農作物の育ちにくい土壌だとは聞いていたが、想像以上のようだ。

「農耕が盛んには見えませんね。芋類は育つ、と聞いていましたが」

 栗毛の牝馬、オリガに騎乗しアベイルに併走しながら、カインは答える。彼と会話を交わすことに、もう抵抗はなくなっていた。

 舗装はされていない田舎道を、馬を軽く走らせながらアベイルは辺りの様子を見回していた。馬車の時は窓からしか見られなかったから、と馬上で揺られるアベイルは随分と開放的だ。細い銀糸の髪を緩く首の後ろで括り、菫色の瞳は興味深げに周囲に目を走らせている。

 赤茶の土が目立つ畑は、背の低い植物が疎らに植わっている。手入れをしているらしい農民が時々こちらに気付き、訝しげに目線を寄越している。領主が交代になるということは知っているだろうが、まさか貴族が馬車も使わず碌に従者も伴わず、馬でパカパカやって来るとは思っていないのだろう。不審に思われこそすれども、特に反感も買わず、カインとアベイルは道を進んだ。

「目立った特産品もないのに、課せられる税ばかり重い……前の領主も中々酷なことをするね。国の直轄領の扱いになってからは、少しマシになったろうけど」

「……税は、軽減されるのですよね?」

 前任の領主は大層がめつく、民に重税を課し私腹を肥やしていたという。民衆の領主に対する悪感情は大変なものだろう。その上、新たに赴任してくる領主が悪役令息と名高い――この田舎にどれだけその名が浸透しているかは知れないが――アベイル・エルニである。余程の減税でもしない限り、領民の心を掴むのは難しいように、カインには思えた。

「ああ、川だ」

 カインの問いには答えず、アベイルは呑気に前方を指す。カムセト領を大きく両断する、セロー川だ。北は王都を越えた山奥から、南はカムセト領を過ぎ遙か南方の海へと至るエーネル川、その支流である。

 土手に上がり馬を併走させる。領主の館は、この川をもう少し下り越えた先だと言う。川幅はさして広くはない。三馬身程だろうか。その割に土手は広く盛られている気がする。

「この辺りは雨量が多いから、度々氾濫が起きるそうだね。その備えでもあるんだろうが」

 カインの視線に気付いたのか、アベイルも川中を見やりながら解説する。流石この地の領主となるだけあって、領土のことは頭に入っているらしい。

「新しいですね」

「そうだね、ここ最近で作られたものなのかも知れない」

「不作も氾濫が原因でしょうか?」

「要因の一つではあると思うよ」

 道中辺りの観察を怠らないアベイルは、領土のことを良く知ろうとしているように見受けられた。三年の任期、果たしてその間に彼は領主として認められるだけの成果を出せるのだろうか。不安の中に仄かな期待を抱きつつ、カインはアベイルの隣を並走する。


 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇


 宿街を出て数日、あれ以降襲撃もなく、カインとアベイルは順調に領主の館へと辿り着いた。カムセト領西南のアーガストの町、その町外れにある小高い丘を下った処に、屋敷はあった。元は白かったろう煉瓦壁は薄灰色に汚れ、端の方などは蔦が壁を這っている。広さは単身のアベイルが住むに足りるだろうが、全体的に小綺麗さには欠けていた。

 馬から下り、錆かかった正門を開ける。領主の到着であるのに、出迎えはない。

 アベイルは頓着せずに、ずんずんと合間に草の生えた石畳を歩き屋敷へと向かった。馬の手綱を引くカインは、慌ててその後を追う。

 人の気配に気付いたのか、到達するより前に屋敷の扉が開いた。

「お待ちしておりました、領主様」

 扉から出てきた執事服の青年が、慇懃無礼な態度で言葉を発した。明らかにお待ちしてはいなかったろう、とカインは内心憤る。出て来た執事は若く、カインと同じか或いは年下のように見受けられた。

 見事な金髪は後ろに掻き上げられ、濃紺の瞳はこちらを睥睨している。とてもではないが、主に対する表情ではない。不機嫌そうな表情を隠しもせず、若き執事はアベイルに上辺だけのぞんざいな言葉を吐いた。

「私はこの館の管理を任されている、執事のフラウと申します。本日お越しになるとは思わなかったもので、歓迎の準備も間に合いませんでしたが」

 全く歓迎する気などなかったろうに、フラウと名乗った執事はそう宣う。管理を任されているなどと言いながら、荒れた屋敷の有様を隠そうとしないことから、新しい領主への敬意は欠片も感じられなかった。

「昨年、父が流行病で亡くなりまして。それで私と妹が、この屋敷を取り仕切っております。――フレア!」

 フラウは後ろを振り向くと、屋敷の中に向けて叫ぶ。程なく、メイド服を着た女性がフラウの隣に並んだ。

「こちらがメイド長のフレアです」

「……どうも」

 フレアという名のメイドは、ハスキーな声音で挨拶にもなっていない挨拶をすると、仏頂面で頭を下げた。その顔立ちを見てカインは驚いた。フラウとフレア。白い肌に幼げな相貌、胡乱な色を湛えた濃紺の瞳、鮮やかな金髪が首の後ろで切り揃えられた所までお揃いの、まるっきり同じような貌がそこにはあった。

「……双子」

 思わずカインは呟く。四つの濃紺が、じろりとカインを睨んだ。

「まあ、そういうことです。フレアが屋敷をご案内しますので、お荷物はこちらに」

「……では、どうぞ」

 全くやる気のないメイド長は、のろのろと屋敷の中に手を向けだるそうに案内をしようとする。しかしそれを、アベイルが制した。

「いや、構わない。そういうのはいいから、カインに厩舎だけ案内してやってくれ、フレア。僕は直接執務室へ向かう」

 フレア、と。アベイルは目の前に立つ、フラウと名乗った執事服に向かって、告げた。

 鼻を鳴らした執事服が、不服そうに言い返す。

「恐れながら、私めはフラウでございます。フレアはそちらの……」

「そういうのはいい、と言った筈だ。フレア」

 再度、何の迷いもなく、真っ直ぐに、確信を持って。アベイルは“彼”を“フレア”と呼んだ。


 濃紺の四つの目が激しく瞬く。顔を見合わせた双子は、無言で暫し見つめ合う。そして同時に、はああと大きく溜め息を吐いた。

「えー、何なの……ちょっとからかってやろうと思っただけなのにぃ……」

 ぐしゃぐしゃと整っていた金髪を崩しながら、執事服が甘ったるい声で言う。先程まで執事は若い男だと思っていた。それが、少し髪型を変えただけでがらりと雰囲気が変わる。悪戯そうな目でこちらを見つめる女に、カインは戸惑いを覚えた。

「そ、私がフレア。そっちのメイド服着てるのがフラウ。何で分かったのぉ、領主様?」

 甘ったるい声音は妙に勘に障る。小首を傾げアベイルに迫る女に、カインは慌てて間に割って入った。手綱を引かれた馬たちが、不本意そうに鼻を鳴らす。

「あらぁ、貴方は? 領主様の従僕?」

「……カインと言います、領主様の護衛騎士で……」

「フレア、カインに厩舎を。フラウは執務室へ」

 こちらに興味を持ったフレアが、艶めいた目線を向けて来る。それを遮るように、アベイルが頑なな声を上げた。

「何よ、つれないわね」

「……着任早々偉そうに……」

 双子はぼやく。入れ替わりの件と言い、どう考えても上司に対する態度ではない。それを受けてかアベイルは、ついと眉根を上げた。

「君たちのお父上については残念だったと思うが、少なくとも君たちの仕事は世襲ではない筈だ。王都に届け出が出ているとは思えない」

「……はあ? 何、脅しぃ?」

「脅しではなく、事実だよ。だけどこの領を治めていく上で、圧倒的に時間が足りないのも事実だ。新しい人員を選別するだけの時間も惜しい」

「……何が言いたいの」

「真面目に仕事をしてくれる分には、不問にするという話だよ。重ねて言うが、カインに厩舎を。僕は執務室へ。後は屋敷の管理をしっかりしてさえくれれば、文句は言わない」

 にこりと。有無を言わさぬアベイルに、双子は、戸惑ったように顔を見合わせる。どうも話に聞いていた悪役令息と違うようだぞ、と。その気持ちはカインにも分かる。アベイル・エルニは何者なのか。その疑問を共有出来る相手が出来たことは喜ばしい、尤もこの双子の態度に好感は全然抱かないのだが。

 双子はまた見つめ合った後、再び溜め息を吐いた。

「あーあ、つまらない……分かりましたぁ、そっちの色男、厩舎に案内するからこちらへどーぞー」

「……領主……様、はこちらへ」

 執事服の女性、フレアはカインの手を引いて庭の方へ。メイド服の男性、フラウは仏頂面のままアベイルを伴い屋敷へと赴く。

「ねーぇ、何であの領主様、あたしたちの入れ替わりに気付いたのぉ?」

 距離感のおかしいフレアは、カインに腕を巻き付けしなだれかかりながら庭を歩く。

「それは自分が聞きたいですね」

 頬を引き攣らせたカインは、何とかフレアを距離を開けようと二頭の馬に縋るように歩く。女性は嫌いではないが、積極的な女性は苦手な部類だ。

「ふーん、……変な領主様」

 その発言には至極納得出来たので、カインは黙して厩舎まで歩いた。


 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇


 執務室は大変な有様だった。

 前の領主の趣味だろうか。金の装飾の施された無駄に華美な机、高級そうな革張りのソファ、そこかしこにある用途の分からない壷や甲冑などの装飾品。

 それらは今や、数多の書類や書物で埋め尽くされていた。

「ああ、カイン、良いところに来た。ちょっと捜し物を手伝って欲しいのだけれど」

 壁一面に建て付けられた本棚、そこからバサバサと乱暴に書物を取り出しながら、アベイルは振り返ることもなくカインに告げた。

「いや、何をやっているんですか、貴方は……」

「だから、捜し物だよ。そうだな、収支報告書は王都の方に提出されていたものを持ってきたから……河川と堤の配置図、昨年度の死傷者が書いてある書類も必要だな……後は農作物の収穫量の推移と、魔物対策の資料と、自警団の編成も知っておきたい」

「一体、何をしでかそうって言うんですか……」

 片っ端から本棚の資料を取り出しては、無造作にその辺りに放り散らかす。恐らく整頓の類は苦手なタイプの人間なのだろう。どちらかと言えば几帳面な性質のカインは、床に投げ捨てられた書物を積み重ねながら、呆れて訊ねる。

 アベイルは不思議そうな顔をしながら振り返る。乱雑に本の重ねられたソファの空いている場所に腰掛け、首を傾げた。

「何って、領地経営だよ」

「それは、分かりますが……余りにも、性急なのでは?」

「性急どころか! 余りにも遅すぎる、今から対策しても間に合うかどうか……」

 怪訝な表情を抑えられないでいるカインに、アベイルは両手を広げ大仰に主張する。それでも納得できないでいるカインを見て、トントンと机を指先で叩いた。

「この領には問題が三つある。何だか分かるかい?」

「……税と……農作物の不作、水害、ですか?」

 カインは思い当たる節を答える。アベイルは机を叩いていた指を口元に当て、愉快そうに口の端を上げた。

「君は余程、税が気になるようだね」

「まあ、それは……カムセト領の重税は有名でしたから」

「なるほど、確かに前領主の暴利は酷かったし、直轄領となってからもさして軽減されてはいないね」

「っだったら、」

「だけど、今税を下げる訳にはいかない」

 ぴしりとアベイルは三本指を立てる。

「僕の考える問題は、水害・疫病・魔物による被害、この三つだ。農耕の問題はその副次的なものだろうね」

 指を折り曲げながらアベイルが言う。己の予測と全然違うことに、カインは少しばかり恥入った。領地については完全に勉強不足である。

 アベイルはついと目を細める。

「特に水害が問題だ。先程川縁を歩いてみたけれど、重なる氾濫の所為か碌な堤も設けられていなかった処が多い。それなのに、間もなく雨季が来る」

「それが急いでいた理由、ですか」

「そう、そして安易に税を下げられない理由でもある。民を護る為の貴重な財源だ」

「……っそれは王都の方から出されるべきものでは?!」

「それだけでは足りない。前領主の散財で金庫はすっからかん、おまけに予算も減らされ、このままでは冬までに多くの死傷者が出るだろう」

 予測というより確信めいた口調で、アベイルは断言した。それこそ“安易”に減税を望んでいたカインは、二の句が継げない。

 僅か微笑みながら、アベイルは手近な書物をぱらぱらとめくる。乾いた喉で、カインは告げた。

「……民衆は、納得しないでしょうよ」

 新しい領主が来て、望むことは生活の改善だ。暮らしが楽になることを祈って、叶えられなかった時の失望は計り知れない。下手をすれば暴動が起きかねないようなことを、アベイルは言っているのだ。

「構わないさ」

 散らかった資料の合間で、アベイルはくすりと笑う。

「どうせ嫌われ者の悪役令息だ。一つくらい悪評が増えたところで、どうということはない」

 困惑するカインの前で、菫色の瞳が空虚に、笑っていた。

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