第14話 誘惑


 居酒屋のトイレに入り、私は鏡の中の自分を見つめていた。

 少し酔って、うるんだ瞳。リップの落ちかけたくちびる。チークはほとんど消えかかって、顔色は真っ白だった。


 ――私なんかが、ヒロキさんを誘惑できるのだろうか。


 ふいに心が折れそうになる。


『俺、今彼女いてへんよ』


 ヒロキさんの声と、まったく悪気のなさそうな笑顔が脳裏によみがえる。

 私はひとつ息をついて、化粧ポーチを開けた。普段使わないクリアレッドのリップを取り出して、くちびるに慎重にのせていく。薄いピンクのチークを頬にはたき、香水を首元に少しつける。


 鏡の中には、少しだけマシになった姿の自分が、薄暗いライトに照らされている。

 ――もう、引き返せない。

 そう自分に言い聞かせて、私はトイレをあとにした。



 その後、私はガンガンお酒を飲んで、ヒロキさんにも「付き合ってくださいよ」とすすめた。ビール一杯だけの約束が、いつの間にかワインのボトルが空き、ヒロキさんの頬が酔いで赤くなってくる。


 部活でやっていたというサッカーの話や、最近ハマっているというネットゲームの話などを楽しそうに喋るヒロキさんに相槌をうちながら、もう一杯、もう一杯と杯を重ねていく。


「やばいめっちゃ飲んどるな、俺ら。サクラさん、お水も飲まなあかんで」


 ヒロキさんはごくごく水を飲み、私にもしきりに水をすすめてくるが、自分でも不思議なくらい、私の頭の芯は冷え切っていた。普段はお酒に特別強いわけではないが、今夜はどれだけ飲んでも酔えそうにない。


「いやーそろそろやめとこ。これ以上飲むと、潰れてまう」


 ヒロキさんが会計を頼んだところで、私は彼の手を握った。驚いたように目を見開き、ヒロキさんが上ずった声を出す。


「ど、どしたん!?」

「お願いです。今夜一緒にいてください」


 女性らしい誘惑の言葉も、セクシーな色仕掛けも、男女の駆け引きも、私にはできなかった。ただ、真正面から誘った。


 ヒロキさんの顔が、さーっとこれ以上ないくらい赤く上気していく。


「え、ど、どういう意味で?」

「……家に帰りたくないんです。ヒロキさんと一緒にいたい」


 我ながら稚拙な言葉しか出てこないのが歯がゆくて、また涙がにじんできた。そんな私を前にして、顔を赤くしたヒロキさんが大慌てしている。


「あーほらほら、サクラさん、思いっきり酔ってるやん。だめやで、そんな酔いまかせでこんなよく知らん男に……いや、気持ちはわかるけどな……。いやいや、でもあかんよ…」


 しどろもどろになりながら、それでもきっぱりと彼が断わろうとしているのがわかった。彼女がいることを隠すような不誠実な男に諭されている、と思うと悔しさでますます涙がこみ上げてくる。


「いやです! 一緒にいて」

「うーんと、えーと…じゃあ、もう一軒飲みいく? 店変えて、飲みなおそ」

「飲みたいわけじゃないです」

「いや、ほな、えーと…そしたら、また後日あそぼ? 釣りとか興味ある?」


 困り顔のヒロキさんから、まるで駄々をこねる子供をあやすように言われて、今度こそ涙が零れ落ちた。


「私は…真剣に言ってるんです……」


 ヒロキさんが小さく息をのむのがわかった。


 しばらく沈黙してから、彼の熱い手が私の手をぎゅっと握り返した。顔を赤くしたヒロキさんが、充血した目で私をまっすぐ見つめている。


「じゃあ……ホテル、くる?」


 私は何度もうなずき、私たちは手を握り合ったまま店を後にした。



=====



◆SIDE:遠藤冴子


 その日の夜、私は百円ショップで買った顔パックを装着しながら、自室でココアを飲みつつ、ブルガーコフの「巨匠とマルガリータ」を読んでいた。――やはり秋の夜長は、ロシア文学に限る。


 ベッドの上で、ハードカバーの重い本のページをめくりながら、私は大きく息を吸い込んだ。少し開けた窓から入ってくる夜風が心地よい。


 私の勤める図書館は、仕事帰りに訪れる会社員の利用者も多く、平日は夜9時まで開館している。そのため、遅番のシフトに入った日は帰宅が11時近くなることもざらで、今日もついさきほど家に着いたばかり。

 それからダッシュでお風呂に入り、夕食に冷凍チャーハンをかきこみ、熱々のココアを手にベッドへダイブしたところだ。


 柔らかめのマットレスの上に体を投げ出すと、年齢のせいか、全身に疲れが残っているのをしみじみと感じる。

 特に今日は、夕方からは書庫の整理を担当していたので、腕や足が筋肉痛になりそう。書庫の空気は乾燥もひどく、肌の状態もボロボロだ。


 というわけで、軽くストレッチして顔にパックを貼り付けてから、私は本棚から読みさしの本を取り出し、一日の中で最も楽しみにしている時間――寝る前の読書タイムに突入したのである。



 ――ところが今日は、その読書タイムに思いがけない“邪魔”が入った。

 無心で文字を目で追っていると、ふいにデスクの上でスマホが震えだし、着信を知らせてきたのだ。


 ――今いいところだから、ちょっと放置!


 私はスマホをデスクに伏せたまま、読書を続ける。ほどなく着信は切れた。――が、間髪入れずにまた震えだす。

 しばらく無視していたが、着信は一向に諦める様子がない。


 ――もぉ~、誰だよこんな時間に……。


 私はイライラしながら本にしおりを挟んで脇に置き、スマホを取り上げる。その画面に映し出されたのは、意外な名前だった。


「……はい?」


 通話ボタンを押すや否や、佐々木雄吾のバカでかい声が響く。


『おーい! なんでおまえ来ねーんだよ!!』


 ――いきなり、何なのコイツ!?

 突然怒鳴り散らされたうえに、読書時間を邪魔されたイライラもあって、怒りが膨らんでいく。


「はぁ!? 迷惑電話、やめてもらえます!?」

『なにが迷惑電話だよ! 俺だよ、俺俺!』

「あなた、そういう詐欺を取り締まらなきゃいけない立場ですよね!?」

『オレオレ詐欺じゃねーよ! おまえこそ来る来る詐欺しやがって!』

「生まれてこのかた、法に触れることは何ひとつしてませんけど!?」


 佐々木の声に負けないように怒鳴り返しながら、私はやっと思い出した。


 ――そうだ、今日は佐々木さんにお願いしてサクラのために開催してもらった、合コンの日だ。


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