第7話

 なんと、師匠が勝った。

 失礼だとは思うのだが、びっくりだ。相手は元気な若手だったのである。

 師匠の連敗は7で止まった。

 僕は、鷦鷯ささぎ六段がとても弱い、と思っているわけではない。若い頃には金星戦という早指し棋戦で優勝したことがある。順位戦でも、一度はC級1組に上がったのだ。期待の若手の一人だっただろう。

 奥さんを亡くしてからすっかりやる気を亡くした、と見る人も多いけれど、本当にそうなのだろうか。直接尋ねたことはない。

 調べてみたら、師匠はデビューから4連勝していた。ちゃんと、強い新人だったのだ。

 薄い木の盤に、駒を並べる。文字が消えかかっているものもある。僕はいまだに、初めて買ってもらった盤と駒で研究をしている。

 僕はきっと、結婚できない。できたとしても、しない方がいい。

 あまりにも当たり前すぎて、気が付いていなかったのだ。その言葉を知って初めて、ちゃんと理解した。

 父親は、DVの被害者だ。

 罵られて叩かれて、いつも真顔だった。大人になってから実家に帰ったとき、僕は初めて母親に注意をした。母親は泣き始めた。嗚咽しながら、「そんな風に見えとったのが悲しくて仕方がない」と言った。

 僕はどうしていいのかわからなかった。父親がいなくなったと聞いた時は、ほっとしたのだ。これでもう、解放されたのだ、と。

 うちが特殊なことは、頭では理解している。けれども、仲の良い夫婦というものが、どうしても想像できないのである。

 師匠は、幸せな家庭を築いていたのだろうか。それが、将棋の強さにもつながっていたのだろうか。

 殴られるかもしれないし、失うかもしれない。しばらく、結婚について深く考え込んでしまった。



 千駄ヶ谷駅はほとんど使わない。

 棋士に会うと気を遣ってしまうからだ。特に今日はテレビ棋戦の予選であり、多くの人が会館に集まる。そんなわけで、代々木駅から歩くことにしている。

 知り合いに会わないのは楽だ。ただ、こちらの道の方が、都会っぽさが増す。そこは苦手だ。

 子供のころ引っ越して、最初はとてもうれしかったのを思い出す。誰も僕のことを知らないのだ。居心地がよくなる、と思ったがそうでもなかった。知らない人には興味を持つもので、「僕なのに」いろいろと知りたがって話しかけてくるクラスメイトがいた。

 街中ですれ違う人は、話しかけてくることはない。よほどのことがないと、プロ棋士だからとみんなが知っているような状況にもならない。

 僕はただ、自分のためだけに将棋を指したい。

 将棋会館が、近付いてくる。

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