第8話


「心配かけてごめん。保健室で目が覚めて、先生が松葉さんのおかげだって教えてくれて。重ね重ね、ありがとうございました」


 俺はもう一度彼女にお礼を言い、頭を下げる。できるだけ深く。息を吸うのも忘れて彼女の次の言葉を待った。


「どういたしまして。じゃあまた」


 だがやはり、あっさりとした返答を頂戴し、俺は予想外にもショックを受けていた。いや、彼女の方は普通の反応をしているだけなのに落ち込むのはおかしい。


 俺との会話を終えた彼女が再び本を開く様子をじっと見ていた。早く立ち去らねばと思うのに、なかなか足が動かない。ふと彼女の手に握られた文庫本の、ページの下に小さく記されたタイトルが目に入った。


「米澤穂信、好きなの?」


 彼女が読んでいる本のタイトルに見覚えがあった。これでも読書は好きなので有名な作家のことは大抵知っている。


 まさか俺が本の話題を振ってくるとは思ってもみなかったのか、松葉実里は「え?」と目を丸くして俺を見上げた。


「好きだけど、五十嵐くん知ってるの?」


「俺も時々読むんだ。面白いよな。特に『古典部シリーズ』が好きで、全巻読破したんだ」


『古典部シリーズ』は米澤穂信先生の作品の中でも老若男女問わず人気の作品で、高校生たちが繰り広げる日常ミステリーだ。単にミステリーのトリックが面白いだけでなく、個性豊かなキャラクターたちが青春の喜びや痛みを味わいながら、四苦八苦して前に進んでいく様が、読んでいてとても共感できる部分が多い。アニメ化もしているので、知っている人は結構いるはずだ。彼女の読んでいる本のタイトルが、まさに『古典部シリーズ』の一つだったのではないかと思って選んだ話題だった。


『古典部シリーズ』と聞いた彼女の目が、大きく丸く開かれていく。


「そう! 私も大好きで今読んでるとこなの!」


 ほら、とブックカバーを外して表紙を見せてくれる。だが俺には本のタイトルよりも、突然ぱっと花が咲くように笑う彼女が可愛らしくて、彼女の方ばかり見入ってしまった。


「面白いよな。俺、あんまり本読んでるとか周りのやつらに言ってないから、本の話する相手いなくて」


「それ、私も。なんか言いづらいんだよね。根暗なやつって思われてるだろうし……」


 そう言いながら松葉実里は周囲をさっと見回す。誰も俺たちが本の話なんかをしていることに気づかない。というより、関心がない。心地よくもあるけれど、教室という狭い空間においては、誰にも共有されないという寂しさが胸に詰まることがある。


「あの、もしよかったらだけど。また本の話とかしに来ていい?」


 俺はほとんど何も考えずにそう口にしていた。言ったあとで今、恥ずかしいことを言ってしまったんだと赤面する。だが、彼女の方は眉を上げて驚いていたものの、すぐに目を輝かせて頷いた。


「もちろん!」


 その笑顔が、俺の心を射止めたのは言うまでもない。人って、こんな簡単に恋に落ちるんだなと他人事のように思う。今、この胸の中で芽ばえた熱い塊が、これから膨らんでいくのか萎むのか、分からないけど明日が少し楽しみになった。


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