第25話 愛しい子
◇◇◇◇◇
「お誕生日おめでとう! わたしの愛しい子」
ある日の晩のことである。
その日は、少女の七回目の誕生日だった。
母子二人だけのせまい食卓には、いつもより豪華な夕食。テーブルの真ん中には、小さいけれどかわいらしいケーキが堂々と鎮座していた。
「ママ、ありがとう!」
少女には父親がいない。
生活はけっして裕福ではなかったが、それでも少女は幸せだった。
ほかの誰よりも、とびきり愛してくれる母がいたからだ。たとえ学校でいじめられ、町の人から石を投げられ、白い目で見られていたとしても。
「さあ座って! わたしのかわいいプリンセス」
自分のために用意された、年に一度の二人きりのパーティ。
今夜は少女にとって、最高の夜になるはずだった。
「っ!?」
母と二人、会話を弾ませ楽しく食卓を囲んでいたときである。
一瞬息を飲んだ母が、険しい表情を浮かべて、じっ、と窓を凝視した。なにか言おうとした少女を手のひらで制して、彼女は静かに席を立つ。
足音を立てないように窓へと近づいた母は、つぎはぎだらけのカーテンのすきまからそっと外の様子をうかがう。
遠くのほうから聞こえた雷鳴が、張りつめたリビングの空気を揺らした。
小さく悲鳴を飲み込んだ母の表情が、みるみる青ざめていく。
彼女は食卓の少女へと駆け寄ると、きょとんとしている少女の腕を強引に引いた。
母につかまれた手首が痛かったが、逆らえるような雰囲気ではない。母の様子からただごとではないんだと感じ、少女には黙って従うことしかできなかった。
母は、ひどく焦っている。
倒れたイスには目もくれず、母は少女を引きずるようにして、せまい戸棚の中へと少女の体を押しこんだ。そうして何度も何度も、母は少女に念を押す。
良いと言うまで、けっして物音を立てたり、戸棚から出てきたりしてはだめだ、と。
少女は首が痛くなるほどに、何度も母の目を見てうなづいた。
ピシャリ、と閉められた戸棚の中は真っ暗で、息が詰まりそうだった。
少女は母に言われたとおり、膝をかかえて小さくうずくまり、時が過ぎるのをただひたすらに待った。
自分の呼吸する音が、やけに響いている気がしてならない。
少女は無意識に息を殺す。
すぐに聞こえてきたのは、聞き慣れない声色をした母の声と、知らない男の声だった。
母は怒っているのか、男に対してしきりになにかわめき散らしている。
しかし男のほうは、母の怒りなど意に介さず、
「っ!?」
大きな物音と、割れる食器の音に肩が跳ねた。
母親の怒鳴り声が、恐怖のそれへと変わっていく。
少女は戸棚の引き戸を少しだけ開けてみる。
母の言いつけを破ったのはただの興味本意だった。なにかを必死に拒絶する母の声に、戸棚の外でなにが起きているのか知りたかった。
「っ……!?」
少女は目の当たりにした光景に、おもわず声を上げそうになる。
今夜自分のためにと用意された料理は、皿ごと無惨にも床に散らばり、ケーキはぐしゃぐしゃに崩れてしまっている。
しかし彼女の驚愕させたのはそれだけではない。
料理とケーキが並んでいたはずの食卓に仰向けに押し倒された母の上に、男は覆いかぶさるようにして体を重ねていた。
幼いながらに、少女は二人がなにをしているのか理解できた。
恐怖と拒絶が入り交じった声色が、次第に一人の女の嬌声へと変わっていく。
部屋中に響く艶かしい行為の音に耳をふさいでも、指のすきまから否応なしに聞こえてくるそれに唇を噛んだ。
――やだやだやだっ、ママ、ママ……! 助けて……、誰か……、助けてよっ……!!
音が、パタリとやんだ。
少女はおそるおそる目を開け、外の様子をうかがう。
こちらをじっと凝視する、老婆のように干からびてしまった母と目が合った。
大きく見開かれた瞳はまばたきをすることはない。
のけぞるようにして食卓の上に転がる母であったものは、ぴくりとも動かなかった。
くらくらと揺れてぼやける視線は、母の死体の奥へと向けられる。
口の端から真っ赤な血を滴らせながら、男はこちらを見て嗤っていた。
「――ザ……!」
「っ! うぅ……」
「エルザ!!」
すぐそばで名を呼ぶ声に、急速にエルザの意識が覚醒する。まぶたを上げれば、眉を下げ心配そうにこちらを覗きこむギルベルトがいた。
「!? …………ぎ、る?」
「エルザ、大丈夫? 怖い夢でも見た?」
エルザの頭の下に片腕を通したまま、体を半分だけ起こした彼はそっとエルザの頬に手を添える。
――あたし……、泣いてる……?
優しく目尻をぬぐう手に、エルザはひどく胸が締めつけられた。
汗ばんだひたいに張りついた前髪が気持ち悪い。金縛りにでもあったかのように、体が硬直してしまっていた。
「ん……、なんでも、ない……」
そっ、と壊れものを扱うかのように頬をなでる指先に、ゆっくりと体の緊張がとけていく気がした。
エルザは小さくつぶやくと、ギルベルトのほうへ寝返りを打つ。そうして彼のシャツをくしゃりとつかむと、背中を丸めて彼の胸板にひたいを押しつけた。
いまは、誰かのぬくもりが恋しくてたまらない。
「よしよし、俺はここにいるから大丈夫だよ。安心しておやすみ」
ギルベルトは腕枕となっている肘を曲げて、エルザの頭を優しくなでる。反対の腕は包みこむように彼女の背に回し、ゆっくりとリズムを刻む。
少しでもエルザが安らげるようにと、ギルベルトはそっと耳元で語りかける。
次第に、こわばっていたエルザの肩から力が抜けていく。
規則正しい寝息を漏らす彼女の寝顔に、ギルベルトはようやく、ほっと胸をなで下ろした。
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