隣人のミリシア

酒都レン

◯章

 ステンドガラスは外の日の光を吸い込み、周囲の色と共に、私が、教会全体が七色の光で染め上げられていた。

 白い薔薇と赤い百合、そして三人の人間が描かれたステンドガラスに私はため息が出る。

 中央に、剣を掲げた一人の青年、白にも見える金髪に青い瞳を持つ彼の右隣には、彼を見守るように四枚の翼を持った女性が浮び、その青年の左に椅子に座った老齢の婦人がスイートピーを青年に捧げている。

「しん…しんぷ…新婦!!」

「え?」

 耳元で叫ばれ、私は肩を跳ね上げる。

 声がした方へ顔を向けると、私より年が六つほど離れた青年が私の顔を心配そうに覗き込んでいた。

「アニア、誓いの言葉…」

「あ…うん」

 話を聞いていなかったことに気分を害した様子の神父は咳払いをし私から視線をそらす。

「メイジ村の酒場メイディス・イリイーナの娘、新婦アニア・スカーレット・イリイーナ。あなたもまたここにいるマリック・ジョシュア・アヴァクモフを悲しみ深い時も喜びに充ちた時も共に過ごし、愛をもって互いに支えあうことを誓いますか?」

 14歳になって1週間後、私は好きでもない男と結婚する。

 いや、好きでもないというわけではない。彼のことはずっと兄のように慕ってきたため好きに近い感情はある、ただ恋愛感情がないだけ。

 不安になってマリックの方をちらりと見ると、彼は小さく笑っていた。

 私が「はい」と同意するだろうと確信し、彼は自信に満ち溢れているからそんな風に笑えるのだろうか。

 後ろですすり泣くような声を上げている母さんが気になり横目で見るが、すぐに視線を戻し、神父の顔を真っすぐに見つめる。

 古いドレスながらも真珠のように純白でまるで天使の羽のようにきよらかで、それでいてどこか強く気高さを感じられるこのドレスは、母さんが結婚式で着たドレスを夜なべしてまた仕立ててくれたものだった。

 そのベールは蝶の羽のようにきめ細かく、柔らかなシルクの生地で出来ており、みすぼらしい私を可憐に彩る。

 結婚こそが幸せかなど14歳の私には全くわからない。

 しかし、もし結婚が幸せならば今結婚する私は世界一の幸せ者なはず。

 ただ私の幸せだけを祈って育ててくれた母さんの期待に私は応えないといけない。

 それが私の定めだから。

 マリックのことを愛せるかなんて、わからない。

 でも母さんがこの人がいいというなら、私は幸せになれる気がするのだ。

 もし彼が私のことを心から愛してくれるのなら、私も彼に心の底からの愛を捧げることができる…気がする。

 そう思うと自然と笑みがこぼれた。

「はい、誓います」

「よろしい、それでは指輪の交換を」

 彼は私の手を取り、そっと薬指に銀のシンプルな柄が彫られたリングをはめる。同じように私も彼の指にリングを通す。

 ベール越しに見るマリックはいつもの柔らかな笑みを浮かべていて、彼なら少しだけでも愛せる気がすると思えた。

 私の目の前に歩み寄る彼がベールを上げると、彼の青い空のような瞳は少し潤み輝いていた。

 小さな教会の中はステンドガラスからの七色の光で溢れ、母の喜びの涙に溢れた顔も、微笑ましく私たちを見る彼の家族の顔も、神父の厳かな表情も、何もかもが眩しく見えた。

 ああ…私って今幸せなんだ。

「誓いの口づけを」

 私は彼を見上げる。彼は私に軽く微笑むと、私の顔を近づける。

 私は少し背伸びをして目を閉じた。

 びゅぅん―じゅぎゃ。

 そんな間の抜けた音と共に顔に生暖かいものが降りかかる。

 それはどろりとしていて、やけに鉄臭くて、女の香りがした。

 鼻先に手を持っていくとぬるりと温かいものに触れた。

 血だ。母さんが栽培している薔薇の赤とは違う炭のように真っ黒な赤だ。

 まるでスローモーションのようにゆっくりとゆっくりと、見たくないものを見るように私はマリックの頭に視線を移す。

「えっ…」

 それは私が聞いた彼が最後に漏らした声だった。

 頭には小さな穴を、顔には大きな穴を開け、何があったのか理解出来ないという彼の表情はこの世の人間のものには見えなかった。彼の胴体が私に覆いかぶさるように倒れてくる。

「ま…マリック…?」

 顔と頭からあふれ出す血が私の顔を、私のベールを、ドレスを全て真っ赤に染めていく。

「大変ですっ!!しゅ…襲撃ですっ!!」

 単純な音が三つその場に流れた。

 扉の隙間から外の様子を見たシスターの潰れた声が教会内に響きわたる音、そしてその隙間から弾丸が引き裂くように電光石火の如く飛び出し彼女の目玉と脳漿が飛び散り床に跳ねる音。

 そして体を自立できず一回舞った後、力なく崩れてシスターの体が倒れた音。

 私は耳を塞ぎ、目を瞑る。

「ひっ…!! なに、なんなの? どういうこと…?」

「ニアっ!!」

 母さんが私を庇うように前に出る。しかしその両手は震えていて、恐怖を押し殺せていない。

「大丈夫よ、ニア。…全て大丈夫だから母さんに任せなさい」

 そう強がる母さんの声は震えていた。母さんが泣きながら私の手を握り締める。父さんが死んだ時とも私が結婚する瞬間とも違う顔、今私の前にいる母さんは14年一緒にいて一度も見たことのない表情をしていた。

「神父、銃はどこですかっ!?」

 母さんは神父に問う。しかし呆然として尻餅をついた彼はただ神に祈り、母さんの問いに答えることができなかった。

「神父っ!!今は一人でも生き残る方法を考えるしかないんですっ!!銃があるんでしょ…どこだってきいてんだ!?」

 母さんは怒鳴り声をあげ神父の胸元を掴む。神父はへなへなと腰を抜かし、這いつくばるように銃が置いてある場所へ向かう。

「早くしてっ!!」

 恐怖で腰が引けている者や神に祈りをささげる者…誰もかれもがこの状況に立ち向かう勇気はなかった。ただ母さんを除いて。

「ま…マスカット銃三丁とあとナイフが一振り…」

 神父が震えた手でマスカット銃と折りたたみ式ナイフを母さんに押し付ける。

「これのみしかないの…?」

 神父は激しく、震えながらも母さんの目を見て頷いた。

 母さんは天を仰いで神に祈ると、何かを決心した様子で大きく息を吸い込む。

 いやだ…。いやだ…こんなの夢だ。今起きてることが現実なはずがない…現実であっていいわけがない。

 私は今自分の身に起きていることを必死に否定しようと脳が考えるのを拒否し、ただただ茫然と座りつくしていた。

 母さんはというと、いつの間にかマリックの家族とお互い掴みあうような形になり、必死の形相で叫び合い、母さんが何かマリック家族を説得しようよしているが私には何も聞き取ることができなかった。

「アニア・イリイーナ」

 母さんは、私に小さくも力強く呼びかける。

 そして私に一歩、一歩と歩みを寄りそして私に折り畳みナイフを差し出した。

 そのずっしりとした冷たい重みに私は生唾を飲み込む。

「私たちは今から外に行ってくるわ…その間絶対に教会から出てはダメよ?大人しく静かに待ってるの…何かあったら、そのナイフを使いなさい」

 私は母に抱きつく。彼女の震えが伝わり私の震えと重なった。そして彼女は私の顔をじっとみつめると、優しい笑みを浮かべる。

「私は学がないから華やかな言葉をニアに送れないけど…あなたのことが大好きよ」

 そういうと、母さんは私の額に自分の唇を重ねた。そして私を強く抱き締める。その反動で私が纏っていたヴェールは床に落ちたが、気にもならなかった。

 母さんの体がゆっくりと私から離れていくのがわかると、目頭が熱くなった。

 いやだ、父さんの時みたいにもう置いて行かれたくないと思った時には声が絞り出されていた。

「かぁ…母さん」

 ただ一言。その言葉しか出てこなかったのだ。

 母さんはそんな私をみて少し驚いた表情をした。

 そして再び優しく微笑むと、私の頭に手を置いた。

「ニア…行ってきます」

 ニカっと笑う顔には先程の不安や恐怖は一切なく、小さい時に泣いてる私をあやすとき見せたあの無邪気な笑顔と一緒だ。

 私は立ち上がって追いかけることも、縋り付いてでも母さんを止めることもできなくてただその背中を見送ることしかできなかった。

 扉が閉まり、カチャリという鍵のかかる音が教会内に響く。

 その背中が見えなくなっても私は母さんが通った通路をじっと見つめ続けた。

 教会内には血の匂いが立ち込めている。鼻から血を滴らせて顔が半壊したシスターとマリックの亡骸が私のまわりに転がっていた。

 鉄の臭いと生温い赤に私は気持ち悪さを覚え、吐きそうになる。

 しかしそれは喉元で止まったまま私の胃の中に戻ることはなく首元でぐるぐると渦を巻いただけだった。

 耳を塞いでても血肉がつぶれる音や断末魔のような悲鳴が、外からずっと聞こえてその度に私は肩を震わした。

 あの悲鳴の中に母さんのものが混じっていないことを願うことしかできない私に無力さを感じた。

 気持ちを押し殺し、目をぎゅっと瞑る。

「私だけここにいるなんていやだ…私も行かなきゃ…」

 私は立ち上がり生乾きの血でべたべたする、母さんの花嫁衣裳を引きずりシスターの死体を押しのけ真っ赤な光が見える方向に進む。

 しかし、扉を渾身の力で押しても少し隙間が開いただけでビクともしなかった。

 鍵だ。母さんが私が教会から出ないように南京錠の鍵を外からかけたんだ。

 必死に押したり、叩いたりしたが扉はビクともしなかった。ただ手のひらだけが赤くなるだけ。

 私には何もできないの…?扉を一枚隔てた向こうで母さんたちは戦っているというのに無力にもこんなところでじっとしていることしか出来ないの?

 何か今の私にできることはないか、と私は扉の隙間から外を見る。

「あっ…」

 そこから見える世界はあまりにも無惨で、あまりにも非現実で、秩序というものすらない地獄そのものだった。

 地面に転がる人々の四肢は切れ、体の半分しか繋がってないものや片足だけが転がっているもの。頭が割れて脳漿が垂れているものもいた。

 その中には同じ村の見知った顔が何個か転がっているが、ある一点を見た私にはそれらの人間なんてただの背景に過ぎなかった。

 地獄の中心には母さんが…後頭部に銃を突きつけられ地面に頭をつけていたのだ。

「かあさん?かあさんっ…母さん…母さんっ…かあさああああぁぁぁぁんっ!!」

 扉を激しく叩きながら母さんを呼ぶも私の声は母さんには届かない。

 母さんはもう諦めたように目を瞑り、全てを神に委ねているように見えた。

「かあさんっ…お願い…やめてよ…誰か助けてよっ!!」

 無駄だとわかっていても、私は扉を強く叩きながら泣き叫ぶ。

 声が枯れてもなお叫ぶがそれでもやはり誰一人としてその声に反応することはなかった。

 母さんの隣には先ほど教会から母さんと共に出て行ったマリックの家族と神父が並んでいるが、その顔は潰され腹が裂けていて、もう人の原型をとどめてないため誰が誰なのかも、男か女かすらもわからなかった。

「私は何も後悔していないっ!!私の死は家族のために…!!」

 母さんは銃を頭に突きつけられながらも、怯えることなくその銃の持ち主に向かって叫ぶ。

 男は母さんの頭を掴み地面にねじ伏せた。

「愛している…この世界の誰よりも」

 鈍い骨のきしむ音と共にその言葉が私の耳にも届いた気がした。

 そして男の指にかけられた死を導く引き金を、弾丸が解き放ち私は目を瞑る。

 ―ごんっ…と鈍い音が鼓膜を揺らす。

 銃声が二回ほど鳴り、目を開ける。

 そこにあるのは力無くぐったりとした母さんが「それ」に変わったものだった。

 ただピクリとも動くこともなく、その瞳には光さえ宿っていなかった。

「あっ…あっ…ああ…あ…」

 声にならない声が出て、全身の力が抜けその場に座り込む。

 目の奥が熱くなりボロボロと涙が止まらない。奥歯をかみ締めなんとか声を出さないように堪えるので精一杯だった。

 嗚咽も漏れ出す声も押さえられず、涙だけが流れに任せ、それを拭うことすらできなかった。

「くそぉ…くそがぁあっ!!」

 私はその場にあった椅子を両手に持って、力の限り扉に叩きつける。

 何度も何度も叩きつけるが、扉はビクともせずただ私の手からは血が流れるだけだった。

 しかしそんなことに私は気づかず、手にできた傷も痛みなどにも気に留めず、ひたすら叩き続けた。

 叩いても殴っても一向に変化のないその扉に心が折れかけ涙がこぼれる。

 びゅん、と破裂するような音がしたのはその時だった。

 弾は火花を散らすようなバチンっと音ともに勢いよく金属が擦れるような鈍い音をさせ、扉を貫き私の頬をかすめる。私の頬の皮膚を裂き肉が削がれ、そこから熱いものがツーっと垂れるのを感じた。

 突然のことに腰を抜かし尻餅をついてしまったが、今はそれどころではなかった。

 南京錠が落ちる音ともに扉がゆっくりと開いたのだ。

 軋む音が私の鼓膜を刺激し心臓がドクンと脈打つのを感じた。

 外に出られる…母さんのもとに行けるんだ。

「あいつを…殺す…殺してやる!!」

 私はナイフを握りしめ、服は焼かれ肌を焦がし、痛いという感覚さえ通り越して私はただただ重く粘ついた体で走り出す。

 熱風が私の体をなめるように撫でる。炎はまるで生きているように、私をあざ笑うかのように踊りながら死体の山を溶かしていく。

 私の向かう先にいる母さんを…母さんを殺した男は快感を得たような興奮をした様子で目線が定まっていなかった。

 息が荒く、そして肩を上下させて自分の仲間にヘラヘラと笑っている彼の姿に吐き気を覚える。

 なぜ笑えるの…人の親を…私の母さんを殺して…それなのにこいつはなんで笑えるの…!?

 怒りがこみ上げると同時に、こいつは私から母を奪ったんだと私はより激しい悲しみを覚えた。

 歯を食いしばり、ナイフを握りしめる。奥歯がミシミシと音をたて、ブチッという音が頭の中に響いたと同時に口に血の味が広がるのを感じる。

 そして私は彼をめがけて飛び出した。

 その瞬間は無我夢中だった…私の中から大切な何かが抜け落ちていくような感じがした。

 それは自分の命でさえも同じだと感じた。恐怖もなにもかもが抜け落ちて、ただ目の前に立つこいつを殺すことしかもう頭になかった。

 男が私に気づいた時には、彼もろとも押し倒すような形で私は地面に伏せ彼の頭をつかみ彼の首の肉を私の歯で思い切り食いちぎる。

「うああああああああああ」

 ミシミシと骨が軋む音と共に生温い液体が私の口の端から零れるのを感じる。男は馬鹿みたいに情けない悲鳴を上げていた。

 私は噛みついたまま、体重をかけ彼の首を地面に押し付けるように動いた。

 左手に握られたナイフがそのまま垂直に降り、カチャリと金属が擦れる音がした。

 それから錆びついたような独特の味がする匂いが私の鼻をくすぐる。

 男はそれでもまだ抵抗するように、這いつくばった状態で私の下でじたばたもがいていたが次第にその動きは鈍くなり、そしてぷつりと動きを止めた。

 私を覆い囲む彼の仲間と私の間に沈黙が流れた。聞こえるのは、燃え盛る炎の音だけだ。

 そして最初にその沈黙を破ったのは私だった。ナイフにべったりとついた血を振るい落としながら私は立ち上がった。

「な、なんだこいつ…!?」「もう一人仲間がいたのかっ!?」「殺すんだ…殺せぇぇぇ!!」

 無数の銃が私を狙い引き金に指をかける。だが私は臆することなくナイフを強く握り直し、近づいてくる男達に刃を向け走りだす。

 腕を切りつけ腹を突き刺し喉をかき切る。弾を避けずにそのまま突っ込むことも躊躇せず、体のいたるところから熱い血が噴き出るのを感じたがその痛みの感覚がどんどんと麻痺していくようだった。

 恐怖も高揚感も何も感じない…ただ体だけが動いている。いや、正確に言えば動いているような錯覚をしていた。

 超人でもない私の体はいとも簡単に崩れ落ちる。体にいくつもの穴が開きそこからドクドクと血が垂れ流れた。

 男たちはそれでも私に銃を向けながら近付いてくる。

 地に伏せたまま動けずただ近づいてくる男たちを見上げたが私の脳は死滅寸前でほとんど機能していなかった。

「どうして…私は何もできないの…こんなに弱い…」

 私の意識はここで途絶え、息をハッと吹き返し目を見開いた私はベッドに横たわっていた。

 全身に汗をかいていて、心拍数は激しく動悸がおさまらない。

 荒く息をしながら体を起こしそのままベッドに座り込む。その間も心臓はずっと暴れたままだ。

 なんとか落ち着こうとゆっくりと深呼吸をして体を丸め膝に顔をうずめる。

「またこの夢…っは…馬鹿みたい」

 そう、全て夢だ。全部ここ3ヶ月見続けている私の悪夢だ。

 本当に馬鹿みたい。実際は母さんは死んでないし、なんなら名前すら違うし容姿も全く違うことを私は知っている。

 私は誰とも結婚などしてないし、人生で一度も村など行ったこともないし、あんな見すぼらしい教会なんて見たこともきいたこともない。

 現に私の体には先ほど夢に出てきたような弾丸がめり込んだ痕なんて一つもない、まっさらな真っ白な肌だ。

「わかってるのに…わかってるのになんでこんなに辛いんだろう…」

 母さんを失った時の記憶も、人を殺したときの感覚も、全てこの夢の中の記憶はやけにリアルに感じてしまっていた。

 まるで本当に経験をしたような感覚。

 震える膝でなんとか立ち上がり、窓の外を見る。

 窓の向こう側は真っ白で、眩しいくらいの陽射しが部屋の中に差し込みキラキラと光って見えた。

 その綺麗な光景に見惚れつつ大きく息を吸うと肺に冷たい空気が流れ込むのを感じた。

「もう…起きよ」

 私は濡れた目元を拭いながら真っ黒な制服を着る。

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