センター試験殺人事件
大沢敦彦
第1話 女子トイレで中年男性が死んだ
「……解答をやめてください」
主任監督官の合図とともに、鉛筆やシャープペンシルを置く音、解答用紙を閉じる音、何かが落ちる音、まだ書き続ける音……などが聞こえていた。
「ただちに解答をやめ、監督官が回収し終えるまで、その場でじっとしていてください」
席の間を監督官たちが移動し、マークシートを回収していった。
「お疲れさまでした。すみやかに退出してください」
主任監督官の声を合図に、ようやく、受験生たちは極度の緊張状態から解放された。
「うあああっ」
十文字衛は盛大に伸びをすると、首と肩を回してポキポキ骨を鳴らす。
「ねえねえ。この問題、何番にマークした?」
長谷川千夏がちょんちょんと衛の背中をつついて訊く。
「もうセンター試験は終わったんだぜ? ジュラ紀だの石英だの、ごめんだね」
「土星って地球より平均密度が大きいんだっけ?」
「知らん。土星人に訊いてこい」
「衛くんは何番にマークしたの?」
「覚えてねえよ、んなもん」
「あきれた。受験生の言葉とは思えないわ」
「俺みたいな受験生もいるんだよ。勉強になったろ」
衛と千夏はスクールバッグを持ち上げると、並んで試験会場から出た。
「ちょっと待っててくれる?」
「何だ、トイレか」
「うん」
「うんって、でっかい方か」
「違うわよ!」
顔を赤くした千夏が女子トイレに入っていく。衛は、少し離れたところで待っていた。窓の外は雨が降っていた。ぞろぞろと疲れた受験生たちが帰っていく流れの中に、ひときわやつれた顔の受験生が衛の目に留まった。
「大丈夫か」
衛が声をかけると、彼女はビクッと体を震わせ、青ざめた顔を上げた。
「心配すんな。センター試験で、人生決まるわけじゃねえからよ」
彼女はこくりと頷き、とぼとぼと衛の前を通り過ぎようとする。
「結衣!」
廊下の向こうから、スーツ姿の女性が走ってやってくると、やつれた受験生をひしと抱き締めていた。
「よく頑張ったね。よく頑張ったね……」
なんとなく衛が見ていると、視線を感じたのか女性が振り返った。
「なに?」
「いや……別に」
燃えるような瞳に、思わず衛は圧倒されてしまっていた。場所を変えようかとも思ったが、とくに待合室も何もないため、スクールバッグの中から”箱”を取り出し、一本くわえた。
「あなた……」
こぶしを握りしめた女性が見咎めようとし、一歩踏み出したところで、衛は首を振っていった。
「ココアシガレットですよ、きれいなおねえさん」
「あっ……紛らわしいことしないで」
「こうやって大人をからかうのが俺の趣味なんです。一本どうです。妹さんも」
「……もう、早く帰りなさい。試験は終わったんだから」
「俺もそうしたいんですけどね、幼なじみがトイレでうん――」
「きゃああああっ!!!」
女子トイレから千夏の叫び声が聞こえてきた。尋常でないその声に衛の体はすぐに動いていた。
「どうしたっ!? デカすぎて詰まったかっ!?」
女子トイレに飛び込むなりとりあえず一発殴られた。
「いっ――てえなあバカッ! グーで殴る女がいるかっ!? パーで平手打ちだろっ!?」
「うるさいっ! チョキでちょん切ってもいいんだからねっ!?」
「おーこわ。で、いったいどうしたんだ」
奥の個室の前にいる千夏の代わりに、衛が「故障中」と紙の貼られた扉を開けてみると……。
「げっ」
洋式便器の元にうずくまるようにして中年男性が倒れていた。大量のトイレットペーパーが引き出され、そのすべてが血を吸って真っ赤に染まっている。男性の顔は土気色をしており、目は虚ろで呼吸は浅い。
「救急車! 千夏、救急車を呼べ!」
「は、はいっ!」
千夏がスクールバッグからスマートフォンを取り出し、緊急通報した。
「おい、しっかりしろ! おい!」
衛は男性に声をかけ続けるとともに、現場の状況を目に焼き付けようとした。
血の付いた包丁が一本、便器の中に落ちている。
凶器だろうか?
それから……血の臭いがあまりしない。なぜだ?
「誰かに刺されたのか!?」
口をパクパクさせる男性に衛は耳を近づけた。
「……若い、女……」
「ほかには!?」
「…………」
「え、AEDって、持ってきた方がいい……?」
通報を終えた千夏が訊ねた。
「いや…………もういい」
衛は首を振った。
男性の呼吸は止まり、瞳孔は開いていた。
救急車とパトカーのサイレンが聞こえてくると、衛と千夏はトイレから出た。泣きじゃくる千夏に肩と胸を貸しながら、衛は考えていた。
(いったい誰が……どうやって……)
ふと、視線を感じて振り向くと、例のスーツ姿の女性が受験生を抱いたままトイレの方を見ていた。
その口元が奇妙に歪むのを、衛は見逃さなかった。
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