マクスウェルの魔物

ひとえだ

第1話 高嶺の花

 1.高嶺の花

 

 夢を見ている。19年の人生の中で夢と現実を認識し違えた経験は無い。私、佐々木菫に今起こっているのは夢である。


 ここは景色が良いが、風が肌寒い。眼下には故郷の町が広がっている。ただ私にはこの角度から観た町並みの記憶は無い。どうやら私は崖から故郷を見下ろしているようだ。


 気付くと自慢の髪の毛に触れられない。そればかりか手すらない。私は植物になっているようだ。こんな夢を見るのは疲れているからだろうか?


 視線を感じた。ずっとこちらを見ている。大学の同期、富樫望だ。髪の毛のない私を見られるのは恥ずかしい。

 ・・・ああ、これは夢だった。


 望は随分長いこと私を見つめている。なんで私のことをずっと見ているのだろうか?望が凝視するのは私でなくて小夜だろう。


 学校では見かけない女性が望の肩を叩いた。しばらく2人で何かを話しながら私を眺めていた。さすがにここまでは会話は届かない。


 こんな美人の知り合いがいるならば、小夜のような醜女ブスに声掛けることなんてないのにと思った刹那、この女性に対する所在のない憎悪が芽生えた。


 そういえば、この女性には見覚えがあった。この女性、5月の連休に帰省したときに駅で会った人だ。


Ψ Ψ Ψ Ψ Ψ Ψ


 迷っている老婦人に声を掛けたら、偶然、同時に別の女性も老婦人に声を掛けた。世間話などするつもりは無かった。

 老婦人は、無類の話好きな性分らしく、相手が話していることに幸福を感じるようだった。世間話だけでなく、大学では何を学んでいるかまで聞いてきた。


 彼女は久保紫と言う名前だった。”ゆかり”という字が紫ということで、”すみれ”の私と併せて老婦人は

「色のお名前の方は親切な方ですね」

 と不可思議な法則の仮説を立てた。


 全般的に老人との会話は謙譲の連続だ。まともに付き合ったら精神的な疲労が激し。でも、一緒に会話している女性が数学に心得があるので頼もしい。


 紫は地元の学生と言っていたが、学部については言いたくなさそうだった。私は察して自分がB大の理学部の学生だと告げた。老婦人は聞いた事の無い学校で申し訳ないと言ったが、紫は笑顔で、自分が医学部に在籍していることを語った。


 老婦人の興味はもっぱら女医の卵で”こういう優しい先生に診てもらいたい”と何度も繰り返した。


 ただ紫は、自分がサービス業には適性がなく、自分の能力は別のところで生かしたかったと愚痴を言った。


 紫は、1つ年上の地元の医大生で、家庭の事情でこの進路を選んだといった。紫の両親は開業医で、自分の子供に引き継ぎたいが、紫の弟が成績が悪い上に不登校で医者になる見込みが皆無であった。

 本人は直言していなかったが、きっと地元の評判の医者で、先生が年老いた後にもこの病院を継続して貰いたい地域の期待を背負っているのだろう。


 一方私は、紫と同じ大学の工学部に合格したが、折角私立のB大が受かったので東京に行きたいと言った。私のわがままを5つ離れた社会人の兄が、学費を援助するとまで言って親を説得してくれた。境遇が真逆である。


 私の場合地元に残ることが苦痛だったのがわがままの最大の理由だが、ここで解放して打ちあける必要も無い。


 紫は、私がB大の理学部であることに深い興味を持ったようだ。なんでも、高校時代は私の行っている大学で素粒子を専攻したいと思っていたらしい。

 社交辞令とは思ったが、授業に関することなどをかなり真剣に聞いてきたから今でも未練はあるようだった。


 ただ私は化学科で分析屋志望だったので、彼女が期待する情報は提供できなかった。もしかしたら小夜だったら話が合ったかもしれないと思った。残念ながら、世の中はそこまで都合良くできてはいない。


 紫は私との会話が楽しかったらしく、老婦人を東から来た板東太郎を越える列車に乗せた後も、紫の乗る電車を1回見送って話し込んだ。


 紫は私と同じ学校に行けなかったことを後悔している言葉を繰り返した。確かにわずか1ヶ月程の学生であるが、同期に人間的な苦痛を感じる人が殆どいないことは確かな事実である。

 同期の男子達も親切で紳士的だ。同期の筑紫奈緒は”お姫様になった気分”とまで言っていた。

 誇張でないことは私自身でも解る。幸福が日常化してそれが当たり前になっていたことが紫の言葉から気づいた。紫は別れぎわ過剰なまでのお礼の言葉を発し

「こんなに人と話して楽しかったのは何年ぶりかしら」

 と独り言を呟いて東に向かう列車に乗った。


Ψ Ψ Ψ Ψ Ψ Ψ


 望と紫は、旧知の仲なのだろうか、2人は親しくしていて、望も学校で見せない顔をしている。紫もあの日話したときの表情と似ている様な気がする。

 こんなに遠いのに2人の顔が鮮明に見える。ただ声は届いてこないのがもどかしい。


 紫は望の腕を取ると私に背を向けた。望は一度私に振り返り足を止めたが。女性が望の肩を2回叩いて今度は望と腕を組んで、また背を向けて歩き出した。もう望は振り向かなかった。

 

 私は泣いている。サイドにまとめた髪にさえ涙が届いている。時計はまだ6時になる少し前。鏡に映る顔が情けない。

 泣く夢ではないのに。


 ベットからでて、涙を拭って呼吸を整えた。全身を映す鏡に映る私は、いつもの私だ。太っていた頃の後遺症はお尻に残ってしまったようだ、胸に残ったら良かったのに。


 シャワーを浴びたいと思った。サイドにまとめた髪を解いてバスルームに向かう。

 鏡に映る私は両親から十分以上に美しい要素を引き継げたと思う。祖父が言うには美しかった母すなわち私から見ると曾祖母の全盛期に生き写しという。残念ながら写真は残っていないらしい。


 鏡には痛々しい妊娠線が身体に残っている。べつに妊娠したわけでないが、これも太っていた時の後遺症である。


 バスルームで下着を汚していることに気付いた。植物になる夢を見る前にいやらしい夢を見たのだろうか。


 下着のまま着替えを取りに行った。お気に入りの下着があったが、見せたい相手もいなかった。一度も着けたこともないが今日は着けてみようかと気まぐれ心がうごめいた。思えば数日後には月の使者も来るはずだ。


 山風で冷えた身体をシャワーで念入りに温めた。いや、布団がはだけていたのであんな夢を見たのだろう。寝相は良くない方だ。


 今日は試験の打ち上げでクラスの飲み会がある。幹事が奈緒で、奈緒から直接参加するように念を押された。


 学校ではわざと変な喋り方をしている。実は軽度の男性恐怖症で、その治療のためわざと、アニメの子供のような喋り方をしている。


 医者の指示でも医者に診てもらったわけでもなく、男性恐怖症の治療として自己判断で行ったものだが、入学して1ヶ月ぐらいには男性恐怖症は克服していた。


 これは”お姫様になった気分”と言った奈緒と友達になった影響が大きい。殆どの男達はこの社交的な巨乳美人の虜になっていて、しつこく私につきまとうような男は現れなかった。しかし、今更通常の喋り方に戻すわけにもいかず、4年間この設定を通すことにした。


 恐らく私しか知らない話であるが、奈緒は、小山小夜と付き合っている。私も6月くらいまで気付かなかった。小山小夜は女性であり、同性愛のカップルになる。


 私は女子校に通っていたので同性愛のカップルは何組か見たが、タチとネコがこれほど見た目ではっきりしているのは初めてである。小夜は髪型もショートカットで男前だ。

 ただ、容姿で言えば無作為に選んだ10人の男に、私と小夜を比較されても、10人全員を”私”と言わせる自信が有るほど容姿には恵まれていない。


 シャワーの温度を下げて髪を洗い始める。蓼食う虫も好き好きというが、夢にでてきた富樫望はいつも小夜を見ている。

 

 この男も謎が多い男だ。

 B大一の容姿端麗と詠われた鏑木渉と唯一会話の出来る一年生の異名を持つ。

 鏑木渉は学生と会話をしないことで有名だ。付き合っている彼女の勧修寺有美と望以外に会話しているところを見たことが無い。

 どうして望が渉の心を掴んだかは謎である。望と直接会話したことはないが、機会があれば話をしてみたいと思っていた。

「違う、違う、絶対違う。

 下着を汚したのは望のせいじゃない」


 バスルームに声が木霊する。なんで声がでてしまったのだろうか?

 蛇足になるかも知れないが、勧修寺有美もB大一の美人と詠われるが、”右翼の魔女”という通名とおりなの方が一般的だ。

 保守思想が強く、会話にリベラル臭がすると、容赦なく精神病院送りにされるという噂まである。


 いつだったか、渉と望と同じサークルの数学科の人が不用意にも学食で3人の輪に入ろうとしたことがあったが、拒絶されてしまったうえに、声を掛けた人が学校に来なくなってしまったという伝説さえもある。奈緒から聞いた話なので、誇張されたかもしれない。


「名探偵ビオラの名にかけて謎を解いてみせます」

 空しく声がバスルームに木霊する。私は何を独りで言っているのだろう?


 そんな望は、実は奈緒が好きな人でもある。奈緒は小夜との関係を終わらせて、望と付き合いたいと考えているようだ。


 望はそんな美人達と臆面も無く会話できるのに、小夜を選ぶ事が納得がいかなかった、というよりは気に入らなかったという方が感情に近い。数学の問題が解けなかった位気分が悪い。


 バスルームから出て身体を拭くと、丁寧に髪の毛の水分をバスタオルに移していった。

 

 この髪の毛は痩せる私を見つめてきた生き証人である。一念発起した高校2年の冬から伸ばしている髪も背中まで伸びた。


 自分で言うのも何だが、中学までは男性の視線を一身に浴び、気にいった能力の男は向こうから声を掛けてきて、私は気に入った男を選ぶ状態だった。


 私は、誰にも話していない特殊能力がある。子供の頃に気付いたのだが、兄にも両親にも話していない。


 私は大学の1番広い教室くらいの広さならば、どこで話していても他人の会話を聞くことが出来るのだ。とは言っても超能力者ではない。発した言葉が聞き取れるだけで、心の声が読み取れるわけではない。

 多数の声が一度に聞こえて頭が混乱することはない。実は視覚と一緒で注意して見ない物は視覚情報として脳に残らないように、意識しない音はただ、垂れ流されている。


Ψ Ψ Ψ Ψ Ψ Ψ


 中学の時に付き合った人は優しい人に見えた。

 でも彼は陰で容赦なく私の悪口を言った。しかも私の悪口を土台にして別の女性を口説こうとした。

 私は激高して女性を責めた。

 こういうことを繰り返しているうちに、クラスから村八分にされるようになった。

 私は、意固地になって勉強の成績で周囲を見下すようにした。

 そうなるとさらに、孤独を深めるようになり、担任も話したがらない状況にまで悪化していった。

 結局私の心を癒やしてくれるのは食べ物だけになり、家畜のように太っていった。


 高校は難関女子高校に合格出来た。

 男のいない環境は幾分心が癒やされたが、過食癖は治らず、全身鏡を見て号泣することが何度もあった。

 でも、過食を自分の意志で止めることは出来なかった。

 ただ、去年のセンター試験の日、この日の出来事は美容師が急病で予約をキャンセルされた位しかなかったが、塾から家に帰ると痩せたい衝動に駆られ、ダイエットを始めた。


Ψ Ψ Ψ Ψ Ψ Ψ


 今日に到って、お尻と妊娠線の後遺症を残して、注目を集めていた頃の体型に戻すことができている。胸の減量が最も顕著なのが残念だが…。


 お気に入りの下着を着けて、妊娠線を撫で、ため息を吐いた。何やっているのだろう私。


 地獄耳すなわち超・聴覚能力の話に戻るが、奈緒と小夜が同性愛者であることも2人の会話から気付いたし、奈緒が望を好きなことは奈緒の独り言から嗅ぎつけた。

 好奇心から3人の言葉に聞き耳を立てていた。


 望は真っ直ぐな男だった。コイツには表裏がない。奈緒が惚れる理由は納得できた。

 しかし望が小夜を好きなのは謎のままだ。単純に美的感覚が狂っているだけかも知れない。


 私は、今日の私が嫌いだ。なんでクラスの飲み会ごときにこんな気合いを入れてメイクしているのだろうか?

 <つづく>

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