第9話 ボルツマン分布から合理的に設定する”普通”

 9.ボルツマン分布から合理的に設定する”普通”


 有美がお祝いだからと、今日のスイーツセットを頼んだ。有美も同じものを頼んだ。望はマンデリンだけ。深煎り党のようだ。私の父も深煎り党なので話が合うかもしれない。

「30分位しかないから全部は無理ね。どの色の女性を説明してもらう?」

 少しだけ恥ずかしい気持ちになった。その法則に従えば次は、私の筈である。でも望は渉のいないことをいいことに、有美の家に2人きりで会うのだ。なにもない訳がない。聞きたいのは、有美との関係だった

「じゃあ望、桃色でお願いします」

「そうきたか?」

 望の予想と違っていたようだ、紫の話はこの後の有美の居ない飲み会で聞く、有美よりも早く

「バナナ魚日和の話からでいいかな?」

 望は、桃香との関係を説明した。

 一緒にいて情が湧いたのだろうというのが、桃香が自分を好きになった理由だろうという見解だった。岡目八目、望は、終始自分を過小評価する。

 自分から声をかけなかった理由は、付き合うには時間も金も必要だったがそのどちらもあの頃にはなかった。親の小遣いでデートするのは違うと言った。

 先ほど盗み聞きした有美と望の会話が蘇った。でもそれは理由にならないとも思った。要するに桃香にそこまでの魅力が無かったことの望の謙譲なのかも知れない。

 碧を奪った男が、桃香に接触し始めたと言うと有美が口を挟んだ

「そいつ、お前に恨みでもあるのか?」

「”そいつ”、紫さんに惚れていて、中学の時、告白して断られたらしい」

「なるほどね、それで望は、桃香に惚れている気配を隠したわけだ」

 有美は凄いと思った。まともにやり合ったら有美には敵わない。私には瞬時にそこまでの推理はできない

「信じたくはないけど、そう仮定すると辻褄が合ってしまう。その時は、ももちんに碧さんのような想いをさせる訳にはいかないと思った」

 有美は笑って

「えらいのに取り憑かれちゃったね、ご愁傷さま」

「”そいつ”、中学では僕よりずっと頭良くて、同じ高校行くことはない筈だったのだけど、ランクを落としてまで同じ高校を受けたみたいなんだ。

 まあ、中学1年の時にサッカーの特待で有名校からスカウトが来るぐらい運動が出来て、容姿端麗、頭脳明晰だった。紫に袖のされたのが余程衝撃だったんだろうな」

 5月に会った紫の顔が蘇った。確かに紫は大人の雰囲気をまとった美人だ。有美も美人だが種類が違う、有美はどちらかというと知的で徒(いたずら)な雰囲気をまとった美人だ。脚光を浴びたことのある中学生ならば私を含めた3人の中で確実に紫を選ぶと思った

「頭脳明晰って中学生の頃の話でしょう?今の望と比べたらどうなの?」

 望はコーヒーを口に含むと

「現役のセンター試験の帰りに、紫さん達と会話していたら”そいつ”が会話に割り込んできたけど、全然会話にならなかった」

「やっぱり、ボルツマン分布のX軸の位置がちがうのね」

「有美さん、分かっていると思いますが、僕は有美さんや菫さんのように頭良くありません。でも紫さんと長く一緒にいたから才媛と会話できる作法が身についているだけなのです。だから過度な要求をされても準備がないと無理です」

「ボルツマン分布に従えば、頂点のX座標はIQ105か、その±10が好む思考を”普通”と定義する。だからテレビは”普通”が好むものを作る。でも望はテレビなんか面白くないだろう。ボルツマンは実験室で人類の公理を見つけてしまった。

 いや、話をずらすわけにいかない。

 普通のそいつはよくお前達に話しかけたな」

「僕が美人3人と話していたのが気に入らなかったんでしょう。僕を蔑むことを終始言っていましたから。それに”まっきー”狙いだったかな」

 熱力学を学ぶ前にボルツマン分布とマクセル分布は認識しなければならない。右翼の魔女と呼ばれる有美の言葉を聞いて、分布に拠らず肩書きに拠る多くの社会学者が私の中でペテン師に変換された。あくまで有美の見解だが、私には十分な説得力があった。

 愛美がこの大学になじめなかったのはこういうところだ、愛美はボルツマン分布を無視して熱力学に入って訳が分からなくなったのだろう。

 それはともかくとして、新しい女性が登場した。”まっきー”?黄色に関係あるなら危険だ。私は条件反射するように望に問うた

「”まっきー”って?」

「紫さんの高校の友達で、かつ、桃香の幼なじみの人。桃香に取り憑いた呪いだ」

 有美から会話を奪って申し訳無いと思ったが、構わず望に尋ねた

「呪い?」

「ああ、人から見えるものに関しては、ももちんには、まっきーより優れているものが何もなかった。容姿も、学力もまっきーより劣っていた。ももちんの心の闇は、幼なじみのまっきーに対する劣等感だったと思う」

 有美が聞いた

「まっきーって美人だったの?」

「美人だな、奈緒みたいな感じの美人だった。特に”そいつ”は巨乳好きだから、制御が利かなかったんだろう。僕が話せるならば自分も話せるだろうって」

「望も桃香を忘れてまっきーに鼻の下を伸ばしていた訳か」

 有美がからかった。望は笑って

「まっきーは美人だけど好みじゃないんですよね。紫さんも水っぽいし。僕はどっちかって言うとかわいい感じの方が好きなんですよ。もう一人の女性が好みでしたね。会話の最中ずっと彼女を意識していた。相手が選ぶかどうかは別の問題ですが」

 黒羽量子だと直ぐ分かった。有美は横目で私の顔をじっと見て

「ふーん、かわいいのが好きなのねぇ~」

 望はそんなことは気にせず続けた

「すでに、僕の話題が2人の会話に登場していたか?まっきーはももちんの気持ちを知っていたみたいで、紫さんに食ってかかっていたな。

 紫さんが僕と付き合っているのかと直言して憚らなかった」

「まっきーっておっぱい女と違って随分筋の通った、いい娘じゃないか」

「だから、ももちんは劣等感を拭えなかったのだけどね。4人で話しているとき、こちらを見ているももちんを手招きして誘ったんだけど、会話に入れず逃げちゃった。

 もう一人のかわいい女性が追って連れてくると言ったのだけど、まっきーがその娘を制して会話に参加させなかったんだ。

 もし、あのときももちんが会話に参加していたら3人の前でデートの約束をしていることを告げたのに」

 桃香が小夜に似ているような気がした。私の推測が正しければ、望は高校の時の心残りが小夜に反映しているのだと思った

「気の毒だと思うが、同情はできないな。おまえのことだから、かわいい娘に声をかけずに、黙ってももちんとデートしたんだろう」

 望はコーヒーを飲み干して答えた。桃香とのデートは大学が合格したらという条件付きで、望が受験を失敗して立ち消えになったそうだ。一方もう一人の女性。私の手帳に望の絵が残る”すんすん”こと黒羽量子は、今付き合っている人との未来予想図には、捨てられて女手一つで子供を育てている風景しか見えないと言っていたそうだ。望がどうして別れないのと聞いたら”なんでだろうね”と答えただけだった。

 そこで有美の質問に対する量子の話を終わりにした。私はこの先を知っている。

 望は紫の前で量子に駆け落ちしようと提案したのだ。


「”そいつ”は結局高校の3年をお前に嫌がらせするためだけに費やしたのか、中学時代が頂点で、あとは落ちる一方の人生か。ガキの頃に成功しちまうと後は惨めだな。努力をしないことを憶えちまうから」

「もともと”そいつ”の定義は間違えている。別に僕は紫さんと付き合っていたわけじゃないけどね。でも他の人には付き合っているように見えたんだろうな。

 労力の割には何も得なかった。いや、碧さんと寝たか」

「まあ、お前は嘘を吐かないから本当なんだろうな」

「紫さんとデートしたかったな」

 5月の記憶が蘇る。私は咄嗟に言葉が出た

「今でも紫さんとデートしたいと思っている?」

「今はもういいかな」

「なんで?」

「もうあのときの紫さんじゃないと思うから」

「望は結構冷たいんだね」

「菫さんや有美さんならきっと違うよ」

「どういうこと?」

「紫さんは未来から来た人だから、そう、来年の秋分の日から来たらしい。だから今がどういう状態か分からない。

 少なくとも現役のセンター試験の日までは僕の知っている紫さんだったが」

 いきなり現実離れした話を真顔でされても対応に困ってしまう。有美が助言した

「今日はよく喋るな。私には話さないことでも菫にはすんなり話すんだな」

「この話は、紫さんの話と一纏めの話です。今日は全てを話す機会が出来たので、全て話す事ができました。きっかけは菫さんかもしれませんが、菫さんだから話した訳ではありません」


 有美は望に向かって

「ズボンから尻尾がはみ出ているぞ」

「やべぇ〜菫さんに僕の正体がバレてしまう。10分程トイレ行って直して来ます」

 望は席を立った

 有美が私を凝視している。有美は徐に鞄からメモ帳を取り出し何かを書き出した

「住所だけで家に来られる?」

「はい」

「一応、電話番号も書いておくわね(スマホのない時代です)毎朝お弁当を作る位だから腕には覚えがあるわよね」

 私は何も答えられなかった

「明日の14時に私の家に来て。万障繰り合わせよ、来なければみくりを望に紹介する」

 有美のこのあとの言葉は盗み聞きをしていたので予想ができた。そして、私は泣くことしかできなかった

「これで菫は2番手だね。ショートカットは手強いが、なんとかしてくれることを信じている」

 力強く

「なんとかします」

 有美が微笑みながら

「みくりを紹介したら90%の確率で望はみくりと結婚する」

「そうなんですか?」

 他に相槌の言葉が見つからなかった

「10%は別れる。そして私や渉の縁を断ち切る。望はそういう男だ。

 仮に私が渉と別れて、望と付き合っても30%の確率で別れる。

 でも明日、菫が笑顔で私の家に来たら98%の確率で上手くいく。

 私の希望は望とずっと友達でいたいのだ。お前とくっついてもらうことが私の最大の希望だ」


 今日は、涙にうってつけの日だ。でもなんで望と上手くいく事が泣くほど嬉しいのだろうか?

 いつから望の事が好きになったのだろう。そんなことはどうでもいいや。

 望が帰って来た

「やばい、やばい正体がバレるところだった」

「そろそろ時間ね、出ようか」

「僕が払いますよ」

「いいえ、私が…」

 有美は笑って

「今日は、気分がいいから私が全部おごる」

 望が大げさに頭を下げて

「ごちそうさまです」

 と運動部みたいな振る舞いをした

「ごちそうさまです。ありがとうございます」

 私も遠慮がちにそういった

「今度は4人で来ような…望」

 望は複雑な表情をしたのを見逃さなかった。


 店を出ると望に聞いた

「聞かないの?」

「何を?」

「いや、なんでもない」

「望は何か嫌いな食べ物ある?」

「刺身とか生魚が苦手かな。だから旅行とかは食事が憂鬱なんだ。

 でも菫さんとか有美さんぐらいの美人と一緒なら笑顔で食するけどね」

「なんで?」

「旅行がつまらなくなるだろう」

 望とちゃんと話したのは今日が初めてだが、望らしいと思った。

 <つづく>

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