蛇恋物語

小林秀観

第一話

蛇長屋

 では、連絡は欠かさないようにね。その大蛇、母は言った。

 山の木々が葉を赤々と染めるこの頃、私はようやくここを出られる許可を得た。

 私たちは蛇ではなく、まして人でもない。化け者である。言葉通り化ける者、人に化けて人の中で生きる獣だ。

 狸も狐も、鼬も猫も、烏も蛇も時折り化け者になる。そうなるともう仲間とはみなされない。仕方のない事だ。私たちは化け者なのだから。だから化け者同士で寄り集まる。

 もちろん、この母も化け者である。

「行ってまいります」

「あぁ。まったく……もう少し山にいたっていいというのに」

 私はブツブツと続ける母に一つお辞儀をして、いそいそと山を下りる。

 この日を何よりも心待ちにしていたのだ。じっとなんてしていられない。この日のために耐えてきたのだ。母の小言にも、姉の暴言にもわがままにも。

 蛇は支配的である、とよく言われる。狸は秘密主義だし、狐は守銭奴、鼬はずる賢くて猫は遠慮がない、烏は他人を馬鹿にしがちである。

 母はその最たる例だ。他人の言動や行動を監視して修正する。全ては母の思った通りに進む。私の進退にしたってそうだ。私が私について決められる事なんてたかが知れている。

 そんな母から、私は自由を勝ち取ったのだ。私は今日から江戸は深川で暮らす。

 場所について私に選ぶ権利はなかったが、そんな事は些細な事だった。私はただ、姉のそばにさえ置かれなければそれで良いのだから。

 姉は優秀だ。そして緑色のありきたりな、毒さえない私と違って姉は真っ白な美しい蛇である。毒だって持っている。化けるのも得意で、私より一年も早く江戸に下りた。

 姉はよく私を罵倒した。私は人より動きが鈍かったから。できない事が理解できないらしかったから、その度に姉は物を投げて怒鳴り声を上げた。

 私はいつもじっと黙って、全てが終わるのを待っていた。

 姉について語るのに丁度いい話がある。

 その日、私は母から町へ行った土産だと言って綺麗な箱をもらった。

 だが姉は、それを数日もせずに踏みつぶしたのだ。

「見えてなかった」

 姉はそれだけ言った。皆は仕方がないと言った。

 謝罪がなかった事とか、母への申し訳なさとか、姉が笑っていた事とか、わざとだろうと思われる事とか、悲しさとかが押し寄せて私は一言も言葉が出てこなかった。

 姉はそういう人だ。

 だから今回、姉とは違う町に行ける事は私にとって大きな意味を持つのだ。姉がいるのは確か、八丁堀の辺りだ。

 さっそく私は十五歳くらいの娘に化けて、母に言われた蛇長屋を目指す。

 蛇は、狸や狐たちのように職種で纏まったりはしない。長屋、あるいは家族として一纏まりになって暮らすのだ。

 姉が行ったのはその家族の方。偽物の母に、偽物の父がいるところで暮らすのだ。

 私が行くのは長屋の方。住人は全て蛇の化け者。傘屋もいれば錺職もいる。だからおかしく思われる心配はないのだ。

 私の仕事は一応、繕い物屋という事になっている。

 蛇と違って人間には足というものがある。それはとても疲れるものであったが、誰の支配の元からも逃れた私は、弾むような気持ちで歩いた。

 目的の蛇長屋は夏には朝顔、秋は菊、盆栽と様々な花を育てる花屋がいるせいで花長屋と呼ばれているらしかった。なので、行ってみるとすぐに見つかった。

 表店の土間いっぱいに菊の鉢が並んでいるのだ。それが店に入りきらなくて通りにまで出て来てしまっている。

 そこの路地を入って行くと、鏡磨きに経師屋に、色々な看板が掲げられている。

 その中に一つ、変な看板があった。

『謎解き屋。どんな謎でも解きます』

「謎解きなんて仕事になるの?」

 気になって耳を澄ましてみると、中から楽しげな話し声が聞こえてきた。私は思わず、開きっぱなしの戸から顔を突っ込んだ。

「じゃあ、次は俺な。昨日からうちのかみさんの機嫌が悪いのはなぜだ」

 五人の男たちが集まって笑い合っている。真ん中に座っているのが店主らしい。

 店主は答える。

「そんなの、謎でも何でもないさ。玄さん内緒で水茶屋に行ったろう。それを知られちまったのさ」

「な、なんだって⁉ 俺は何も持ち帰ってないぞ。匂いだって落してきたし」

「それでも気付かれるのさ。女を舐めちゃいけねぇよ」

 店主は男の首筋を示す。そして手鏡を手渡すと、男が「あっ」と声を上げる。男の首筋には赤い跡があったのだ。

「しまったなぁ……」

 男はうな垂れながら、店主に饅頭の包みを手渡す。

「毎度あり」

「次は儂じゃぞ。ここしばらく、うちの損料屋は客足が遠のいておる。それは何故じゃ」

 店主は顎を撫で、お爺さんに聞く。

「千さん、また何か変な物を拾わなかったかい?」

「変な物とは失礼な。幽霊の掛け軸じゃぞ。怪談話なんぞは人気じゃろうて」

「そうは言っても時期が外れているよ。それにね、損料屋の表に幽霊の掛け軸が飾ってあったら客だって逃げて行くってもんさ」

「な、なぜ表に飾っていると分かったのじゃ?」

「分かるさ。千さんの事だもの」

「むむっ」

「掛け軸は外す事だね」

「仕方あるまいな」

 千さんと呼ばれた老人は、憮然とした顔で曲げわっぱの弁当を渡す。

「毎度あり」

「お金はもらわないの?」

 私は思わず声をかけてしまった。それからしまったと、首を引っ込める。

「いらっしゃい、お嬢さん。僕はね、こうして食べ物や物でお代をもらう事もあるんだよ」

「それで暮らしていけるの?」

 私は引っ込めた首をもう一度突っ込む。

「なんとかね。お嬢さんはお客かな?」

「いいえ。私、今日からここで暮らすの。名前はえっと……おさく」

「おさくちゃんね。よろしく。僕は雪平って言うんだ」

 何となく軽そうな印象の男は柔らかい笑みを浮かべて手招きをする。

「よろしくお願いします」

 片足を突っ込んだところで首根っこを掴まれた。振り返ると、それはこの蛇長屋の大家の妻、女将と呼ばれているらしい、おたけさんだ。

 女将は私を睨み付けると、顎で斜向かいの部屋を指し示す。

 部屋は九尺二間、布団や桶、水瓶なんかがすでに置いてある。

「ここがあんたの部屋だよ。置いてあるものは好きに使いな」

「ありがとうございます。あの……」

 なぜ睨まれたのかが知りたかったのだが、それを聞く前に女将はつらつらと注意事項を話し始めた。

「誰が化け者かは顔と名前を覚えておくしかないのだから、なるべくたくさんの顔と名前を覚えな。それから、軽々しく蛇の姿にならない事。誰が見ているか分からないんだからね。人間は浅ましいからね。知られたら何をされるか分かったもんじゃない。それから」

 女将は一つ呼吸を置き、溜息を吐いてから続ける。

「この蛇長屋には一人だけ人間が住んでいる」

「まさか、それって」

「そうさ、さっきの男だ。あれは金がないとか言って無理やり入り込んできたんだよ。あんまり断るのもおかしく思われるし、普段なら嫌がらせをして追い出すんだがね」

「したらいいんじゃないんですか? 嫌がらせ」

「しているさ。毎晩、枕元を這いまわって家の物を落したり、耳元ですすり泣いてみたり、虫の死骸を置いてみたり色々やっているんだよ。だけどめげなくてね」

 何という豪胆な男だろうか。さっきの軽そうな印象ががらりと変わってしまうような話である。私なら、毎晩そんな事をされては早々に逃げ出しかねない。

「だからね、あんたも気を付けるんだよ。あの男は人間なんだからね」

「はい」

 返事とは裏腹に、私はあの雪平という男に関わりたくて仕方が無くなっていた。

「じゃあ、あたしは行くからね」

「はい。これからよろしくお願いします」

「はい、はい。よろしくね。問題だけは起こしておくれでないよ」

 私は女将を見送る振りをして雪平の部屋を窺う。そこからはまだ楽しげな声が聞こえており、仕事は続いているらしい事が分かる。

 しかし、注意されたばかりで関わる訳にはいかない。

 私は仕方なく女将が置いて行った化け者帳なるものを眺めながら、江戸に暮らす化け者たちの顔と名前を覚える事にした。


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