グラデーションな私達を映して

月原友里

第1話 感じているもの

主人公・野々原透子は発達障害がありますが、透子の性格や行動の全てが発達障害の特性に由来するものではありません。ご承知おきの上、お読みください。

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 私は透明だ。私の体は誰からも見えていないようで、空気と化している。口を閉ざしたくて閉ざしているわけではない。本当は人と話したいが、何を話したら良いか分からずに困っている。会話の正解が存在しない雑談は苦手だ。苦手なりに微笑んでいればその場に参加出来るのかもしれないが、そんな器用さは持ち合わせていないから私は空気になっている。

 この世界は音で溢れていて、空気になっていても私の耳にはたくさんの情報が流れ込んで来る。無数の音の中から正しい情報を探そうとするけれど、音の中で私は迷子になっていて辿り着くことが出来ない。やがて疲弊して、探すことを諦める。

 リュックの中にしまっていたものをいつの間にか紛失している。よく鍵を失くしては、家族を振り回してきた。今は紐でリュックに付けているが、そのリュックごと外出先に忘れてきた時はどうしようもなかった。

 そんな私が注意欠陥・多動性障害──ADHDと自閉症スペクトラム障害──ASDの診断を受けたことに、さほど驚きは感じなかった。



 机の上に出していた荷物をリュックにしまい、代わりにノイズキャンセル機能がついたワイヤレスイヤホンを取り出す。このイヤホンは大学入学祝いで祖父母に買って貰った物だ。忘れ物が多い私が失くしやすいワイヤレスイヤホンを持つことを心配した母親によって、ケースには鈴が付いたキーホルダーが付けられている。イヤホンを耳に嵌めると、音楽アプリを開いてシャッフル再生のボタンを押した。

 大学の講義が始まって3週間経つが、未だに友達は出来ていない。今も3限の講義を1人で受けていた。同じように1人で講義室に居る人はちらほら見かけるので寂しくないものの、友達と一緒に講義を受けることに少し憧れがある。いつかは出来たら良いが、人との接点があまり無いため難しいと思っている。

 オリエンテーション期間には人と話す機会があったが、ぎこちない話し方になってしまい、そこから仲良くなることは無かった。好きなものの話であればいくらでも話すことが出来るが、私が一方的に話すことになって引かれてしまうため口を噤むようにしている。一方的に話しすぎて、高校時代痛い目にあった。

 リュックを背負い、講義室を後にする。今日はこの後映画を見に行く予定だ。SNSで話題になっていた作品で、普段あまり見ないジャンルだが興味を持った。障害者手帳を提示することで大学生料金よりも安くなるからありがたい。

 ふと、ちゃんと障害者手帳を持ってきているか気になった。降りていた階段の踊り場で立ち止まり、背負っていたリュックを前に抱えて障害者手帳を探す。すぐ見つかるだろうと思っていたが、捜索は難航を極めた。全然見つからない。しばらくしてから、講義室の机に置いたことを思い出す。映画館に着いた時に取りやすくなるように、と荷物の上の方に入れようと考えて一度外に出したのだった。今頃、障害者手帳は剥き出しの状態で放置されている。誰かに個人情報を見られたらとてもまずい。

 慌てて階段を駆け上がって講義室に戻ってくる。既に人は誰も居ない。私が座っていた席に向かったが、障害者手帳は見当たらなかった。全身の血の気が引いて、背中に冷や汗が流れていくのが分かる。それから、私の頭は真っ白になってしまった。イヤホンから絶えず流れてくる音楽を音楽として認識出来ない。こめかみに手を当てながらこの後どうするか考えようとしたけれど、頭が上手く働かなくて考え事なんて全然出来なかった。ドクンドクン、と心臓が強く鼓動している。

 数分経って、私の頭は冷静さを取り戻した。ふぅー、と長い溜め息を吐き、リュックを背負ったまま近くの椅子に座り込む。

 この講義室で障害者手帳をリュックから出したのは確かだ。けれども、リュックの中も机や椅子の下にも見当たらない。誰かが私の弱みを握るために持ち去っていたらどうしよう、と最悪の考えが思い浮かぶ。私なんかの弱みを握っても良いことはあまり無いが、世の中には障害があることをよく思わない人が居る。そういう人が持って行ったのだとしたら、少し怖い。一方で、心優しい人が忘れ物を届けるために持って行った可能性もある。その心優しい人が持っている可能性に賭け、学内の忘れ物を取り扱う学生課の窓口に行くことにした。

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