散歩する客人達

猫煮

山中にて微睡む也

一 廃墟にて宿を借りる事

 サクリ、サクと少女の足元から音が鳴る。一面の銀の暗幕が、コンクリートと赤土、そしていくらかの瓦礫を覆い隠す月夜。


 凍える風の中、厚手の防寒具とガスマスクで身を包んだ少女が付けた足跡が、窪地の上に一つ。そして、進み続ける二つの影。


「やっぱりさ、朝まで待つべきだった。と、私は思うね」


 隣を進む小さな影に、比較的大きな影、すなわち少女が声をかける。


 それに対して、小さな影曰く。


「進行を停止した場合の食料の備蓄枯渇確率、+5%」


「だからその確率ってのを、どう求めてるって話よ」


「経験的学習の成果です」


 本人と同じく、地に足の付かない話である。


 小さな影は銀色の、あるいは灰白色の球体であった。よくよく耳をすませば、その中からプロペラの回る音が聞こえるだろう。球体に一つだけ付いた赤く光るレンズが、少女の方へとスライドした。


 周りの風景と相まって、薄汚れた雪玉にも見えるドローン。それと並進する少女はと言えば、フードの裏で不満げな顔をしているのだろう、不機嫌な声で重ねて問うた。


「まあ、なんでもいいけどさ。その経験的学習に依るとぉ、雪道で凍死するリスクと餓死するリスク、どちらが高かったんですかぁ?」


「……凍死する確率は+0.5%」


「で、リスクは?」


 そらとぶゆきだまはそれに答えず、クルクルと回りながら、進む速度を上げた。


 少女は「オイッ」とマスクの下で呼び止めたが、ゆきだまが止まらないことを見て取ると、低く唸って駆け足になる。


「こら、しょうもないことで体力を使わせるなって」


「あなたが勝手に始めたことでは」


 逃げる小さな影と追う少女。


「嫦娥はいい加減で捕まりなさい!」


「対象、ジェーン。提案、追走の断念」


「や!」


 フードからはみ出た赤毛を揺らしながら走るオリーブ色の少女、ジェーン。


 煽るかのように赤いレンズを揺らしながら飛ぶ灰色のドローン、嫦娥。


 月はいつしか陰り、戯れているようにも見える二人の上に毒の雪が降ろうとしていた。


 かつての暦が終わったのは一昔前。戦争の勃発でも、人工知能の反乱でも、天災の訪れでもなく。ただ、科学がもたらした問題を、科学が解決するのに間に合わなかっただけの星。多くの人々が諦め、宇宙へと旅立った後の青かった星。しかし、その地上にはまだ、営みが続いている。


「止まり、なっさい!」


 例えば、握り込んだ雪を感情任せに投げつける少女。


「評価、コントロール能力の欠如。無駄な消耗ですね」


 例えば、バカにしたように人間臭く笑う人工知能。


「コラー!」


 どこか楽しげな声も響くことのあるような、しかして今となっては捨てるほどのこともないような星である。


「へぶ」


「あ」


 あるいは、少女が足をもつれさせて転ぶような、そんな星の上。


 雪に埋もれた少女、ジェーンは時の前後の別なく、思いを馳せる。


 このまま倒れ込んだままでいれば、嫦娥は近付いてくるだろう。それを狙って雪の中へ引き摺り込んでやればいい、と。


 それぐらいのことは許されると、ジェーンは考えた。無駄に走らされた意趣返しということはもちろんあったが、そもそもこの雪道を夜中になっても歩く羽目になった事自体、嫦娥に原因があったからである。


 事の始まりは、五日ほど滞在した、山間の小さな集落。その井戸端で聞こえてきた世間話が発端であった。


 曰く、


「山奥の廃墟には幽霊が出るらしい」


 と。


 これに興味を惹かれたのが嫦娥である。嫦娥は特にオカルトに依るわけでもない、ありふれた惑星探査機の制御人工知能である。しかし、未知のことには人一倍敏感であった。


「ジェーン、幽霊に興味はありませんか」


「え、ない」


 対して、興味を惹かれなかったのがジェーンである。ジェーンは特にオカルトに興味があるわけでもない、ありふれた遺伝子工学の産んだ人工生命である。しかし、煽られることには人一倍敏感であった。


「推測、状態、恐怖」


「怖くないですけど?」


 そうして、廃墟探索へと出発したのが二日前の昼前のこと。廃墟についたのは、そこから半日経ってのことである。


「目的地に到達」


「これは、いかにもな廃墟ね」


 かつては旅館だったのであろう。広く取られた門の脇には、錆びついたプレートが据えられている。プレートに書かれた文字は風化して読めないが、赤い塗料がわずかに残っていた。


 門の奥には、三階建ての巨大な和風建築が鎮座している。しかし、瓦はところどころ剥げ、玄関の戸も倒れ、屋内には風が吹き込んでいた。いくつかの割れた窓の隙間からは、カーテンの成れの果てだろうか。ほつれた布がはためいている。


「こういうのを寂びっていうのかしら」


「ジェーン、念のため報告しますが、建造物の構造材は木、すなわち有機体です」


「そっちじゃないんですよ」


「お詫びします。貴金属の意味を履き違えているかと思いました」


 ジェーンは無言で嫦娥を軽く叩いた。しかし、嫦娥の体は高硬度プラスチック製である。どちらの被害が大きかったかは、我関せずの嫦娥と手を小刻みに振るジェーンの姿から察せられるだろう。


「まあ、雨風ぐらいは凌げそうでよかった。入ろう」


 事前の調べで、少なくとも向こう十年は崩れることもなさそうだという話である。幽霊といえば夜であろうとの嫦娥の力説に折れたジェーンは、この廃墟で一泊する予定であった。


 旧暦に曰く、廃墟に恐ろしいのは幽霊よりも衛生よりも、生物である。人気のない場所には、野の獣や、あるいは家を持たない人の隠れ住むことがあった。


 一方、人々の去った今となっては少々勝手が異なる。何しろ、残った人類一人が一つの廃墟に住んだとしても、有り余るだけの廃墟が残っているからだ。その中でも立地の良い物件ならばともかく、山奥の廃墟に住もうというのはそれこそ野の獣か、よほど後ろめたい者である。


 しかし、噂が立つ程度には人の往来があるのだからして、後者は居ないか、居ても逃げ出した後、もしくは隠れて出てこないだろう。ジェーンは、幽霊の正体は案外そんなところだろうと思っていた。


 仮に、その幽霊(仮)が出てきたとしても、遺伝子工学によりデザインされた兵士であったジェーンには赤子も同然のはずである。最も、デザインされただけで軍隊教育も何も受けていないため、力任せに殴るぐらいのことしかできないのであるが。


 そうして宿へと入った彼女達を迎えたのは、和の雰囲気が漂う、落ち着いた色合いの広々としたエントランス、その成れの果てである。


「三十年前に来たかったなぁ」


「当時から幽霊が存在していたかは不明」


「あんたはそうでしょうね」


 抗議のビープ音を上げる嫦娥を無視して、ジェーンが周囲を見回す。すると、カウンターと思しきところに宿帳の置いてあることに気がついた。


「一応泊まるわけだし」


 そう言うと、宿帳に記名するジェーン。


「住所不定、職業旅人ですか。ローンは無理そうですね」


「あんたも人のこと言えないでしょう」


 じゃれ合いながら奥へと進む二つの影を、宿帳の収められた冊子が見送る。吊られた装飾の加減が風で傾いたのか、窓から差し込んでいた月光が冊子をちらりと照らした。

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