第17話 兄

 エリオットはグランツ聖公爵家の嫡男で、聖女にとっては甥、リリアナにとっては兄に当たる人間だ。


 リリアナが五才であれば、もう十六才だろうか。


(お父様に気を取られて忘れてた)


 寮で暮しているという兄の存在だ。見知らぬ少年に手を引かれながらリリアナは、彼が声を出す方向を見た。


 聖女の記憶にあるエリオットは、母親が大好きで少し人見知りのする幼い子どもだ。各地を癒やしてまわる旅に出たときはまだ子どもで、魔王を倒して戻ってきたときは少年だった。


 この年頃の子どもの成長は早い。


 父親譲りの金の髪を揺らし、エリオットは怪訝そうな顔でリリアナを案内した少年を見た。まだ幼さは残るものの、少年から青年へと移り変わろうとしている。


 顔形は子どものころのルーカスにそっくりだった。纏うオーラは完全に別物だったけれど。


「どうした?」

「これ、おまえの妹だろ? 聖公爵様が迷子なんだってさ」


 少年は笑いながら言った。彼が持っていたリリアナの手をエリオットに差し出す。


「は?」


 強い口調で聞いたエリオットは、視線を少年から少しずつ下へと巡らせる。


 目が合った。


 その瞬間、彼はきつく眉を寄せる。忌々しいものでも見るかのような目つきに、リリアナは内心ため息を漏らした。


(まあ、予想はしていたけど)


 父親のルーカスが五年間で変貌を遂げたのだから、その息子であるエリオットに何の影響もないわけがない。しかも、屋敷には寄りつかないのだ。


 エリオットはリリアナの姿をジッと見た。


「僕は父上の居場所は知らないけど」

「式典が始まれば、聖公爵の隣に並ぶだろ? この子もその横に並ぶんだし、一緒に連れてってやれよ。なんだ? 久しぶりの妹だから緊張してんの?」

「馬鹿言え」


 少年の言葉に、彼の眉間の皺が一段深くなる。綺麗な顔が歪んでいく。


 二人は押し問答の末、エリオットが折れる形で話がついた。結局、ルーカスを一方的に知っている少年よりも、実の息子のエリオットが連れて行くのが相応である。


「ほら、おまえも迷子になったら困るから、手を繋いでおけよ」


 少年は楽しそうに笑いながら、リリアナの手を差し出す。エリオットの眉間の皺はこれ以上深くできないと悲鳴を上げていた。


 エリオットが乱暴にリリアナの手を掴む。


「おいおい、レディーには優しくしなくっちゃ」

「うるさいな」

「怖い怖い。じゃあ、お嬢ちゃん、迷子のお父様と会えるといいね」


 少年は優しく微笑むと、リリアナの頭を撫でた。まるで子どもにしているようではあるが、今は五才の子どもであることには間違いないので、おとなしくされるがままになった。


「ありがとう」


 一言礼を述べると、嬉しそうに笑う。


(犬歯が愛らしい少年のことは忘れないわ)


 彼の背に心の中再び礼を述べる。


(さて、次の問題は……こっちか)


 父親攻略も終わっていないのに、もう一人攻略すべき兄が出てくるとは予想外だった。いや、すっかり頭の中から抜けていたのだ。五才のリリアナですら参加しないといけない式典に十六才のエリオットが不参加でいいわけがない。


 リリアナの手首を掴み歩くエリオットを見る。上ばかり見て歩いていたせいか、会場の絨毯に足元を取られ、体勢を崩してしまう。転ぶ前で、手首を持つエリオットの手に力が入った。


 エリオットがピタリと足を止める。リリアナを見下ろす目は冷酷だった。


「のろま」


 たった三文字の言葉が頭から降ってきて、リリアナは目をぱちくりと瞬かせた。驚きの次に小さな怒りのようなものが沸き起こる。


(五才の女の子にのろまなんて! 紳士的じゃないわ! 義姉様が見ていたら絶対気絶しちゃう!)


 自分が聖女だったならば、いや、リリアナだったとしてもっと大人なら、頬を小さく叩いて説教をするところだ。今はどんなに腕を伸ばしても頬まで手が届かないので、想像で思いっきり叩いておく。


 目は口ほどにものを言う。リリアナの心の声が届いたのか、彼は目を細めて冷淡な声で言った。


「別に僕が望んで君を父上のところに連れて行っているわけじゃない。一人で行きたいなら、好きにすればいい」


 彼は掴んでいたリリアナの手首を離す。


 ここで置いて行かれたとして、リリアナはそう困りはしない。体は五才であるが、思考は聖女のころのものとそう代わりはないからだ。そして、前世では半年ものあいだ王宮で暮していた。広くてわかりにくい構造をしているが、半年のあいだで王宮内の地図は完璧だ。


 けれど、それではなんか面白くない。


 背を向けたエリオットの服の裾を小さな手でしっかりと掴む。そして、目をぎゅっと瞑り、力を込めた。それでは涙の一滴も出ず、小さく俯いて無理に欠伸を出す。


 人間の体は不思議なもので、欠伸を出すとほんの少し目に涙がにじむ。


「なに?」


 エリオットの冷たい声が降ってくる。普通の子どもならばそれを怖いと感じたかもしれない。しかし、リリアナは違った。昔の可愛かったころを知っている。怖いという感情は全くなかった。


 目が乾かないうちに、潤んだ瞳で見上げる。


 目が合った瞬間、エリオットが僅かに身じろいだ。


 女の子の、とりわけ幼い子の涙には力がある。放っておいてはいけないような、そんな力だ。


「ひとりにしちゃ、いや」


 リリアナの精一杯の言葉に、エリオットは顔を歪ませたあと、乱暴に、だけど少し優しくリリアナの手を握る。


「今日は特別だ。後で怒られても困るし」


 エリオットは真っ直ぐ前を向いて言った。誰に言ったのかはわからない。リリアナに対してなのか、自分自身なのか。リリアナは小さく息をついた。


(幼女って大変だわ)


 恥ずかしさに頬が少しほてる。空いた手の甲で熱を冷ました。


(義姉様、見ていて。私がエリオットの曲がった根性を絶対に真っ直ぐにしてみせるから)


 リリアナは心の中で遠く離れた場所にいった義姉に誓うのだ。

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