吟遊詩人の人生録
酔シグレ
前幕 吟遊詩人の置き手紙
Prologue 無個性な風景画
「…あら、随分到着が早いのね」
真鍮の扉をくぐって、書斎に入ってきた白衣の旅人の姿を認めるなりノワールはそう声をかける。長身の旅人は穏やかに笑って、後ろ手に扉を閉めた。
「ちょうど第八街区にいたんだ。久しぶりに曲を書きたいと思える出来事があってね。完成するまで滞在するつもりだったんだけど…君から呼び出されるなんて半世紀ぶりくらいだからさ。飛んできたよ」
「半世紀は言いすぎじゃない?それに、呼び出すのは久しぶりだけどつい最近第四街区で会ったじゃない」
「…君の言う『つい最近』は二か月前のあの日のことを指してるのかな?」
「…もう二か月も経ったの?そんな…」
苦笑する旅人の言葉で、ノワールは自分が思っているより年月の経過が早いことを再認識した。思わず両手で顔を覆う。
「まあ君は、基本ずっとここに缶詰だし。毎日ひたすら同じようなことをして過ごす日々じゃあ、時間の感覚がおかしくなっても仕方ないよ」
「…そう思うなら手伝ってくれてもいいのに。」
小声で苦言を呈したが、旅人には届かなかったのか「ん?何?」と聞き返される。何でもない、と返せば旅人は肩を竦めながら窓際の椅子にストン、と腰掛けた。
耳の少し下で切りそろえられた青髪、愁いを帯びた横顔、長い足をさり気なく組んで座る姿はどことなくミステリアスな雰囲気を醸し出している。窓の外を眺めていた切れ長の眸が、不意にこちらを向いた。
「それで?何かあったから、急ぎで僕を呼んだんだろう?」
「ああ…そうだった。…あなたに頼みたいことがあるの」
ノワールは言葉を選びながら、口を開いた。
第二街区の森に、不審な人影がある。
そう、ターミナルから報告があったのが数時間前。詳しく聞くと、今日こちらに来るはずのない者が突然、第二街区に落ちてきたのだと。
落ちてきたその人物の名前は、
ターミナルの記録全てどこにも名前は無く、何故こちらの世界に落ちてきたのかその一切が不明なのだそう。
「今その子は、第二街区の…丁度中心辺りに倒れているらしくてね。茜色の衣服を来た、二十代前半くらいの女の子」
「なるほど…で、僕にその子を迎えに行って欲しいってこと?」
「ええ、そう。目が覚めて、一面白銀の雪降る森の中に独りぼっちだったら、可哀そうでしょう?」
「それはそうだけど…ノワール、君が行けばいいじゃないか」
「私はちょっと今他のことで立て込んでて…迎えに行くの、気が進まない?」
「…」
旅人は沈黙する。
私が彼女の迎えを頼みたいのには、もう一つ理由があった。
『もう連れは作らない』
そう昔言い放っていた旅人に、短い間でももう一度連れを作ってあげたかったのだ。これは身勝手な私の願いだけど。
「…僕は連れを作るのに向いてない。君も知ってるだろう?」
「前のことを引きずっているのなら仕方ないわ。あれは誰にも止められなかった」
「だけど…」
「
旅人…時雨は再び口を閉ざした。私はただ、心の整理がつくのを待つ。
やがて観念したように、ゆっくりと目を開いて。
「…わかったよ」
時雨の答えに満足したノワールは、ニッコリと微笑んで立ち上がる。同時に時雨も億劫そうに腰を上げた。塔の入り口まで送ろうと、先に扉を開いて促す。
「第二街区か…その子が落ちてきたのは、正確に何時間前の話?」
「ええと…確か、四時間前くらいだったと思うわ…」
「そんなに前なのか?ならもうとっくに目を覚まして、どこか別の場所に行ってるかも…」
「大丈夫。目を覚ました時点で連絡してって
「ならいいけど…歩いて向かうには時間がかかりすぎるな。ターミナルから直接降りる方が早そうだ」
「それはそうね。寧々に、今から時雨が行くって伝えておくわ」
長い螺旋階段を下りながら、必要な確認を済ませていく。コツコツ、と時雨の履くブーツの靴音とノワールのヒールの音が反響して混ざり合う。色んな街を巡り歩く時雨のブーツはかかとがすり減っているのに対して、滅多に出歩かないノワールのヒールはピカピカのままだ。
「八街区で作っていた曲は、もう出来たの?」
「まだだよ、言ったじゃないか。途中で君に呼ばれた」
「ああ…ごめんなさい。また、誰かのための曲?」
問いかければ、時雨は微かに笑った。
「そうだよ。僕が曲を書くのは、書き残しておきたい何かがあった時と、誰かのため残しておきたい時だけだから」
「…完成したら聞かせてね、楽しみにしてる」
最後の一段に辿り着いた時雨が、小さく首肯した。
眩しい太陽光と、真上に天高く沈黙する三日月。
昼間の時間、太陽と三日月が同時に掲げられるこの街の空が、ノワールはとても好きだ。そよ風に揺れる長い髪を左手で抑えながら、旅立とうとする時雨の背中を見つめる。
「それじゃあ、よろしくね。私も気にかけているから、何かあれば駆け付けるわ」
「わかった。寧々に連絡だけよろしくね」
「ええ。…あ、ねえ、時雨?」
「ん?何?」
歩き出そうとしていた時雨が、振り返る。問いかけるような眼差しに、少し躊躇した。でも、時雨と会える機会はそう多くない。聞けるときに聞いておくべきだと、口を開く。
「あの曲…あの楽譜はもう、完成したの?」
曲名だけが記載された、その楽譜について。尋ねられた時雨は短い逡巡の後、ゆっくりと首を横に振る。
「中々思いつかないんだ…詩を書くのにこんなに苦労したことないんだけどね」
「…まあ、焦らず気長に書いたらいいわよ。すぐに使うものでもないんだし」
自分で尋ねておいて言うのもおかしいが、悲しく微笑して目を伏せた時雨を見て思わず慰めた。急かすつもりは毛頭なく、単純にあの楽譜の行く末が気になっただけだったのだ。
「その時、っていうのは急に来るものだからさ。なるべく早く完成させたい気持ちは山々なんだよ」
「大丈夫、きっとすぐ浮かぶわ。貴方は…吟遊詩人だもの」
心の底からの言葉だった。時雨は曖昧に笑って、片手を上げ背を向ける。
「まずはその子を見守らなくちゃね。何かわかったことがあれば伝えるよ」
「ええ…お願いね」
手を振って歩き去っていく時雨の背中を見送る。白いマントが風にたなびいて、ふわっと揺れている。その姿が見えなくなるまで、ノワールは静かにその姿を見守っていた。
吟遊詩人。誰かの物語を、人生を、思いを音楽にして語り継いでゆく旅人。
「…どうか、何も起こりませんように」
幾度となく見送ってきたその背中に、微かだが不穏な何かが纏わりついているように見えて。ノワールは祈るように、そう呟いた。
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