第一章 十三夜 其ノ二

 朝になると毛布を頭から被って眠った。繋がれていない馬は勝手に水を探しに行き、草を食み、また勝手に帰ってきた。

 陽が傾き始めた頃、トウヤはもぞもぞと起き上がり、馬が行って帰ってきたのと同じ道をたどって小さなせせらぎで顔を洗い、水を汲み、また戻ってくる。

 わずかな干肉と麦の煎餅を食べながら、思いつめた表情でトウヤは馬に話しかけた。

「ミミミ(美々巳)、俺に、成せるだろうか」

 ミミミというのは馬の名である。滑らかな首筋に手を当てて目を伏せると、馬はトウヤの鋼色の髪をやさしく食む。

「ああ、こら。美味しくはないだろうに」

 笑い、輝きを取り戻した瞳が夕陽に輝く。トウヤの瞳の色は、古代より権力者が憧れた帝王紫であった。人の瞳にあるのを見るのは、この少年に出会った者くらいであろう。

「成さねば。我で、あるために」

 トウヤは東の空を見上げた。


 夕暮れ前、昨晩よりも満ちた月が東の地平線より昇り始める直前に、宴は始まった。高く響かせようとした鋭さとは違い、今宵の音色はまことやわらか。山に夜が降りた後も薄衣を纏い空を舞い、月が隠れるまで響いていた。


 翌朝、毛布に包まろうとしたトウヤは急に飛び起き、ミミミを連れて森に入った。

 瞬く間に山頂は雲に覆われ、雨が降り始めた。雲は重く山にのしかかったまま流れていかず、雨は強まる一方である。

 裏地に油紙の入った大きな合羽に身を包み大木の陰に隠れ、根元に座り込む。雨は酷くトウヤを殴り続ける。

 馬が風の盾となるよう立つ位置を変える。

「ミミミ、いいよ、大丈夫」

 トウヤがそう言っても、ミミミは風上に立っていた。


 雨が上がったのは日没刻直前である。濡れて崩れやすくなった足場を気にもとめず、早足で頂へと戻った。薪も小枝も濡れてしまい火は熾せない。荷の奥から乾いた布を出して濡れた馬を手入れしようとしたが、馬は拒むように後ずさりし、前足で地面を掻く。

「いいのか……ありがとう」

 馬の鼻面に額を寄せる。

「成してみせる。我であるため」

 手が震えているのは、疲労と寒さのせいだけではない。今宵の結果で、トウヤの運命は大きく変わるはずだった。

「生きるのなら」

 小さく、はっきりと呟いて、地に腰を下ろし、笛を構える。小さな体からほとばしるように、命を懸けた思念が音に乗って舞い上がる。この笛の音について、人の世に残る記録はない。月だけが、その音を一身に受けていた。

 

 風が止み、空が白み、月が沈みきったと同時に、笛の音が止んだ。トウヤは肩で息をし、体を支えきれず石版に手をつく。ふと手の甲が、やけに白く、明るく照らされているのに気づいた。はっとして顔を上げると目の前に、背が高く髪は長い漆黒、白磁のような肌色の男が立っている。

「近くで見る方がいいな」

 そう言うと、男はおもむろに少年の鋼色の髪を手に取る。男は体から、ふわりと光を発していた。やさしい、明るさだった。トウヤが掠れた声を震わせた。

「……あなたは」

「昨晩の月」

 答えを聞くやいなや、トウヤは勢い良く腕を伸ばしてしっかりと捕まえるように男に抱きついた。迷子の小さな子供が、親を見つけたかのように。男は顔色一つ変えずに言う。

「主よ、名を、貰おうか」

「本当に、良いのか」

 少年の声に、男はやはり平然と答える。

「霊が一度決めた事」

 振り絞るようにトウヤは言った。

「……そなたの名は、ウタ(宇多)」

 名を与えると、男の光はゆっくりと消え、入れ替わるように地平線より陽が昇り始める。


 ゆさゆさと、揺れを感じてトウヤは目を開いた。馬の背にいるのではない。ここは一体どこだろうかと顔を上げると、真っ直ぐな長い髪が見えた。

「目を覚ましたか」

 ウタに抱えられ運ばれながら自分は寝ていたのだった。幼い頃にそのように運ばれた記憶のない少年は、困ったような顔を浮かべた。

「どの位、こうしていたのだ」

「半刻ほどだ」

 歩きながらウタが答える。ウタを先導しているのはミミミである。

「おろしてくれ。ミミミ、待って」

 ミミミとウタの歩みが止まり、下ろされながらトウヤは首をかしげる。

「どうして、こうなった」

「主が眠ってしまったので、ミミミ殿と相談してひとまず山を下りる事にした」

「へぇ。そうだったか。私は、眠ったのか。私が人の腕の中で眠るとは驚いた」

「主よ、私は人ではない」

「ああ、そうだった。上手く人の姿を成しているので、つい」

 少年は晴れやかに笑った。

「さて、ウタ、そなたを降ろした我の名はトウヤ。これより永く我に仕えよ」

「拝命する」

 主従の儀式はそれだけだった。トウヤは霊と契るのに神官が行うような儀式は必要ないと知っており、それを知っているトウヤであるからウタは降りた。

 甲高い鷹の鳴き声が空に響き、トウヤははっと空を見上げて呟いた。

「呼んでいる……戦が、近い……」

 紫の瞳に影が差した。

「ウタ、いろいろと話しておかなければならない事はあるが、ひとまず人間のふりをして私の家人となれ」

「心得た」

「急ごう。街道から一番近くの里に向かう」

 やがて親子にも見える二人と馬は山を下り、森を出て行った。

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