第20話 ランナーズハイ
――それは、1年半くらい前のことだった。
私はまだ近藤社長の秘書になって日が浅く、彼との付き合い方をよくわかっていなかった。向こうも向こうで、社長のくせに人見知りなところがあり、仕事に関してのコミュニケーションは取れていたけど、私に対して見えない壁を作っていたと思う。
そんな私たちの関係が“劇的”に変わったのは、ある夜の出来事がきっかけだった。
その日は特にハードで、社長から「新しいプロジェクトチーム立ち上げるから明日までにメンバーの予定調整して」「この会食を延期してこのパーティーに出席する」「明日から香港に1泊2日で出張日程組んで」と、次々に日程調整や手配の指示が飛び――
社内を飛び回ってミーティングの日程を調整し、会食のお店にキャンセルの電話をかけながら香港行きのフライトをおさえて、パーティーの出席者の資料をそろえて……目が回るような忙しさだった。
それでもなんとか終電前に会社を出て、自宅の最寄り駅にたどり着くことができたのは、まだ幸運な方だろう。そう自分に言い聞かせながらふと足元に目を落とすと、ボーナスで買ったハイヒールの底が、もう擦り減ってていた。
――営業職並みの減り方じゃん……。秘書の仕事って、もっと優雅なもんだと思ってた。
私はため息をつき、重たい足を引きずるように帰路につく。
当時は独身荘に入居したてで、先輩格の入居者である冴子さんや桃花にだいぶ気を使っていたと思う。
夜遅く帰宅するときは、彼女たちを起こさないようにリビングやキッチンを使うのは控えて、自室でコンビニ食をかきこんでいた(今では何時に帰っても遠慮なくキッチンで料理して、時々冴子さんから文句を言われている)。
その日も、最後の力を振り絞ってコンビニで夜食とワインのミニボトルを買ってきた私は、玄関のドアをそっと開けて自室に飛び込んだ。
シャワーを浴びてルームウェアに着替えると、コンタクトレンズも外して、開放感に包まれてベッドに倒れこむ。ワイングラスの中身にほんの少し口をつけると、すぐにまぶたが重くなってくる。
このまま眠ってしまおう……そう思ったときだった。けたたましく、電話が鳴った。
――無視だ、無視。
私は目を開けずに寝がえりをうつ。もう私の就業時間は終了した。この電話に出る義務はない。
一度切れた電話が、間髪入れずにまた鳴りだす。
――トラブルかな?
ちらっと頭を近藤社長の顔がよぎる。
気まぐれでワガママで、だらしなくて、いつもは不愛想なくせに頼み事をするときだけ調子の良いイヤなヤツ。でも天才的に頭が切れて、どんな難問にも冷静に対処して、いつも絶対に解決策を見つけ出す社長……。
「あーもう!」
私は携帯に手を伸ばし、通話ボタンを押した。
「はい、永森です」
『あ~永森? おつかれ。もう家だよね?』
「家です。もう寝るところでした」
精一杯の抵抗で、できるかぎり眠そうな声で返す。しかし、携帯の向こうの社長の声はまったく悪びれない。
『家、会社に近かったよね? タクシーで今すぐ来てくれない?』
「……何かトラブルでしょうか」
『明日の投資家向けプレゼン資料のデータが全部すっとんだ。俺は新しいの作り直すから、平行してデータ復旧するの手伝って』
一瞬、頭が真っ白になった。
社長がここ数か月相当力を入れて準備していた、明日の朝から行う海外ファンド向けのプレゼン。これでガツンと資金調達して、さらに事業をデカくするんだと、社長は珍しく気合がみなぎった顔で言っていた。その資料が――すべて消えた?
思わず声が震える。
「……すぐに行きます」
『助かる~!』
「ほかにだれか捕まりました?」
『みんな電話繋がんない。いやマジで助かる』
「15分お待ちください」
もう化粧も着替えもどうでもいい。私はスッピンのまま眼鏡をかけて、ジーパンにTシャツという適当な格好で家を飛び出した。
=====
会社に着くと、社長はPCの前でものすごいスピードで作業していた。
オフィスに飛び込んできた私に気づくと、一瞬驚いた顔になる。
「え、永森?」
「私ですよ。どこまで終わりました?」
社長のもとに駆け寄ると、待ち構えていたようにUSBデータを渡された。
「この中に途中までのデータが保存されてた。最新じゃない数字やデータが入ってるから、全部更新してって」
「了解です」
速攻で作業を開始する。パソコンを立ち上げてUSBを差し込み、古いデータを検索してはじきだし、新しい数字に差し替えていく。
体の疲れが嘘のようだ。驚くほど頭がさえて、ただ私と社長がキーボードをたたく音だけがフロアに響いていた。
そして、一睡もせず、休憩もとらないまま頭と手を動かし続け、いつの間にか朝5時。
「社長、これでこっちの作業は完了です」
「俺もおわり~~!」
社長が大きく伸びをして、それから勢いよく立ち上がった。見たこともないような、満面の笑顔で。
「やったーー!! 正直超焦ったけど、資料完成したーーー!!」
まるで小さな子供みたい。つられて、私も笑ってしまう。
「社長、はしゃぎすぎですよ」
「いやもう、逆にハイテンションで」
「ランナーズハイってやつですね」
社長はケタケタ笑って、今にも抱きつきそうな勢いで私のほうへ近づいてきた。
「永森のおかげ! 本当にありがとう」
「とんでもないです」
ちょっとくすぐったい気持ちで、社長から目線をそらしてうつむく。
PCを閉じてデスクの片づけを始めていると、じーっと社長がこっちを見ていることに気づいた。
「――何か?」
「いや、俺、知らなかったんだけどさ……」
社長が、さらに距離を詰めてくる。ほとんど息がかかりそうだ。私は思わずビクッとしてしまう。
社長の大きな黒い瞳が、興味ありそうに私を見つめている。いつも「スタッフのひとり」としてしか私を見ない社長から、こんな目つきで見られるのは、初めてだ。
「永森って、こんなに可愛い人だったんだ」
「……え?」
それからはもう、わけがわからなかった。
社長は驚くほど強引に私を抱き寄せ、驚くほどやさしくキスしてきた。はじめはそっと唇をなでるように、そしてそれは徐々に深くなっていく。
何が何だかわからない――頭は混乱しているのに、芯の部分は妙に穏やかで、私ははっきりと自分の気持ちを自覚した。
――私……本当はずっと、この人に、こうされたいと思っていたんだ。
自覚した瞬間に止まらなくなって、私は夢中でキスに応えていた。
社長が一瞬動きをとめ、それからさらにキスが深くなる。いつの間にか私はミーティングルームのソファの上に押し倒されていた。
唇を離した社長が、いたずらっぽく微笑む。
「俺、強引だった? イヤなら今すぐやめるし土下座する」
「い、いやじゃない……ですけど……」
心臓が早鐘のように鳴っている。
なんとか今の状況を理解したいのに、冷静に距離を取りたいのに、全身が心臓になったみたいで、頭が回らない。ただ、私の中で生まれて初めて感じる――本能のようなものが、強烈に彼を求めていることだけはわかった。
――なんで? ワガママだし人使い荒いし、デスクのまわりはいつも汚いし、来客がない日はジャージばっか着てるし、いい年して小学生相手にガチでオンラインゲーム対戦してるし……全然好きなタイプじゃないはずなのに。
社長の顔がまた近づいてくる。
「これ以上したくなかったら、殴っていいよ」
「……そんなこと言われる前に殴ってますよ、もし本当にイヤだったら」
混乱したまま無意識のうちに漏れ出た私の言葉を聞いて、社長は一瞬きょとんとした顔になり、それから少年のような黒い瞳をキラリと光らせた。
「なんだそりゃ――最高の誘い文句じゃん」
社長がもう一度深く口づけてきて、骨ばった大きな手がTシャツの中に入り込む。こんな時になって、「ああ、そういえば超適当な下着だった…」と一瞬恥ずかしさが頭をよぎる。だけど、社長はますます興奮したように、私の下着を強引に剥ぎ取った。
「なにこれ、永森って全然俺のイメージとちがった。可愛すぎる」
「な、なんですか、それ……」
ただただ赤くなる私を見て、社長は嬉しそうに笑った。
ただただ赤くなる私を見て、社長は嬉しそうに笑った。そして、すっと目を細める。──これまで見たことのない、オスの顔だった。
「抱くよ、永森」
「しゃ、社長……」
「社長はやめろよ。名前で呼んで」
不満そうに社長――近藤さんが顔をしかめ、私はその子供っぽい表情に思わず微笑んでしまう。
「……近藤さん」
「まあいいか、それで」
またむさぼるようにキスされる。私はもう抵抗をやめて、彼の首に腕を回した。
===
「んじゃ、これ確認よろしくね」
まどろみから目覚めると、近藤さんは上半身裸のまま、携帯でだれかに指示を出していた。プレゼンの準備は完璧に整ったようだ。
私はちょっと気恥ずかしくて、そっと体を起こしてフロアに散らばった自分の下着と服を探す。ごそごそ着替えていると、それに気づいた彼がペットボトルの水を持ってきてくれた。
「おはよ。飲む?」
「…ありがとうございます」
昨日までの社長とはまるで別人のように、近藤さんが輝いて見える。朝日を受けて瞳を輝かせている近藤さんを見ると、自分でも恥ずかしいくらいドキドキして、胸が苦しくなって、思わず目をそらしてしまった。
「なんだよ」
ちょっとムッとした声で、近藤さんがカウチの隣に座ってくる。ああ、近藤さんのにおいだ。私はますますいたたれまない気持ちになり、ついつっけんどんな言い方をしてしまう。
「社長は、社内では手を出さないタイプだと思ってました」
きょとんとした顔で私を見て、近藤さんはおかしそうに笑った。
「俺だってそう思ってたよ。永森のせい」
「私ですか!?」
思わず声を荒げると、彼はすねたように口をとがらせて見せる。
「俺、自分でもちょろいと思ったけど、ああいうギャップにほんと弱いの」
「ギャップって…」
「永森、いつもは俺の苦手な感じじゃん。完璧に化粧して金かけておしゃれして、いつも武装してる感じ。なのに、深夜あんな感じで駆けつけてくれたらさぁ……そりゃ好きになっちゃうよね」
――好き。
思いがけない言葉をかけられて、私は自分が耳まで赤くなるのを自覚した。何か言い返そうと思うけれど、頭が真っ白になっている。熱い頬を手でこすりながら、私は必死で言葉を探す。
「…私も、社長のギャップに驚きました」
「え?」
「ふだんは超自己中なのに、最中はめちゃくちゃ優しいんですね」
私の精一杯の憎まれ口に、近藤さんは大きな目をさらに大きく見開いた。そして、見る間に彼の耳が赤くなっていく。
「……はい、永森のせい~!」
「え?え?」
わけがわからないまま、またカウチの上に押し倒される。キスの嵐が降ってくる。私はただただ困惑するだけ。
「もう一回したくなった」
「げ、元気ですね!?」
「疲れマラっていうじゃん」
「最低!!」
結局、私は今後もこの人に振り回されていくんだろう。その予感をなぜか嬉しく思いながら、私は彼のキスに応えた。
──そう、私ははしゃいでいたのだ。このまま彼と付き合えるんじゃないか……愛し合い、同じ人生を歩んでいけるんじゃないか。そんな夢を見ていたのだ。
結局近藤社長と寝たのは、その日が最初で最後になった。
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